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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

18、あっけないお別れ

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 八神先生が再入院をした1週間後、桜子さんがボストンから帰国して来た。
 そして彼女はそのまま病室に泊まり込んでいるらしい。

ーー八神先生は嬉しいだろうな……。

 彼女が間に合って良かった……心からそう思ったのも束の間、今度は早々に転院が決まったという。


「えっ、ホスピス……ですか?」

 日野先生からその話を聞かされた瞬間、目の前が真っ暗になったような気がした。

 医療用語に詳しくない私にだって分かる。ホスピスとは癌末期の患者さんが最期の時間を過ごすための場所だ。

「もうこれ以上の化学療法は効果がないと説明を受けて、大志が希望したらしい。アイツはご丁寧にも一度ホスピスの見学に行っていたんだ」

「そこまで準備を……」

「……そう言うわけで、俺もこれから暫くは新規のクライアントを入れずに、顧問の仕事をメインにする。法テラスから回って来た法律相談は引き受けるけれど、そこで弁護士が必要になった場合は他の事務所を紹介する」

「はい、分かりました」

「事務所を留守にする事が増えると思うけど、対処できない場合は俺に電話して下さい。こっちから先方に掛け直すから」

 よろしくお願いします……と言われて頷いた。
 要は、それほど八神先生の病状が悪くなっているということなんだろう。

「お見舞いに行っても構わないでしょうか」

「お見舞いが来るとどうしても疲れてしまうから全員断るつもりだけど、水口さんならいいと思う。ホスピスに行って落ち着いたら大志に聞いてみるよ」

「ありがとうございます」



 私がホスピスを訪れたのは、八神先生が転院してから2週間後の土曜日で、日野先生の車で一緒に連れて行ってもらうことになった。

 そこは白を基調とした清潔感のある建物で、窓からは緑溢れる中庭が見える、静かで落ち着いた空間だった。
 都心から車で片道約1時間。日野先生はこの距離を、仕事の合間を縫って行ったり来たりを繰り返している。
 まさしく『献身』という言葉がピッタリの行為だ。


「水口さん、こんにちは」
「八神先生、ご無沙汰しています」

ーーああ、ますます細くなったな……。

 一目見た途端にそう思った。

 元々ひょろっとしていた身体が今はもう本当に薄く薄くなって、尖った顎のラインが、彼の顔を更に小さく見せている。

 鼻には酸素カテーテルが繋がっていて、彼が咳をするたびに、喉で痰の絡んだ水っぽい音と共に、ヒュッと気の抜けた笛のような音が鳴る。


「……綺麗でいいところですね」
「ああ、ここが俺のついの 住処すみか

 八神先生にそう言われて、どう答えればいいか分からずに曖昧に微笑んでいると、ドアを静かに開けて桜子さんが入って来た。

「桜子さん、お久しぶりね。お帰りなさい」
「水口さん、ご無沙汰しています」

 桜子さんは並んで立っている私と日野先生の顔を交互に見て、少し緊張したような表情でペコリとお辞儀をした。

 桜子さんの帰国後に一度は事務所に顔を出すかと思っていたけれど、彼女はずっと八神先生に付き添っているようで、これまで顔を合わせることが無かった。
 相変わらず儚げで、なんだかオドオドした感じ。
『歓迎会事件』の影響もあるのか、彼女はやっぱり私のことが苦手なんだろうな……と感じた。


「……っ……」

 不意に八神先生がお腹の辺りを押さえて顔をしかめた。

「お兄ちゃん!」
「大志!」

 私が驚いて「八神先生!」……と動く前に、桜子さんと日野先生がベッドに駆け寄って、彼の顔を覗き込む。

「お兄ちゃん、痛む? 看護師さんを呼ぼうか?」
「いい……大丈夫だから……冬馬、桜子と散歩に行って来てくれ」

「何言ってるの、私はここにいるよ」
「行って来い!」

「お兄ちゃん!」
「俺は……水口さんに話があるから……冬馬、桜子を頼む……」

 日野先生が唇をギュッと噛みながら、泣きそうになっている桜子さんの肩をそっと抱き、ドアへと促す。
 何度も振り返りながら出て行く桜子さんを見送って、ドアが閉まった途端に八神先生がナースコールを押した。

「すいません……痛み止めの注射をお願いします……」

 声を振り絞ると、両手でお腹を抱えてギュッと目を瞑る。


「悪い……ね。来てもらって早々、こんなみっともない姿を見せて……っ」
「構わないですよ。今更病人がカッコつけてどうするんですか」

「ハハ…ッ……相変わらず毒舌が健在だ。それを聞くと……なんだか事務所にいた頃みたいで……楽しいな」
「こんなのが聞きたいのなら……いくらでも言って差し上げますよ」

「ハハ……ッ……」

 暫くすると看護師が入って来て、彼の袖を捲り上げ、肩に注射をして行った。

「水口……さん……」
「痛みがあるんですよね? 私の事はいいですから、無理せずジッとしていて下さい」

「駄目だ……モルヒネを打ったから、もうすぐ俺は眠くなる……その前に話させて……痛っ……!」

 苦痛で顔を歪める八神先生の横で椅子に座り、両手で彼の手を握ると、彼は顔をしかめながら手を握り返して来た。
 ビックリするほど強い力が、痛みの激しさを表している。

「こんなに痛いのに……いつも桜子さんの前では隠してるんですか?」

「は……全然隠し切れてない……けどね。可愛い妹の前では……ちょっとくらいカッコつけたいんだ……」

「私の前ではカッコつけなくていいんですか? 女としての自信を失いますね」

「ハハハッ……水口さんはいい女だよ……そこそこモテて来た俺が……言うんだ。間違いない」
「男運はめちゃくちゃ悪いですけどね」

「ダメンズ専門だなんて言わずに……俺や冬馬みたいな……一途で真面目な男にしておけばいいの……に」

 徐々に手を握る力が弱くなっていく。痛みが治まって来たのかも知れない。


「……嫌ですよ。八神先生は絶対に私に頼ってくれないじゃないですか」
「今……頼って…る……だろ……?」

「転院してから2週間も来させてくれなかったくせに……何言ってるんですか……」

「ハハッ……悪い……桜子と…2人でゆっくり……した……くて……」

 手の力がフッと抜けて、暫くすると寝息が聞こえ始めた。

ーーこんな時まで……桜子さんって……。

「結局、私に話したい事って何だったんですか……ちゃんと聞けなかったじゃないですか……」

 私は目尻の涙を拭うと、もう一度八神先生の手をギュッと握りしめ、その寝顔を目に焼き付けた。


 結局それが、私が彼と交わした最後の会話となった。
 短くて本当にあっけないお別れだった。
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