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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>
4、八神法律事務所
しおりを挟む「だったらうちの事務所で働いてみませんか?」
それは離婚裁判の結審から2週間後、事務所で諸手続きを済ませて握手を交わした後だった。
「水口さん、仕事を探してるって言ってましたよね?」
そう聞かれた私が平日の9時5時で終わる事務職を探していると世間話をした直後に、神谷先生の口から冒頭のセリフが飛び出したのだ。
「えっ?」
あまりにも予想外のことに、コーヒーカップをカシャンと勢い良くソーサーに置いてしまった。ウエッジウッドのプシュケが割れなくて良かった……。
「うちって……この『八神法律事務所』で……ってことですか?」
聞けばあの黒髪の美男子はこの事務所に所属している弁護士で、今はたった2人だけでここを切り盛りしているという。
「実は今、事務員を募集中でね、しかも短期なんだ。水口さんも働けるのは短期なんでしょ?」
裁判を通じて八神先生への見解を新たにしていたところに、希望ぴったりの好条件。
前のめりで頷きかけたところに、誘った彼の方から待ったがかけられた。
「ただし条件があって、それを呑んでもらえるなら……だけど」
「条件……ですか」
「うん、実は俺には妹がいてね……」
聞けば彼には親の再婚で出来た義理の妹がいて、彼女は幼い頃に実の父親からDV被害に遭っていたのだという。
彼女は現在大学生で、卒業後は事務所に入って秘書として働く予定になっているから、私にはそれまでの中継ぎをして欲しいという事らしい。
「桜子……妹は今も暴力に対するトラウマがある。アイツはたまに事務所に来ては手伝いをしてくれているし、引き継ぎの時には女同士で色々な会話もするだろう。だけどDVに関する話題は絶対に口にして欲しくないんだ」
「妹さんも……ここに来てたんですか?」
「水口さんの依頼内容を聞かれたくなかったから、あなたの予約と桜子が来る時間をずらしていた」
それで合点がいった。この事務所には何度か足を運んでいたけれど、今まで一度たりとも女性を見かけたことがなかった。
なのに応接室にはガラスの花瓶に入った花が綺麗に飾られていたり、高級カップが少しの茶渋も残さず美しい状態で出されて来たのは、普段から手入れをしてくれている女性の存在があったからなのだ。
「俺がここまで打ち明けたのは、あなたなら信用に値すると思ったし、是非とも一緒に働いて欲しいと思っているからだ。そして俺の妹のために協力してもらうには、アイツの過去とトラウマについて知っておいてもらう必要があるだろうから……」
どうだろう……と聞かれて頷いた。
腑に落ちない部分はあるけれど、目の前に吊るされた好条件には抗えなかったのだ。
後日事務所に足を運び、改めて日野先生を紹介された。
目の前にイタリア製の高級スーツを着こなした美男子2人がドンと並んだ様はなかなかの圧巻で、やっぱりここをホストクラブにした方がいいんじゃないか……と本気で思った。
私が駄目ンズ専門じゃなければ、速攻でドンペリをオーダーして貢ぎまくっていただろう。
「いいか、何度も言うけど、桜子は実の父親にDVを受けていた過去がある。今はほとんど記憶に無いけれど、水口さんの話を聞いて記憶の蓋が開いたら、どんな症状が出るか分からない。最初の頃のような怯えた目は2度とさせたくないんだ」
「それはこの前も聞いて分かったけれど、一緒に仕事をしていたら、お互いの家族の話題になったりするものでしょう? 私、嘘はつきたくないわ」
先日は一応頷いたものの、やはり嘘なんてつきたくない。
それに女同士で雑談していれば必ず恋人や家庭の話になるだろうし、そのうちに綻びが出て誤魔化せなくなるに決まっている。
だけど八神先生は私の言葉を予測していたかのように、アッサリと言ってのけた。
「嘘をつきたくなければ、最初から何も言わなければいい。『プライベートの話はしたくない』で通すんだ。大丈夫、桜子自体が家族の話をしたがらない。聞いてくるとしたら彼氏がいるかどうか……ぐらいなものだろう」
本音を言えばやっぱり納得いかないと思ったけれど、雇い主が決めたことなら仕方がない。
私たち3人は改めて約束を確認し合い、握手を交わしたのだった。
その数日後、初出勤した私は八神桜子との初対面を果たすことになる。
聡明さと謙虚さ、そして儚さを持ち合わせたその女性は、まさしく桜の花のように可憐で美しかった。
そしてその後、私は徐々に、彼女を巡る複雑な人間関係に気付いて行くことになる……。
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