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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>
11、お見合い
しおりを挟む「いやぁ~、八神先生のことを話したら、先方の親御さんが大乗り気でね。娘さんもここのホームページで先生の写真を見たら、すっかりその気になっちゃったみたいで……」
応接室にお茶を運んで行った途端に飛び込んできた会話に、思わず手が止まった。
ーーこれはどう考えてもお見合い話……。
話の続きが気になって、ことさらゆっくり茶托を置いて行く。
「剛田さん、前にも言いましたが、私はまだまだ未熟者ですし、事務所だっていつどうなるか分かりません。そんな不安定な状態で家庭を持つだなんて考えられませんし、先方にも失礼です」
剛田氏は、八神先生のお父様の代から顧問契約を結んでいるアパレル会社社長だ。
60代前半の恰幅のいい男性で、今回は財産の生前贈与の相談に来ていた。
「井口さんは会計事務所を自分の代で終わらせても構わないらしくてね、その後で事務所を君の法律事務所に譲り渡すのもやぶさかでは無いらしい。難しく考えずに、ひとまず会ってみるだけでも……」
「いや、私は……」
続きがとても気になるけれど、これ以上の長居は失礼にあたる。私は後ろ髪を引かれる思いで会釈をし、部屋を出た。
「日野先生、剛田さんが八神先生にお見合い話を持って来てましたよ」
「えっ?!」
「先方の娘さんがホームページの写真を見て大乗り気だって」
「大志はそんなの引き受けないよ」
すぐに即答して書類をめくり始めた日野先生に、私も食い下がる。
「だけど剛田さんは先代から付き合いのあるお得意様だし、無碍にも出来ないんじゃないですか?」
「……それでもアイツは引き受けないさ」
「そうなんですかねぇ……」
応接室のドアがガチャリと開いて、剛田氏が顔を出す。 その表情が柔らかいことから、その後の会話は険悪なムードにはならなかったらしい。
「剛田さんの顔の広さには本当に敬服しますよ。私などはまだまだ若輩者で……」
剛田氏のあとについて出口へと向かう先生に、剛田氏も笑顔で応える。
「ハハハッ、なんだかんだ言って、八神先生もまだ遊びたいんじゃないのかい? 本当に好きな相手の1人や2人はいないのかな?」
咄嗟に私と日野先生が顔を見合わせた。
「……私は妹のことで手一杯ですので」
「またそれだ。そんな風に家族思いの真面目な先生だから、ついつい嫁の世話までしてしまいたくなる。まあいい、今回は諦めますが、気が向いたらいつでも言って下さいよ。今度ゴルフでもご一緒しましょう」
笑顔で見送ってドアを閉めた途端、八神先生は苦い顔になる。
「チッ……余計なお世話だ」
デスクに戻ってパソコン画面を開くと、何事もなかったようにパチパチと文字を打ち込んでいく。
日野先生も何も聞かなかったみたいに書類に目を通していた。
あそこまできっぱり言い切った日野先生も凄いと思ったけれど、剛田氏のあのしつこい申し出を無事乗り切って、しかも笑顔で帰してしまう八神先生の対人スキルも見事なものだと思った。
「八神先生、あの押しの強い誘いをどう断ったんですか?」
「ああ……『私は剛田さんのように素晴らしい奥様と出会って仲睦まじい夫婦になりたいと思っています。だけどそれはまだ今じゃない。今は仕事のことで頭が一杯で、全くその気になれない。1日でも早く剛田さんのようになれるよう仕事に邁進して行きますので、今後とも事務所共々よろしくお願いします』……って」
「褒めて上げて作戦ですか。王道ですがああいうタイプには効果ありですね。流石です」
「ハハッ……水口さん、褒めて上げて作戦って……」
後ろで私たちの会話を聞いていた日野先生が吹き出した。
「おい冬馬、おまえ他人事みたいに笑ってるけどな、剛田さんが『日野先生も独身でしたか?』って聞いて来たから、『はい、そうです』って答えておいたぞ。次はお前の番だ」
「ちょっと勘弁してくれよ! そんなの『結婚してます』って言っておいてくれたら良かったのに」
「井口さんって人の娘さんが美人なんだってさ。お前が見合いしろよ」
「しないよ。俺はまだいい」
「ふ~ん……そうか。見合いすればいいのに」
「しないよ。俺はいいんだって」
それきり2人は黙り込んで、黙々と仕事を始めた。
ーー本当に奇妙な友情……。
その後も自薦他薦ふくめ数々の誘惑があったにも関わらず、2人はブレることなく華麗にスルーし続けた。
その後、どうしても八神先生を諦めきれない井口氏のお嬢様が事務所に会いに来てしまうという事件もあったけれど、それも八神先生は『申し訳ありませんが女性に興味ありませんので、残念ながらあなたを満足させられないと思います』の一言で追い返してしまった。
なんだかんだありながらも、この頃の事務所は仕事も登り調子で上手く回っていたと思う。
その年の夏頃になって八神先生がどんどん痩せ始めた時も、大きな案件を抱えるが故の、嬉しい忙しさだ……と思っていた。
それはきっと、日野先生も、そして八神先生自身だって、そう思っていたに違いない。
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