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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

20、恋人との別れ

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 その頃私が付き合っていた男性は年下の営業マンで、私が前夫と別居中に建設会社の派遣事務員として働いていた頃に知り合った。

 資材の売り込みで会社に来ていた彼は、口下手で上がり症らしく、上手く商品説明が出来ずに玉砕していた。

ーーあんなプレゼンじゃ駄目ね。

 彼が2度目に事務所を訪れ、肩を落として帰る時に、私は前もって用意していたメモを彼のポケットにそっと忍ばせた。

「頑張ってね」
「えっ?」


『あのとき実は、麻耶の電話番号か何かを渡されたのかと思ってドキドキしたんだよ……』

 のちに彼はそう言っていたけれど、あのメモに書いてあったのはそんな色気のある内容では無かった。

 会社が作ったパンフレットをそのまま読んでいるだけでは意味がない。自分が売り込みたい品に要点を絞ったカラー資料を5枚以下にまとめて作りなさい。競合他社との比較表は必須。

 緊張するのは一生懸命な証拠。自分に自信を持って、話すスピードをもっとゆっくりと。言葉の区切りで3秒間相手の目を見てニッコリ微笑みなさい。

 ……などと、自分が秘書時代に学んだスキルも交えてのアドバイスが書き連ねてあっただけだ。


 3回目のアタックで彼は商談を成功させた。
 彼はすれ違いざまに私にそっと小さなメモを握らせた。そこには彼の電話番号とメアドが書いてあった。
 彼は頬を赤く染めながら、ペコリと会釈をして帰って行った。



『駄目よ。私、夫と別居中で息子もいるの』

 御礼をしたいと食事に誘われてから2回目のデートで交際を申し込まれた。
 私が今の状況を正直に話すと、彼は私とその息子のために目を潤ませ、『別れるべきだ』と強く主張した。

『俺なら麻耶さんにも息子さんにも暴力を振るったりしない。頼りないかも知れないけれど、俺と付き合ってください。お願いします!』

 チワワみたいにクリッとした瞳をウルウルさせながら、両手で拝むように手を握られ絆された。

 その帰りにタクシーを待つ間に頬にチュッとキスをされ、私たちのお付き合いは始まった。


 彼は私よりも3歳歳下で、少し気が弱いけれど優しい人だった。
 押しが弱くて成績がふるわないと悩んでいたけれど、そんなところも私の母性本能を刺激した。

『俺、麻耶さんとのことは真剣に考えてるんだよ。早く結婚したい』

 前夫とは別居中でもう愛情のかけらも無いとは言え、法律上はまだ夫婦。彼との関係はどう見ても不倫だ。

 買い物の帰りにたまたま目に飛び込んできた、法律事務所の看板。
 それを見て決意した。

ーーちゃんと離婚しよう。彼のために、私と彬の幸せな未来のために。

 勢いで飛び込んだ『八神法律事務所』。
 そこで私は八神大志と出会ったのだった。





「ねえ、前に言っていた事務所代表の妹さんが秘書として働くことになってね、引き継ぎが終わったら私が辞めても良さそうなんだけど」

「えっ?!」

 八神先生の葬儀が終わった翌日、居間のソファーに寝転がってテレビを見ていた彼に私がそう告げると、彼はガバッと勢い良く起き上がって私を見つめた。

 この人と付き合い始めてからもう3年以上が経つ。
 付き合って1年程たった頃から私のアパートに来るようになり、いつの間にやらこうして我が物顔で入り浸るようになっていた。

 最初は営業成績が振るわずイジけていた彼も、今やトップセールスを誇る営業部のエースで、チームリーダーも任されるようになっている。
 彼の資料作成を手伝ったり、営業マンに相応しい新しいスーツを見繕ってあげるのは楽しかったけれど……。


「彬も精神的に安定しているし、もう正式に一緒に住んでも大丈夫よ」
「えっと……それって、つまり……」

「あなた、私と結婚したいって言ってたじゃない」
「えっ……」

ーーそうだと思った。

 絶句して黙り込んだ彼を見て、私は皮肉げに口角を上げた。

「……別れましょうか」
「えっ……」

「いいのよ、彼女のところに行って」
「えっ?!」

 目が泳いで明らかに動揺している。そりゃ、そうでしょうね。
 私が今更こんなことを言い出すだなんて思ってなかったでしょうね。

 別れを言い出すのは自分の方からだって思っていたんでしょう?
 もう愛情なんて無いくせに、それでも彼女と違ってお金をかけなくても良い、居心地が良いこの場所も離れ難くて……ズルズルと引き延ばしていただけなのよね?

 分かるわ。だって私だって同じだもの。
 まるで母親と息子のような関係になって、ここには情が残っているだけだって知りながら、1人になるのが寂しくて、気付かないフリをしてただけ。

 あなたが会社に泊まると言って帰って来た翌日は香水の匂いがするのも、週末でも仕事だと言っていそいそと出掛けて行くのも、いつの間にか私たちの間に『結婚』という言葉が出なくなっていたのも……知っていたのに放置していた。


「いるんでしょ、付き合っている女性ひと
「いや、彼女はそういうんじゃ……お互い遊びというか」

「若い子は物をねだりはしても貢いでくれないものね」
「そういうんじゃ……!」

「営業部のエースのくせに金をケチってるんじゃないわよ! 私はあなたにお金をかけて、皆が振り返るようないい男に仕上げたけれど、それは他の女を喜ばせるためじゃないわ!」
「麻耶っ!」

「あなた、私と結婚する気ある? 彬の父親になれる?」
「俺は……麻耶が好きだよ。だけど……」

 その先はもう聞かなくても分かったし、聞きたくもなかった。

「今まであげたお金はもういい。だから出てって」
「麻耶っ!」

「さようなら」

 不思議と全く寂しくも悲しくもなかった。
 むしろもっと早くこうすべきだった。

「スッキリした~!」


ーー仕事をしよう。

 彼を追い出し、荷物を全部送り返した翌日、少しスッキリした部屋を見渡した途端にそう思った。

 今までだって仕事を手抜きしていたわけじゃないし、真面目に取り組んできたつもりだけれど、今の気持ちはそれとは少し違っている。

ーー八神先生、私はこれから、あなたのために頑張ります。

 志半ばでこの世を去った尊敬すべき人のために、全力で何かをしたいという気持ちがムクムクと湧いてくる。

 私は今まで自分のため、彬のため、そして生活のために働いて来たけれど……これからはそこに、『八神大志の願いを叶える』という目標が加わった。

「そうと決まったら桜子さん用の指導マニュアルを作らなきゃね」

 パソコンを起動して画面を見つめていると、窓を背にした事務所のあの席で、椅子にもたれて頭の後ろで手を組みながら微笑んでいる、彼の姿が浮かんできた。

『分かりました。詳しく話をお聞かせ下さい』

『だったらうちの事務所で働いてみませんか?』

『水口さんはいい女だよ……そこそこモテて来た俺が言うんだ。間違いない』


『水口さん、どうか幸せになってください』

 
 どんどん溢れる水の膜で文字が良く見えもしないくせに、私は頬を伝う涙を拭いもせず、ひたすらパソコンのキーボードを叩き続けていた。
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