仮初めの花嫁 義理で娶られた妻は夫に溺愛されてます!?

田沢みん

文字の大きさ
上 下
114 / 177
<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

9、歓迎会事件 (3)

しおりを挟む

「桜子ちゃん!」

 驚いた桜子さんが尻餅をつくと、間髪入れず、日野先生がその足元にしゃがみ込む。

「桜子っ!」

 今度は悲鳴を聞きつけてキッチンに飛び込んで来た八神先生が、日野先生を勢い良くグイッと押しのけて割り込むと、桜子さんの前にしゃがみ込んだ。
 その表情は色を失い、桜子さん以外のものは目に入らないという感じで、まさしく『血相を変えて』いた。

 彼は素早く桜子さんを抱き抱えるとオマケのように私を振り返り、声を掛ける。

「水口さんは?」
「少し腕に跳ねた程度だから、少し冷やしておけば大丈夫」
「そうか」

 後を日野先生に任せると、桜子さんを大切そうに抱え、廊下に出て行った。

 これではもう歓迎会どころではない。
 あれだけ油がかかっていたら桜子さんの足は病院で診てもらった方がいいだろう。

「なんだか……大変なことになっちゃいましたね」
「ああ……」

 返事をしながらも、日野先生は茫然と廊下の方を向いたままだ。

 私が水道の水で腕を冷やし始めると、八神先生が今気付いたというように氷嚢を探し、氷を入れて私の左腕に当てた。

「自分で出来るので大丈夫です」
「あっ……ああ……」

 日野先生から氷嚢を受け取り押し当てる。ヒリヒリとした痛みはあるけれど、ほんの少し油が飛んだ程度だ。その痛みも氷の冷たさで痺れて消えて行った。

 しばらくして八神先生が戻って来ると、案の定、歓迎会の中止を告げた。

「桜子を病院に連れて行く。悪いけど今日の会は中止にさせて欲しい……水口さんも、ごめん」

「いえ、場合が場合ですから。お料理中に私が邪魔をしたせいで……申し訳ありません」
「いやっ、俺が桜子ちゃんに話し掛けたりしたから……」

「そんなのどっちでもいい」

 八神先生の凄みのある声音に私も日野先生も固まった。

「いや……とにかく今日は申し訳ない。それじゃ俺は桜子の所に戻るから、また」

 玄関まで見送られると、最後は目を見ることが出来なくて、「お大事にして下さい」と言うのが精一杯だった。
 目の前でバタンとドアを閉められた途端、気まずさと後味の悪さを感じた。

 彼は怒っている……と思った。
 声を荒げることもなかったし、私を責める言葉もなかったけれど、低い声のトーンと表情で、静かに怒っているのが伝わって来た。

 日野先生と顔を見合わせてから、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
 暫くは2人とも無言だった。


「私……あんなに動揺した八神先生を始めて見ました」
「そうか……大志は桜子ちゃんを大事にしてるから……」

「お姫様抱っこしてましたね……本当に大切そうに……」

ーーそう、妹を心配するにしては、あまりにも……。

 日野先生を押し退けた時の必死な顔と険しい目は、まるで『俺のものに触れるな』と言っているようだった。
 油のかかった足を見た時の悲しげな瞳。
 彼女を抱き上げた時の愛おしげな表情。
 『そんなのどっちでもいい』と言った時の怒りを押し殺した声。
 
 それらはまるで……。

「まるで……恋人を扱うみたいでしたね」
「……ああ」

ーーえっ?

 その当然のような落ち着いた物言いに、なんとなく違和感を感じた。
 いや、彼はただ私の言葉に相槌を打っただけのことで……。


「それじゃあ俺はこっちだから……今日は残念だったね。今度また改めて……」
「いえ、大丈夫です。早く迎えに行けば息子も喜ぶし」

「そうか……じゃあ」

 その違和感の原因を深く追求する前に私たちは駅に到着し、短い挨拶を交わして改札で別れたのだった。


 地下鉄の電車に揺られながら、改めて今日の出来事を思い浮かべる。

 手伝いのつもりが彼女の気を散らせてしまったという後悔と申し訳なさ。
 楽しいはずの歓迎会がこんなことになってしまったという残念さ。

 そして……2人の男性が自分には全く見向きもせずに桜子さんを真っ先に心配したという事実に、女のプライドが傷つけられ、地味に凹んでいた。

ーー本当に見事に私の存在が忘れられていたわよね。

 それは本当に見事な切り捨て具合だった。
 切り捨てる以前に、桜子さん以外のものが目に入っていなかったんだろう。
 あの瞬間、2人の視界には私の存在は映っていなかった。綺麗さっぱり消え失せていたのだ。

 本当にそれはもう、潔いくらいで……。

 あの時の2人の熱量は、『義兄あに』でもなければただの『義兄の親友』のそれでもなかった。完全に親愛の情を超えていた。

ーーあれは……ただの『愛』だ。


「ああ、そうか……そうだったのね」

 これで漸く奇妙な三角関係の構図がハッキリした。
 桜子さんが事務所に来なくなってうやむやなまま胸に残っていた疑問がやっと解けた気がする。


ーー八神先生は桜子さんを愛している。

 妹としてではなく、1人の女性として。
 そして多分……そのことに日野先生は気付いているんじゃないだろうか。

 そう考えたら全ての辻褄が合う。

 八神先生が日野先生の前であからさまな独占欲を見せるのは、彼への牽制。
 日野先生が八神先生の前で一歩退くのは、彼に遠慮をしているから。
 それなら事務所での行動も納得できる。

 なんだかスッキリした。

 クロスワードパズルの正解が分かった瞬間というか、欠けていたパズルのピースが埋まったというか……。


ーーそれじゃあ、2人はお互いの気持ちを知りながら、お互いに気付いていないフリをしてるってこと?

 八神先生は義妹を愛していると言えずに義妹を溺愛する兄を演じて、日野先生はそれに気付きながら知らないフリをして、いい親友でい続けている……っていうこと……なの?


 私の推理はある意味当たっていたけれど、微妙に取り違えていたのだと気付くのは……本当は最後の最後のピースがちゃんと嵌まっていなかったことに気付くのは……もう少し後のことだった。

 私は彼らの友情の深さを……桜子さんに向ける愛情の重みを……まだ本当に分かってはいなかった。
しおりを挟む
感想 399

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから

咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。 そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。 しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします

希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。 国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。 隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。 「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

お飾りな妻は何を思う

湖月もか
恋愛
リーリアには二歳歳上の婚約者がいる。 彼は突然父が連れてきた少年で、幼い頃から美しい人だったが歳を重ねるにつれてより美しさが際立つ顔つきに。 次第に婚約者へ惹かれていくリーリア。しかし彼にとっては世間体のための結婚だった。 そんなお飾り妻リーリアとその夫の話。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。