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<< ボストン旅行記 >>

4、冬馬

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 ジョンの車が向かったのは、オフィス街にある白いビルディングだった。
 いくつものオフィスが入った建物には既に人気ひとけが無く、ひっそりと静まり返っている。

 コツンコツンと靴音を響かせて廊下を進み、1階の一室の前で止まると、彼がポケットから鍵を取り出した。
 ドアには『John Winston MD』のプレートが嵌められている。

「さあ着いた、ここだ」
「ここ……ですか?」

 戸惑う俺を尻目にジョンがドアを開けると、そこにはラックに入った雑誌に黒い長椅子、そしてガラスの小窓がある受付……日本でもよく見かける、診療所の待合室風景。

「この奥だ、行こう」

 受付の隣にあるドアを開けて更に奥へと進むジョンに黙ってついて行く。
 インフルエンザ予防や手洗い推奨のポスターが壁に貼られている細い廊下を突き当たりまで行くと、右側にある部屋に案内された。

「ようこそ。ここが私とタイシの思い出の『逢い引き現場』だ」

ーーやはりそうだったか……。

 グレーの事務机に丸い回転椅子、黒くて細長い診察用ベッド。
 ジョン・ウインストンの診療所オフィス……この場所こそが、大志が『救われた』現場なんだ。


 ジョンに勧められるまま患者用の黒い回転椅子に腰掛けると、彼は事務机の前で背もたれのある自分の椅子にギッと音をさせて座った。
 こうやって向き合うと、まるで患者と医師みたいだな……と思わず苦笑する。

ーー確かにここは思い出の場所ではあるだろうけど……。


 ボストン行きを決めてから、ジョンとは何度かメールでのやり取りをしていた。

『トウマ、君がボストンに来たらタイシとの思い出の場所に連れて行くよ。一緒に飲み明かそうじゃないか』

 そう言っていたから、ジョンの馴染みの店でお酒を飲みながら語り合うのだと思っていたのだが……。

「俺はてっきり、あなたの馴染なじみのバーにでも連れて行かれるのだと思っていました」

「出来ることならそうしたかったんだが……」

 ジョンは寂しそうに灰色がかったブルーの瞳を伏せる。

「残念ながら、タイシと会うのはここ限定だったんだよ。彼にはアルコールや食べ物の匂いでさえ苦痛だったし、バーの椅子に腰掛けて長時間寛ぐ余裕は無かったんだ」

「えっ……」

「タイシはサクラの前では弱ったところを見せるわけにいかなかった。そのためには、ここで点滴を受け、横になって休み、体力を温存しておく必要があったんだ」

ーーそれ程までに……。

 愕然とした。
 大志がジョンから医療行為を受けていたであろうことは予想していたし、実際その通りだったというのはたった今判明した。
 だけど実情は、俺の予想以上に壮絶なものだったんだ……。

 右手で口を押さえて絶句した俺を気遣うように、ジョンがおどけた口調で言う。

「バーではないが、酒はあるよ」
「えっ?」

 ジョンが机の一番下の引き出しから茶色い紙袋を取り出すと、ガサゴソと手を突っ込んで、中身をデスクに並べていく。
 出て来たのは日本を代表する高級ウイスキーの21年ものとグラス。ご丁寧にチェイサー用の水やナッツのおつまみまで用意してある。

「こんな所にお酒を?」
「ああ、妻にもスタッフにも内緒でこっそり持ち込んでおいたんだ」

「……ばちがあたりそうですね」

「天に昇った勇者をたたえるためだ、神もゆるしてくださるだろう。それに、たとえ神がお怒りになってもタイシが上手くなだめてくれるさ……そうだろう?」

 茶目っ気たっぷりにウインクするのを見て緊張が解けた。
 確かに、口の上手い大志なら神様だって説得出来てしまいそうだ……とハハッと笑う。

「タイシはそんなに口が上手かったのかい?確かにディベートは得意そうに見えたが……」
「アイツは凄かったですよ。大学の時だって……」

「おっと、その前にウイスキーの栓を開けさせてもらってもいいかな?」

 話し始めた俺をジョンの手が制して、茶色い液体の入ったボトルを手に取った。

「勿論です」

 まずは大志に献杯だ。
 栓を抜く大きな手をジッと見守る。

「日本のウイスキーを用意して下さったのですね」
「ああ、タイシに捧げるお酒には、やはり日本のものをと思ってね。君も気に入ってくれるといいんだが……」

ーー気にいるも何も……。

「これは日本でも希少価値のある有名なお酒です。特に21年は人気で、なかなか手が出ない」

「そうらしいな。だが、亡き友を語る特別な夜には特別な酒がふさわしい……だろ?」

「……そうですね」

 大志のために、そして一緒に思い出を語る俺のために、5万円は下らないであろう日本のお酒をわざわざ入手してくれた彼の想いが嬉しかった。
 そして、彼にここまでさせてしまう大志という男が親友として誇らしく、そして羨ましくもあった。

ーー大志、お前の人たらしは海も越えたんだな。やっぱりお前は凄い男だよ……。


 ジョンは24面カットの美しいボトルからコルクを抜くと、2つのボトルに少しずつ注ぎ入れる。
 そして片方のグラスを俺に差し出した。

「日本ではこういう時に何て言うのかい? こちらでは嬉しい時も悲しい時も区別は無いんだが……」

「日本ではおめでたい時は『乾杯』、亡き人を偲ぶ時には『献杯』と言います」

「そうか……では、我々の友、タイシに…『ケンパイ』」

「……献杯」

 お互い目線の高さまでグラスを掲げた後で、ジョンがベッドの方にもグラスを掲げた。
 
ーーああ、そうか。あの場所で……。

 俺もジョンを見倣ってベッドにグラスを掲げ、それから2人同時に芳醇な香りの漂うグラスに口をつけた。

 味わうように少量だけ口に含んだストレートのそれは、甘やかでフルーティーなエステリーの後で重厚なコクが追いかけてくる深い味わいだ。
 唾液で薄まったところを喉に流し込むと、カッと胃の底まで熱くなった。

 ジョンがグラスを置いてベッドを見つめ、口を開く。

「あそこで……タイシはあのベッドに横たわり、点滴を受けていた」

 俺もベッドを振り返る。

「栄養剤に痛み止めと吐き気止めを入れた点滴だ。彼と出会った日の夜から帰国する朝まで、彼は毎日欠かさずここに来ていたんだ」

「毎日……ですか」

「タイシはサクラに自分が苦しむ姿を見せたくなかったんだ。病気のことを悟られまいと必死だった。初めて会ったレストランでも……」

 ここから先が、俺が知りたかった話だ。
 アイツが内緒にしていたボストンでの大志。

「ジョン、もっと聞かせて下さい。俺が知らない、ここでのアイツを……」
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