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<< 妹と親友への遺言 >> side 大志
51、ボストンにて (6) / 落胆
しおりを挟む「Excuse me...(ちょっと失礼します…)」
慌てて席を立ち、口を押さえながら速足で洗面所へと向かう。個室に飛び込んで鍵を掛けると、すぐに便座を上げて顔を突っ込んだ。
「うっ……ウエッ!ゲッ……ウッ……」
食べたものが全部出た。
それはほぼほぼ食べた時のまま、消化されずにそのまま押し出されたといった状態で、少量の血液も混じっていた。吐く時に食道が傷付いたのかも知れない。
吐き終わっても胃の痛みと喉の焼けるようなヒリヒリ感が残っている。
胃の辺りをグッと押さえて、大きく深呼吸する。
「あ~あ……油断した……ヤバいな……」
ーー何が『調子がいい』だ。『癌の進行が止まっているのかも』……だ。馬鹿じゃねえのか。そんな事あるわけないのに。
俺の中の癌細胞は絶賛活動中で、むしろ張り切って暴れてるじゃないか……。
「…行かなきゃ……」
それでも早く席に戻らないと……このままここにいたらみんなが……桜子が心配する。
トイレの壁に手をつきながらヨロヨロと立ち上がり、扉を開けて外に出たところで、ギョッとして足を止めた。
「ジョン……」
何故かジョンがトイレの入口に立っている。
そこから動かないからトイレに用があるわけではなさそうだ。その青い瞳は俺をジッと見つめている。心配そうに、辛そうに……。
心臓がドクンとする。
ーーそう言えばドクターなんだっけな。
「Can I talk with you in English? (英語で話せるかな?)」
「It’s okay(いいですよ)」
俺が頷くと、ジョンは俺に分かりやすいようゆっくりとした英語で話し始めた。
「君は身体の調子が悪いんじゃないか? 顔色が悪いし食欲も無さそうだ。今も吐いてたんだろう?」
「……ええ」
「それは良くないな。今日はこれで解散にしよう。無理をさせてすまなかったね。このまま病院に行くかい?
「いえ……このまま会食を続けさせて下さい」
ジョンは怪訝そうに片方の眉を上げ、厳しい口調で言う。
「申し訳ないが、医者として病人を放置しておくわけにはいかないんだよ。額に脂汗も浮かんでるじゃないか。相当辛いんだろう?」
「……内緒にして欲しいんです」
「えっ?」
「妹にはバレたくないんです。せっかく会えたんです。日本からわざわざ会いに来たんです。どうか……楽しい時間を続けさせて下さい!」
下手な英語で必死に訴えると、彼は何かを悟ったように目を伏せた。
「何処が悪いんだ。胃か? 肝臓か?」
「……胃です」
「そうか……痛み止めは?医師の紹介状は持っているのか?」
「ええ……」
こっちでもしもの事があった時のために英文の紹介状を書いてもらってきた。それは今もコートの内ポケットにパスポートと共に入っている。
これ以上隠し通すのは無理だと悟った俺が紹介状を差し出すと、それに目を通した途端、彼は片手で顔を拭い、「Oh...」と絶句した。
「申し訳なかった。辛いことを無理やり聞き出してしまったね。だけど……今の状態じゃ辛いだろう。帰って休んだ方がいい」
「いえ。桜子との時間の方が大切ですから」
俺がハッキリ言い切ると、彼は涙ぐんで俺を抱き締めた。
「分かったよ。君の深い愛情のために今は見逃そう。だけど、その後で私のオフィスに来なさい」
「あなたの?」
「そうだ。そこで栄養補給と吐き気止めの点滴をしよう。可能であれば毎日通って来なさい」
揃って席に戻ってからは、俺が食べないのを悟られないよう、ジョンが率先して場を盛り上げてくれた。
それからしばらくすると、「俺と大志は意気投合したから、男だけで飲みに行くよ」と言って、タクシーで女性を家に送ってから、そのままジョンのオフィスに連れて行かれた。
「ジョン、迷惑をかけて済まない。それから桜子に内緒にしてくれて感謝する」
ベッドに横になって点滴を受けながらそう言うと、ジョンは首を横に振って、
「私は旅先で弱っていた親友の手助けをしただけだよ」
片目を瞑ってウインクするのを見て、やっぱりこういうキザなウインクは日本人よりアメリカ人の方が似合うな……なんて、どうでもいいことを考えたりした。
タクシーで送ってもらい、アパートで降りる時、ジョンが俺の手を力強く握りしめる。
「God bless you (神の御加護を)」
ジョンさんには申し訳ないけれど、最後に告げられたその言葉が、俺にはとても虚しいものに響いた。
だって神の加護もハーバードの銅像の御利益もありはしないじゃないか。
「お帰りなさい。ジョンさんと何処に行ったの? 楽しかった?」
ソファーから振り返った桜子の笑顔を見て、途端に荒んでいた心がジワッと暖かくなって解れていく。
救いの手を差し伸べてくれる神も仏もいないけれど、俺には桜子がいる。
「何処か知らないけどジョンさんの行きつけの店に連れてかれた」
桜子の隣にドサッと座り、ソファーに深く背中を沈める。点滴が効いたのか随分楽になった。
「今日は通訳をありがとうな。流暢に喋ってたから感心したよ」
「ううん、ビジネス英語にはまだまだだよ。だけど、お兄ちゃんに少しは私の成長を見せられたかな? お兄ちゃんのお陰でここまで出来るようになったよって見せたくて、張り切っちゃった」
「そうか……」
ああ、ダメだな。最近涙腺が緩くて本当に参る。なんだかもう、いっぱいいっぱいだ。
「……お兄ちゃん?」
「ふっ……お前の成長が嬉しくて……感動した。父さんと母さんも、きっと……」
もう涙を隠せそうにないから、涙の理由で誤魔化した。
「嫌だ……お兄ちゃんが泣いたら……私まで……」
桜子が俺の肩に顔を埋めると、そこから濡れた感触が広がっていく。
「桜子……いつのまにか兄ちゃんに戻ってるな。メアリーさんの前では大志って呼んでくれてたのに」
「だってそれは!……英語で会話するときは名前呼びだから!」
肩を抱き締めながら冗談めかして言うと、桜子が泣き笑いの顔で反論した。
「ハハッ……英語圏なんだから大志って呼べよ。言っとくけど恋人設定もまだ終了してないからな」
「ええっ!まだ続いてたの?」
「続いてるに決まってるだろ。キスをしたっていいぞ」
「そんなのしないよ!」
「ハハッ……」
ーーしろよ。
キスしたい……と思った。
ーー抱いてしまおうか……。
ふと湧き上がった衝動が、自分の中で一気に膨れ上がっていくのが分かった。
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