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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

8、歓迎会事件 (2)

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 アパートでインターホンのボタンを押す前に、日野先生が急に真面目な表情になって私を見た。

「……なんですか?」

 日野先生は気まずそうにちょっと言い淀んで、だけど思い切ったように口を開く。

「いや、あの……水口さんも分かってると思うけれど、桜子ちゃんの前では家庭の話は……」

ーーああ。

「分かってますよ。私だって楽しい食事会をぶち壊したくないですし、下手なことを言ってクビになりたくないんで」

「……ありがとう。何かあれば俺がフォローするから」
「分かりました」

 本当に桜子さんはそこまでショックを受けるものだろうか……と思いながらも、ここで揉めるのもなんなので従っておく。

 日野先生がボタンを押してしばらくするとガチャッと音がして、八神先生がドアから顔を覗かせた。

「いらっしゃい! 桜子も中で待ってるから、入って入って!」

「ありがとうございます。お邪魔します」

 そっと日野先生の顔を盗み見たら少し緊張しているみたいだったけれど、それでも頬を紅潮させて嬉しそうな表情をしていた。
 それを見たら私まで頬が緩んでくるのが分かった。

ーーこれはかなり楽しみだわ。


「桜子、2人が来てくれたよ」

 八神先生がキッチンに声を掛けると、桜子さんがエプロンで手を拭きながら棚の向こうか顔を出す。

「桜子ちゃん、久し振りだね。元気だった?」
「はい、冬馬さん、お久し振りです」

 照れながら向かい合う2人は初々しいカップルのよう。もう付き合っちゃえばいいのに。

「水口さんも……いらっしゃい」
「ええ、桜子さん、お久し振り。今日はお招きありがとうございます」

 日野先生から私に視線を動かした途端、その表情が翳り、笑顔がぎこちないものに変わる。
 嫌だ、私ってそんなに怖いのかしら。

「桜子、冬馬と水口さんがお前の好きなケーキを買ってきてくれたぞ……水口さんが選んでくれたんだよね?」

「ええ、日野先生がこのお店がいいって教えてくれたから、そこで一緒に選んできたの。桜子さんが気に入るといいんだけど」

「ありがとうございます……冷蔵庫に入れておきますね」

 ケーキの箱を持ってキッチンに向かう桜子さんの背中を、日野先生が目で追っている。

 「八神先生、私、お料理を手伝ってきますね」

 早速ビールを注ぎ始めた男性陣は放置して、桜子さんの後を追う。
 今までゆっくり話したことが無かったから、この機会にもう少しお互いのことを知り合いたい。
 家庭のことを話せなくたって、大学の事や仕事のこと、オシャレのこと、いくらでも話題はあるはずだ。


 キッチンに行くと、揚げ物鍋からジューッという油の音。
 桜子さんの隣に立って手元を覗き込むと、どうやら蓮根の挟み揚げを作っているらしい。

「まあ、蓮根の挟み揚げ?こんな家庭料理を作れるなんて、若い子にしては珍しいわね」

「亡くなった母の得意料理だったんです。兄と冬馬さんも大好きで……

「そうなんだ。私も手伝うわ。これに衣をつければいいのよね」
「そんな、お客様なんだから座ってて下さい」

「いいの、いいの。こう見えて料理は得意なのよ」

ーーなにせ主婦なので。

「桜子ちゃん、何か手伝おうか?」

 袖捲りをして料理を手伝っていると、日野先生までやって来た。
 桜子さんと話したくて待ちきれなかったに違いない。

「あっ、冬馬さん。すいません、準備が遅くて……」

「全然大丈夫だよ。それより今日は家に押し掛けちゃって悪かったね。準備が大変だっただろう?」

「いえ、私も歓迎会に加えていただいてありがとうございます」

ーーこれはもう絶対でしょう!

 だったら2人で仲良く揚げ物をさせてあげるのが年長者の気配りというものだ。

「日野先生、手伝う気持ちがあるんでしたら、まずはカッターシャツの袖を捲って、手を洗ってからにして下さいね」

 どう見ても料理に適さない日野先生のシャツの袖をしっかり捲り上げ、ポンと一叩きすると、エプロンを借りられないかと周囲を見渡す。

ーーん……あらっ?

 なんだか焦げ臭い匂いがして振り向くと、こちらを見ている桜子さんと目が合った。
 更にその先、匂いの元に目をやると……

「あっ、桜子さん、焦げてる!」

 揚げ物鍋の中では高温になった油がグツグツ煮立っていて、そこに浮かぶ挟み揚げは、黒に近い焦げ茶色になっている。

「えっ?……あっ!」

 早く取り出さねばと焦ったのだろう。桜子さんが菜箸で持ち上げた挟み揚げが、ツルリと滑ってポチャンと落ちた。
 高い位置から落ちた揚げ物は、大量の油を周囲に跳ね上げる。


「「きゃあっ!」」

 それは一瞬で、なのにまるでスローモーションのようだった。

 油のしぶきが私の左腕に飛び、下に溢れた油が……桜子さんの足と床にバシャッと落ちた。
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