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<< ボストン旅行記 >>

8、冬馬

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「嫌です」

 そう答えた途端、『患者から尊敬される医師』を体現したような穏やかで 悠然ゆうぜんとしたジョンの顔が、あっけなく崩れた。
 口をぽかんと開けて「えっ?」と一言発したきり、しばし言葉を失ったのだ。

 ジョンの言っている意味は良くわかる。何故そう言ったのかも。
 大志は自分の桜子への想いにこの医師が気付いたと分かった時に、俺を支えてくれる人間として彼を選んだのだろう。

 大志は俺がアイツのために自分の人生を犠牲にしたと思っていた。
 大手弁護士事務所を辞めてアイツの事務所に移った時、アイツが病気になった時、そしてその死後の行動も……俺自身がそうしようと決め、自分で望んで行動したにも関わらず、大志は罪悪感を感じていたんだと思う。

 だからこそアイツは事あるごとに『すまない』、『悪かったな』と謝罪の言葉を繰り返し、ジョンへの手紙でまで俺のことに触れたんだろう。

 大志の桜子への気持ち、アイツの病気、そして手術。
 アイツの共犯者となって秘密と嘘を積み重ねていくことは、確かに俺にとって大きな心のおりになっていた。
 そして何より、大志が桜子を1人の女性として愛しているという門外不出の秘密は長い間俺を苦しめ縛り付けていた。


『重い荷物』、確かにそうなんだろう……と思う。
 それらは今も俺の肩にズッシリと覆い被さり、決して下ろすことは許されない。責任も重圧もある。アイツから託されたものは何一つ疎かになんて出来やしない。
 辛くないかと聞かれれば、そりゃあ辛い時だってある。仕事をしていても『大志がいてくれたら』……と思う場面は数えきれないし、経営者としてのプレッシャーに押し潰されそうになることもある。

 桜子のことだって……もしも大志が生きていたらどうなっていたのだろう……という考えが幾度も頭を駆け巡り、仄暗い嫉妬や罪悪感で落ち込みもする。

ーーだけどそれも今となっては……。

 負担でも重荷でもない。アイツが遺してくれた大切な宝物なんだ。

 桜子との生活、事務所の仕事や同僚、それらは全て大志から譲り受けた俺の財産だ。
 アイツと過ごした時間や思い出、共に流した涙でさえも、俺の血となり肉となり、今の俺を支えるエネルギーとなっている。

 これだけは断言できる。アイツから預かった荷物は、俺の人生を邪魔してなんかいない。大志亡き後の俺が生きるかてとなっているんだ……。

「今俺が抱えているのは、自分の進むべき道を示す道標であり、背中を押してくれるタイシの声です。これを失うなんて考えられません」

「君は構わないのかい? この先何十年とサクラと過ごしながら、その事に触れずに生きていくというのは……」

 辛すぎるだろう?……というジョンの言葉に、俺は首を縦にも横にも振らず、ただフッと微笑んでみせた。

「ジョン、あなたの言っている『その事』については、敢えてノーコメントにさせて下さい。答えは俺と大志だけの秘密です」

「……大志と同じことを言うんだな」

 同じと聞いて、妙に誇らしくなる。

「こちらが全てを情報開示したのに君は何も教えてくれないなんて、随分アンフェアだと思わないか?」

 ジョンが呆れたように肩を竦めたけれど、別段怒っている訳では無さそうで、口元に微笑みを浮かべながら俺のグラスにウイスキーを注ぎ足している。

「まあ……君がそう言うだろうということも、タイシは予測していたみたいだけどね」

ーーはぁ?

「予測って……大志がそんなことを言ったんですか?」

「ハハハッ、トウマは真面目で頑固だから、もしかしたら1人で荷物を抱え続けようとするかも知れない……ってね。ビンゴだったな」

 ウインクされて、思わず天井を仰いだ。

ーーくそっ、アイツはどこまでお見通しなんだよ。死んでまで俺に実力を見せつけやがって。

「大志は2歩も3歩も先を見据えて行動できる優秀な男でした。俺が一生掛かったって追い付けない……」

ーーだけどな、大志。お前はちょっと読み違えてるぞ。

 俺がどれだけお前を好きだったかが分かっていない……。

「ジョン、俺はそんなに真面目でも無いし、アイツに操を立てて約束を守ろうと必死になっている訳でもない」

「ほう……と言うと?」

「前に電話でも言いましたが……俺はあなたに嫉妬してるんですよ」
「私へのジェラシーで秘密を言いたくないと?」

「全くその通りです」

 ジョンの口角が愉しげに上がった。

「大志が信頼した人物だ。本当なら何を打ち明けたって構わないんでしょうけど……俺が嫌なんです」

 アイツが俺の知らない間に海の向こう側で親友を作っていた。しかも秘密を共有していた。それが悔しくて堪らなかった。

「だからすいません、一番のトップシークレットは誰にも渡しません」

 こんなのは言葉遊びだ。
 ハッキリ言わないにせよジョンは既に答えに辿り着いているし、それを承知で核心には触れずにいるだけ。

ーーそれでもいいんだ。

 あの日、成人式の帰りに大志が語った桜子への切ない想いも、彼女に病気を隠し続けると決めた時の苦渋の表情も、俺に桜子を託した時の悟ったような消え入りそうな笑顔も、俺だけが知っていればいい。

 アイツの熱くて苦しい想いは、同時に俺の苦しみでもある。それを丸ごと受け止めて、桜子を一生愛し抜くと、あの日アイツの墓の前で誓ったから……。

 これは未来永劫、俺が1人で抱えて行く……そう決めたんだ。


 ジョンが紙袋に半分以上減ったウイスキーのボトルとグラスを片付け始めたのを合図に、一緒に立ち上がった。

 ドアまで歩いたところで立ち止まって、最後にもう一度だけベッドを振り返った。

 一瞬、大志が振り返って笑顔を浮かべてジョンに語りかけている姿が、すぐ隣に見えたような気がした。

『俺さ、桜子とは血が繋がっていないんだ』

『good luck!』

 だけどそれも、ジョンがパチリと電気を消してドアを閉めた途端に、暗闇の中に消えて行った。
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