53 / 177
<< 妹と親友への遺言 >> side 大志
28、『新 八神法律事務所』始動
しおりを挟む『八神法律事務所』は都心の8階建ビルの4階に入っている、主に民事事件を扱う法律事務所だ。
父亡きあと事務所を引き継いだ俺は、事業主兼、弁護士として、ここでたった1人で働くことになった。
別に個人事務所で1人弁護士というのは珍しい事ではない。その方が自由度が高いし仕事も好きなように選べるので、敢えてそうしている者も少なくない。
ただ、俺の場合は大手事務所で上から割り当てられた案件を担当するという形を取っていたし、スケジュール管理や書類の準備は事務所のパラリーガルや事務員任せで良かったから、全てを自分でやるというのに戸惑いがあった。
本当なら前の事務所でもう少し経験を積んでおきたかったけれど、今更それを言っても仕方がない。
28歳でいきなりの事業主で1人弁護士。不安がないと言ったら嘘になる。いや、正直言えば不安だらけだしプレッシャーもあるけれど、もう動き出したんだ。今までの経験やこれまで学んできたことを信じて、とにかく一歩を踏み出すしかない……そう自分に言い聞かせた。
その頃桜子は、将来は秘書の資格を取るべく大学の英文学科で英語学について学んでいた。
俺や父親の姿を見て、その仕事をサポートしたいと考えたのだと言う。
「私、大学を辞めて働こうかな……」
家を売るという話をした途端、桜子がそう言い出した。
別に経済的に困窮しているわけでは無いし、相続税のために現金が必要なだけだと説明しても、不審げな目を緩めなかった。
事務所を軌道に乗せるために俺が休日返上で仕事を受けまくっている事なんかにも気付いていたんだろう。
「フザけんな! お前が大学を辞めたりしたら、俺は父さんにも母さんにも顔向けできないよ! いいか? 父さんと母さんは俺たちのために多額の貯金と保険金を遺していってくれたんだ。2人に恩返ししようと思うなら、そのお金で教養を身につけて、立派な社会人になるんだ。大学はそのための場だ! お前は何も心配せずに、とにかく学べ! 」
一気に捲し立てたら、驚いたのかポロポロ涙を零し始めた。
「ごめん、桜子……言い方がキツかった。でも俺は……」
そっと肩に手を置くと、桜子はふるふると首を振る。
「違うの……怖かったんじゃないの。お兄ちゃんが私のために頑張ってくれてるのが嬉しくて、無理させてるのが申し訳なくて……」
「桜子、兄ちゃんはお前が笑ってくれたら頑張れるんだ。だから泣かないで、笑っててくれよ」
「うん……お兄ちゃん、私、勉強を頑張るね。そしていつかお兄ちゃんの右腕になって役に立つから……絶対だから……」
「うん、楽しみだな」
ーーそうだな、そうなれたら楽しいだろうな……。
*
「へえ……綺麗にしてるじゃないか」
俺が前の事務所を退社して、『八神法律事務所』のホームページの写真が俺の顔に差し替えられた頃、冬馬がフラリと事務所の見学に来た。
「まあな、1人だけだから広々と使えるし、汚れるほども働いていないからな」
以前からの顧客も何人かそのまま顧問契約を継続してくれているし、『法テラス』に事務所を登録しているから、ちょこちょこ相談者が訪れる。だけど1人で捌ける数は限られているし、事務所を留守にしている間に客を逃している可能性があり、そこをどう補うかが今の課題だった。
「事務員を1人入れるか、奮発してパラリーガルを雇うか……」
「お前は凄いな。尊敬するよ」
冬馬は空いているデスクの椅子にギシッと座り、引き出しを開けてみたり椅子ごとクルリと回ったりしながらしみじみと言った。
「凄いというか、必要に迫られて……だけどな。でもさ、俺が父さんと一緒に働く夢は叶わなかったけれど、 俺たちのサポートをしたいと言い続けてきた桜子の夢は叶えてやりたいんだ。 俺の力でどこまでやれるか分からないけど、 自分の運と能力を信じて漕ぎ出してみるよ」
本音半分、強がり半分。
だけど漕ぎ出した舟を沈めるつもりは無い。俺はやり遂げてみせる……その決意だけは胸の奥で熱く燃えていた。
「じゃあさ、弁護士をもう1人追加するっていうのはどうだ?」
「そりゃあ、そう出来れば一番いいんだろうけど、予算的にもまだそこまでの余裕は無いよ」
冬馬はギシギシと椅子を揺らすのを止め、俺を真っ直ぐ見つめてくる。
「大志、その夢に俺も参加させてくれないか? 半年……いや、3ヶ月待ってくれ。俺も今の事務所の仕事を片付けて、お前の事務所に移るから」
「えっ?! そりゃあそうしてくれたらありがたいけど……今の事務所よりも確実に収入ダウンだぜ」
「そんなのは俺がここに来れば即解決だ。絶対にクライアントを増やしてみせる」
そう言って不敵に笑ったアイツの目に、本気を見た。
「冬馬…… 本当にいいのか? 」
「俺がそうしたいんだ。 そうさせてくれ」
「……分かったよ。 よろしく頼むぜ、 相棒」
俺たちは拳を付き合わせて笑顔で頷いた。
鼻の奥がツンとした。
冬馬は宣言通り、きっちり3ヶ月で前の事務所の仕事を片付けて、俺の事務所に移って来た。
その後、俺たちの奔走を見ていた桜子が大学の行き帰りや空いた時間に事務員として手伝いに来るようになり、『新 八神法律事務所』が本格的にスタートした。
水口麻耶が離婚の相談に来たのは、ちょうどその頃だった。
10
お気に入りに追加
1,588
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。