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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

10、彼女の留学

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 桜子さんがアメリカのボストンに留学することになった。

 桜子さんの希望なのかと思っていたら、なんと八神先生が強く勧めたのだという。
 あんなに溺愛して、過ぎるくらいの過保護だったのに、1年間も海外留学させるとは、一体どういう心境の変化なんだろう。

ーーもしかしたら、彼は自分の気持ちを諦めようとしているの?

 愛情を押し込めて、彼女と一度遠くに離れて、桜子さんと日野先生の恋を応援することに決めたのだろうか……と思った。



「水口さんって留学経験はあるの?」

 ある日八神先生が、パソコンを覗き込みながら聞いてきた。

「学生のうちに行きたかったんですけど、テロがあったりなんだりで機会を失って、そのうち結婚して子供が出来て……で行けず仕舞です。一度は行っておきたかったですね……何を調べてるんですか?」

 八神先生のパソコンを覗き込むと、アパートやタウンハウスのページが開かれていて、上にある『ケンブリッジ周辺』の文字が目についた。

「ケンブリッジってハーバードがある街ですよね。桜子さんはここに住むんですか?」

「ああ。以前ボストンにいた友人に聞いたら、この辺りが日本人が多くて治安も比較的いいって言ってたんだ。1年間も住むんだ。出来るだけ安全で不自由の無いようにしてやりたい」

「……本当に桜子さんを溺愛してらっしゃいますね」

 私がそう言うと、八神先生はフッと目を細めてパソコンの画面に目を向ける。

「ああ、溺愛してるよ。世界で1番大切な俺の宝物だ」

 照れも臆することもなく堂々と言ってのけるその瞳は、やはりどう見ても愛しい人に向けるそれで……なのに敢えて自分から彼女を遠ざけてしまう彼の真意が掴めなかった。



 桜子さんの大学卒業が近付くと、ボストン出発の準備も大詰めになって来た。
 八神先生は仕事の合間に宅配業者に電話をしたり飛行機のチケットの手配をしたりとますます忙しそうにしていた。

「桜子の出発の日が決まったよ」

 年の明けた1月最初の仕事始め。
 八神先生が笑顔で私に話し掛けながら、その瞳がチラリと向こう側の机に向けられた。

 私もそっと顔を動かして見ると、パソコンに向かってひたすら文字を打ち込んでいた日野先生の指がピタッと止まって、バッと顔が上がる。

「……いつ?」
「4月3日。卒業式の2週間後だ」

「俺も見送りに行くよ」
「平日だ。わざわざ来なくてもいいよ」

「いやっ、行くよ!」

 次の瞬間には日野先生がガタッと椅子を引き、デスクに手をついて立ち上がっていた。

 八神先生は一瞬呆気にとられたように押し黙ったけれど、軽く口角を上げて鼻でフッと笑うと、

「……分かったよ」

 目の前のパソコンをカチャカチャといじって、

「フライトスケジュールをお前に転送しておいた。早朝の便だ。遅刻するなよ」

 それだけ言って、何事もなかったように仕事を再開する。

「……ありがとう」

 日野先生もゆっくりと椅子に座ってまたパソコンに向かう。

 私は珍しく取り乱した日野先生に驚きつつも、2人の関係性にますます興味をそそられるのだった。



「昨日、桜子とデートをしたんだ……」

 月曜日の休憩時間、デスクの椅子でグッと伸びをしながら、八神先生が顔を綻ばせた。
 ちょうど桜子さんの卒業式直後、ボストン出発の2週間ほど前のことだ。

「恋人みたいに名前で呼び合ってさ、新婚夫婦みたいに雑貨を選んで……」

 ペアのマグカップを買ったのだと、写真まで見せてくれた。

「東京タワーで夜景を見たんだ。街の明かりがキラキラ輝いててさ……あの光景は一生忘れない」

 夢見るように語る瞳は少年のようで、そしていつも以上に多弁でテンションが高いように見える。寂しさの裏返しなのかも知れない。

「そんなに大事なのに、どうして1年間も海外に行かせるんですか? 在学中に1~2ヶ月の交換留学をさせるだけでもいい経験になったでしょうに」

「それじゃ駄目なんだ」

 間髪入れずに返って来た声はついさっきと打って変わった低い声音で、そして真剣な空気を孕んでいた。

「俺たちはこうしなきゃいけないんだ。これからのために……必要な時間なんだ」

 そして思い出したようにニコッと微笑んで、

「これからのグローバルな時代には英語が必須だろ? 桜子には俺が投資した分、ガンガン働いて返してもらうさ」

 さあ、働こう!……とコーヒーを一口飲んでパソコンに向かう。

 すぐ近くの机にいる日野先生にもこちらの会話が聞こえているはずなのに、彼は不自然なくらいに一度も顔を上げようとはしなかった。
 だけどその全神経は、八神先生の言葉に集中していたんじゃないかと思う。

 クライアントが来て八神先生が応接室に入って行ってから、私は日野先生に話しかけた。

「あんなに仲良しの御兄妹ですもの。きっと八神先生はお寂しいでしょうね」

「ああ、寂しいだろうな……」

ーー日野先生も……。

 伏せた睫毛が彫りの深い顔に更なる陰影を作り、その横顔の美しさを際立てていた。

ーー八神先生は桜子さんを諦めてなんかいない。むしろ、帰って来てからを心待ちにしているんだ……。

 そして多分、日野先生は八神先生の真意に気がついている。八神先生は日野先生に自分の気持ちを隠そうとはしていない。
 むしろ見せつけているというか……。

 宣戦布告……そんな気がした。

 桜子さんを挟んで常に意識し合っている2人の男。
 だけど彼らは決していがみ合うわけでも憎しみ合うわけでもなく、固い友情で結ばれ、お互いを信頼しあっている……これが本当の男の友情というものなのだろうか。
 それとも彼らが特別なのか……。


 4月に入ってすぐの月曜日、桜子さんはボストンへと旅立って行った。
 朝早くに彼女を空港まで送って行った2人は、出勤後、言葉数が少なく、その日の事務所はとても静かだった。
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