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<< ボストン旅行記 >>
5、ジョン
しおりを挟むシーフードレストランの小綺麗なトイレ。
その個室から聞こえてきた水っぽい音。
あの時タイシは嗚咽を漏らしながら、食べたばかりの物を吐き出していた。
口元を拭いながら出て来て……そこに私を見付けた時のタイシの絶望的な目を今も忘れられない。
驚くことに彼はその後も痛みをひた隠しにし、脂汗の浮かぶ顔に笑顔を貼り付けて、最後まで会食の場に留まり続けた。
あの姿を見た時にはもう、私は彼を敬拝し、目が離せなくなっていたのだろう。
「さあ、ここだ。歩けるかい?」
先にタクシーを降りて手を差し伸べると、タイシは私の手を取って車外に出て、軽くふらつきながらも自分の足で立ち、白い建物をゆっくり見上げた。
「ここがあなたのクリニックですか」
「ここの1階で1部屋借りているんだ。我々はオフィスと呼んでいるけどね。日本では個人の診療所をクリニックと言うのかな」
「そうなんですか……一つ勉強になった……っ」
胃を押さえて前屈みになりながらも笑顔を作って見せる彼を慌てて支え、ゆっくりと建物に入った。
「すいません……また……吐き気が…」
「ああ、遠慮せず全部出しなさい。トイレはこちらだ」
廊下の突き当たりにあるドアを開けてやると、タイシは中に駆け込んで跪き、便座に顔を突っ込むようにして嘔吐した。
レストランでもタクシーの中でもずっと耐えていたのだろう。
その強靭な精神力には舌を巻くしかなかった。
その間に私は点滴のスタンバイをし、診察室の中で彼を待った。
声を上げながら吐いている姿など他人に見せたくないだろうと思ったから。
10分経っても戻って来なければ様子を見に行こうと思っていたら、彼は7~8分程して診察室に入って来た。
「……すいませんでした」
「何ひとつ謝ることはない。さあ、ベッドに横になってくれるかな。まずは診察させて欲しい」
ありがとうございます……とタイシはゆっくりとベッドに上がり、横たわる。
青ざめた顔には生気が無く、唇も色を失っていた。吐く時に力が入ったせいだろう、目が充血している。頬には涙の跡もあった。
全身の触診と聴診をし、ペンライトで眼窩の様子、喉や舌を観察する。
血圧はやや高めで脈拍も速かったが、吐いた直後だという事を考えれば正常範囲内だろう。
心電図にも異常波形は見られない。
ーー皮膚に張りがないし、唇も舌もかなり荒れているな。
ちゃんと食事を食べられていないのだろう……と思った。
熱が無いから解熱剤は必要なさそうだ。
栄養剤の点滴に吐き気止めと痛み止めを入れるとするか。鉄剤は……採血して貧血の有無を確認してからだな。
「これから30分くらいかけてゆっくり点滴を落とす。もしも気分が悪くなるようなら教えてくれ」
少し休ませてやった方がいいだろうと思い、気を利かせるつもりでデスクに向かってカルテの記入をしていると、背中に声が掛けられた。
「ジョン……紹介状と俺の状態を見てのあなたの見立てでは、俺の寿命はどれくらいなの?」
「それは……」
俺は返事を躊躇した。
長年の経験値から大まかな予想は出来る。だけどその意見が日本の主治医の見解と違うのはマズイし、クリスチャンの自分と日本人とは生死観に違いもあるだろう。
「タイシ、それはハッキリは言えないよ。今ここにある情報だけではデータ不足だし、病気の予後なんて様々なファクターによって変わるものなんだ」
「ジョン、俺が聞きたいのはそんな言葉じゃない」
今までにない低い声音で言われて、椅子ごとハッと振り返った。
枕に頭をつけたまま、鋭い視線だけがこちらに向けられている。
さっきまで幼く柔らかく見えていたその顔が、今は年相応の大人の男の顔になっていた。
「何も死亡日時をハッキリ教えてくれって言ってるわけじゃないんだ。ジョンの医師としての経験値では、俺がいつまで生きられると思うのかを言って欲しいだけなんだ」
「タイシ……」
鋭い目線で射抜かれて、これ以上曖昧な言葉で逃げるのは無理だと思った。
彼が求めているのは誤魔化しや慰めではないのだ。
俺は一旦立ち上がると、ベッドサイドの黒い回転椅子に座ってタイシの手を取った。
「……3から5ヶ月」
その数字を聞いた途端、彼の目が大きく見開かれ、喉がゴクリと鳴るのが聞こえた。
俺は握る手に力を込めて言葉を続ける。
「タイシ、ただしそれはこのまま何もせずに放置していた場合は……というシビアな見立てだ。抗がん剤も対症療法も何もせず癌細胞をのさばらせていれば、食事も出来なくなり抵抗力が奪われ死を待つだけだ。だけど……」
「抗えばその先がある……ということだね」
俺は大きく頷く。
「そうだ。化学療法で効果があれば癌の進行を防ぐことが出来る。薬で痛みや下痢、吐き気などの症状を抑えられれば普通の生活だって送れるし、半年……いや、1年先まで希望を繋ぐことだって出来るんだ」
1年というのは言い過ぎな気もしたけれど、彼ならそれを成し遂げてくれるのでは……と思った。
いや、私自身がそれを強く望んでいた。
「タイシ、サクラが言っていたよ、彼女の夢は兄と一緒に働くことだと。自分のために色々な事を犠牲にして来た大好きな兄のために、今度は自分が尽くしたいのだと……どうか今日みたいな無茶をせず、一刻も早く治療を開始して欲しい」
サクラの名前を出した途端、タイシの表情がグニャッと崩れた。グッと唇を噛みしめ、茶色い瞳孔が滲んで揺れた。彼が初めて見せる大きな感情の揺れだった。
「俺は……俺だって……桜子と一緒に……っ!」
言葉が途絶え、タイシが反対側に顔を背けて黙り込んだ。肩が震えている。
「タイシ……たった1人で病気に立ち向かうなんて無理だ。しかも唯一の肉親に隠し続けるなんて狂気の沙汰だ。サクラにも協力してもらい、一緒に病気と闘うんだ」
「……そんなの駄目だ」
「えっ?」
小さく呟かれた言葉を、最初は自分の聞き間違いだと思った。
だけどタイシがこちらに顔を向けた時、彼の口からハッキリ告げられたそれが、彼の心の叫びだと知った。
「嫌です……桜子には言いませんよ、絶対に」
「タイシ!」
「俺に桜子の前で痛みにのたうち回れって言うんですか?苦しい、死にたくないって弱音を吐く姿を見せろって言うんですか?あいつの夢を奪って?……そんなのまっぴら御免ですよ」
怒りを含んだ声にたじろいだものの、私も医師として簡単には引けなかった。
「2人きりの兄妹なんだ、困難な時に支えてもらうことを躊躇するな」
「ジョン……アイツにそんな醜態を晒すくらいなら、舌を噛み切って死ぬ方を選びますよ」
ゾッとするほど凄みのある声。さっきまで泣いていたであろう濡れた瞳には、固い決意が 漲っていた。
その瞬間に、私では彼の気持ちを変えることは出来ないのだと悟った。
彼を動かすことが出来るのは、きっと世界でたった1人、サクラだけなんだろう。
だけどそのサクラには、タイシの病気を告げることが出来ないのだ……。
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