仮初めの花嫁 義理で娶られた妻は夫に溺愛されてます!?

<< 妹と親友への遺言 >> side 大志

49、ボストンにて(4) / 油断

　
　夜になって問題が起きた。
　近くのホテルに宿泊すると言う俺を桜子が執拗に引き留めたのだ。

　土曜日に日本を出発して、到着したのが東海岸時間の土曜日午前11時近く。
　今夜から金曜日の朝にチェックアウトするまでの6泊でホテルに予約が入れてある。

「ここにはシングルベッドが1つあるだけだし、もうホテルの予約も入れてるからさ」

「だったらお兄ちゃんは私のベッドで寝ればいいよ。私はソファーで寝るから」

「そんなの駄目だ！お前が風邪を引くだろう！」

「全室暖房が効いてるし、ソファーは大きいから大丈夫だよ。せっかく一緒に過ごせるのに、ホテルに泊まっちゃったら時間が勿体ないよ！」

　しばしの言い合いの末、俺がソファーで寝ることにし、ホテルをキャンセルした。

　正直言うと、日本でホテルを予約する時に、桜子のアパートに泊まることを考えなかったわけではない。
　だけど今の精神状態で同じアパートで寝たりしたら、襲ってしまうかも知れない。
　襲わないにしても、後ろめたい気持ちで悶々としながらアパートに泊まるよりは、思い切ってホテルに泊まった方が精神衛生上いいだろうと思ったのだけど……俺の決心なんて所詮こんなもんだ。

　だって『時間が勿体ない』、桜子の言う通りだろう？
　躊躇したり悩んだりする暇があったら、もっと2人の時間を大事にすべきだ。
　俺が逝った後で桜子が1つでも多く俺のことを思い出せるように、あの時にあんな話をしたなと振り返れるように……少しでも長く一緒に過ごすんだ。あの澄んだ瞳に俺の姿を焼き付けてもらえるように。


　その夜は桜子が、胃もたれがすると言う俺を気遣って薄味の雑炊を作ってくれた。沢山は食べれなかったけど、出汁のきいた優しい味わいのそれは、腐りかけたような俺の胃袋にも優しかったみたいで、茶碗に軽く1杯平らげることが出来た。

ーーやっぱり桜子といると調子がいいのかな。

　その夜は絶対に興奮して眠れないと思っていたけれど、自分が思っていた以上に疲れていたらしい。
　桜子の髪を乾かしてからソファーに並んで座って喋っていたら、いつの間にか意識が飛んでいた。
　時差のせいか翌朝は朝4時に目が覚めて、身体には花柄のブランケットが掛けられていた。

　こんなに自然に、しかもぐっすりと眠れたのは病気の告知を受けて以来初めてだった。心なしか頭がスッキリして身体も軽い気がする。

ーーここに来て良かった……。

　カーテンを開けたら外はまだ薄暗く、窓を開けたら何処かから虫の羽音のようなチチチ……という音が聞こえるだけだった。

　緑の多い場所にいると調子がいいのかも知れない。桜子に会えて心が満たされたから、癌の進行が止まっているのかも……。

ーーやっぱり桜子には何も言わずに日本に戻ろう。

　こうして穏やかな時間を過ごせただけで十分だ。昨日は桜子のパジャマ姿を見ても勃つことは無かったし、意識せず自然に喋っていられた。
　束の間病気のことを忘れて桜子の料理を食べて喋って笑って……それだけで十分満たされた。

ーーうん、いいお兄ちゃんのままで帰ろう。
　
　そんな風に考えていた俺は、あまりにも気分が良かったから浮かれていたんだろう。
　ちょっと調子が良かったくらいで、自分が死にかけの人間だということをうっかり忘れて楽天的になっていた。

　俺が美味しく食事が出来たのはその初日だけで、あとは痛みと吐き気との闘いが待っていた。