113 / 177
<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>
8、歓迎会事件 (2)
しおりを挟むアパートでインターホンのボタンを押す前に、日野先生が急に真面目な表情になって私を見た。
「……なんですか?」
日野先生は気まずそうにちょっと言い淀んで、だけど思い切ったように口を開く。
「いや、あの……水口さんも分かってると思うけれど、桜子ちゃんの前では家庭の話は……」
ーーああ。
「分かってますよ。私だって楽しい食事会をぶち壊したくないですし、下手なことを言ってクビになりたくないんで」
「……ありがとう。何かあれば俺がフォローするから」
「分かりました」
本当に桜子さんはそこまでショックを受けるものだろうか……と思いながらも、ここで揉めるのもなんなので従っておく。
日野先生がボタンを押してしばらくするとガチャッと音がして、八神先生がドアから顔を覗かせた。
「いらっしゃい! 桜子も中で待ってるから、入って入って!」
「ありがとうございます。お邪魔します」
そっと日野先生の顔を盗み見たら少し緊張しているみたいだったけれど、それでも頬を紅潮させて嬉しそうな表情をしていた。
それを見たら私まで頬が緩んでくるのが分かった。
ーーこれはかなり楽しみだわ。
「桜子、2人が来てくれたよ」
八神先生がキッチンに声を掛けると、桜子さんがエプロンで手を拭きながら棚の向こうか顔を出す。
「桜子ちゃん、久し振りだね。元気だった?」
「はい、冬馬さん、お久し振りです」
照れながら向かい合う2人は初々しいカップルのよう。もう付き合っちゃえばいいのに。
「水口さんも……いらっしゃい」
「ええ、桜子さん、お久し振り。今日はお招きありがとうございます」
日野先生から私に視線を動かした途端、その表情が翳り、笑顔がぎこちないものに変わる。
嫌だ、私ってそんなに怖いのかしら。
「桜子、冬馬と水口さんがお前の好きなケーキを買ってきてくれたぞ……水口さんが選んでくれたんだよね?」
「ええ、日野先生がこのお店がいいって教えてくれたから、そこで一緒に選んできたの。桜子さんが気に入るといいんだけど」
「ありがとうございます……冷蔵庫に入れておきますね」
ケーキの箱を持ってキッチンに向かう桜子さんの背中を、日野先生が目で追っている。
「八神先生、私、お料理を手伝ってきますね」
早速ビールを注ぎ始めた男性陣は放置して、桜子さんの後を追う。
今までゆっくり話したことが無かったから、この機会にもう少しお互いのことを知り合いたい。
家庭のことを話せなくたって、大学の事や仕事のこと、オシャレのこと、いくらでも話題はあるはずだ。
キッチンに行くと、揚げ物鍋からジューッという油の音。
桜子さんの隣に立って手元を覗き込むと、どうやら蓮根の挟み揚げを作っているらしい。
「まあ、蓮根の挟み揚げ?こんな家庭料理を作れるなんて、若い子にしては珍しいわね」
「亡くなった母の得意料理だったんです。兄と冬馬さんも大好きで……
「そうなんだ。私も手伝うわ。これに衣をつければいいのよね」
「そんな、お客様なんだから座ってて下さい」
「いいの、いいの。こう見えて料理は得意なのよ」
ーーなにせ主婦なので。
「桜子ちゃん、何か手伝おうか?」
袖捲りをして料理を手伝っていると、日野先生までやって来た。
桜子さんと話したくて待ちきれなかったに違いない。
「あっ、冬馬さん。すいません、準備が遅くて……」
「全然大丈夫だよ。それより今日は家に押し掛けちゃって悪かったね。準備が大変だっただろう?」
「いえ、私も歓迎会に加えていただいてありがとうございます」
ーーこれはもう絶対でしょう!
だったら2人で仲良く揚げ物をさせてあげるのが年長者の気配りというものだ。
「日野先生、手伝う気持ちがあるんでしたら、まずはカッターシャツの袖を捲って、手を洗ってからにして下さいね」
どう見ても料理に適さない日野先生のシャツの袖をしっかり捲り上げ、ポンと一叩きすると、エプロンを借りられないかと周囲を見渡す。
ーーん……あらっ?
なんだか焦げ臭い匂いがして振り向くと、こちらを見ている桜子さんと目が合った。
更にその先、匂いの元に目をやると……
「あっ、桜子さん、焦げてる!」
揚げ物鍋の中では高温になった油がグツグツ煮立っていて、そこに浮かぶ挟み揚げは、黒に近い焦げ茶色になっている。
「えっ?……あっ!」
早く取り出さねばと焦ったのだろう。桜子さんが菜箸で持ち上げた挟み揚げが、ツルリと滑ってポチャンと落ちた。
高い位置から落ちた揚げ物は、大量の油を周囲に跳ね上げる。
「「きゃあっ!」」
それは一瞬で、なのにまるでスローモーションのようだった。
油のしぶきが私の左腕に飛び、下に溢れた油が……桜子さんの足と床にバシャッと落ちた。
0
お気に入りに追加
1,589
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話
水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。
相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。
義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。
陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。
しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。