仮初めの花嫁 義理で娶られた妻は夫に溺愛されてます!?

田沢みん

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28、『新 八神法律事務所』始動

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『八神法律事務所』は都心の8階建ビルの4階に入っている、主に民事事件を扱う法律事務所だ。

 父亡きあと事務所を引き継いだ俺は、事業主兼、弁護士として、ここでたった1人で働くことになった。

 別に個人事務所で1人弁護士というのは珍しい事ではない。その方が自由度が高いし仕事も好きなように選べるので、敢えてそうしている者も少なくない。

 ただ、俺の場合は大手事務所で上から割り当てられた案件を担当するという形を取っていたし、スケジュール管理や書類の準備は事務所のパラリーガルや事務員任せで良かったから、全てを自分でやるというのに戸惑いがあった。

 本当なら前の事務所でもう少し経験を積んでおきたかったけれど、今更それを言っても仕方がない。
 28歳でいきなりの事業主で1人弁護士。不安がないと言ったら嘘になる。いや、正直言えば不安だらけだしプレッシャーもあるけれど、もう動き出したんだ。今までの経験やこれまで学んできたことを信じて、とにかく一歩を踏み出すしかない……そう自分に言い聞かせた。



 その頃桜子は、将来は秘書の資格を取るべく大学の英文学科で英語学について学んでいた。
 俺や父親の姿を見て、その仕事をサポートしたいと考えたのだと言う。

「私、大学を辞めて働こうかな……」

 家を売るという話をした途端、桜子がそう言い出した。
 別に経済的に困窮しているわけでは無いし、相続税のために現金が必要なだけだと説明しても、不審げな目を緩めなかった。
 事務所を軌道に乗せるために俺が休日返上で仕事を受けまくっている事なんかにも気付いていたんだろう。

「フザけんな! お前が大学を辞めたりしたら、俺は父さんにも母さんにも顔向けできないよ! いいか? 父さんと母さんは俺たちのために多額の貯金と保険金を遺していってくれたんだ。2人に恩返ししようと思うなら、そのお金で教養を身につけて、立派な社会人になるんだ。大学はそのための場だ! お前は何も心配せずに、とにかく学べ! 」

 一気に捲し立てたら、驚いたのかポロポロ涙を零し始めた。

「ごめん、桜子……言い方がキツかった。でも俺は……」

 そっと肩に手を置くと、桜子はふるふると首を振る。

「違うの……怖かったんじゃないの。お兄ちゃんが私のために頑張ってくれてるのが嬉しくて、無理させてるのが申し訳なくて……」

「桜子、兄ちゃんはお前が笑ってくれたら頑張れるんだ。だから泣かないで、笑っててくれよ」

「うん……お兄ちゃん、私、勉強を頑張るね。そしていつかお兄ちゃんの右腕になって役に立つから……絶対だから……」

「うん、楽しみだな」

ーーそうだな、そうなれたら楽しいだろうな……。

 


「へえ……綺麗にしてるじゃないか」

 俺が前の事務所を退社して、『八神法律事務所』のホームページの写真が俺の顔に差し替えられた頃、冬馬がフラリと事務所の見学に来た。

「まあな、1人だけだから広々と使えるし、汚れるほども働いていないからな」

 以前からの顧客も何人かそのまま顧問契約を継続してくれているし、『法テラス』に事務所を登録しているから、ちょこちょこ相談者が訪れる。だけど1人で捌ける数は限られているし、事務所を留守にしている間に客を逃している可能性があり、そこをどう補うかが今の課題だった。

「事務員を1人入れるか、奮発してパラリーガルを雇うか……」

「お前は凄いな。尊敬するよ」

 冬馬は空いているデスクの椅子にギシッと座り、引き出しを開けてみたり椅子ごとクルリと回ったりしながらしみじみと言った。

「凄いというか、必要に迫られて……だけどな。でもさ、俺が父さんと一緒に働く夢は叶わなかったけれど、 俺たちのサポートをしたいと言い続けてきた桜子の夢は叶えてやりたいんだ。 俺の力でどこまでやれるか分からないけど、 自分の運と能力を信じて漕ぎ出してみるよ」

 本音半分、強がり半分。
 だけど漕ぎ出した舟を沈めるつもりは無い。俺はやり遂げてみせる……その決意だけは胸の奥で熱く燃えていた。

「じゃあさ、弁護士をもう1人追加するっていうのはどうだ?」
「そりゃあ、そう出来れば一番いいんだろうけど、予算的にもまだそこまでの余裕は無いよ」

 冬馬はギシギシと椅子を揺らすのを止め、俺を真っ直ぐ見つめてくる。

「大志、その夢に俺も参加させてくれないか?  半年……いや、3ヶ月待ってくれ。俺も今の事務所の仕事を片付けて、お前の事務所に移るから」

「えっ?! そりゃあそうしてくれたらありがたいけど……今の事務所よりも確実に収入ダウンだぜ」

「そんなのは俺がここに来れば即解決だ。絶対にクライアントを増やしてみせる」

 そう言って不敵に笑ったアイツの目に、本気を見た。

「冬馬…… 本当にいいのか? 」
「俺がそうしたいんだ。 そうさせてくれ」

「……分かったよ。 よろしく頼むぜ、 相棒」

 俺たちは拳を付き合わせて笑顔で頷いた。
 鼻の奥がツンとした。


 冬馬は宣言通り、きっちり3ヶ月で前の事務所の仕事を片付けて、俺の事務所に移って来た。

 その後、俺たちの奔走を見ていた桜子が大学の行き帰りや空いた時間に事務員として手伝いに来るようになり、『新 八神法律事務所』が本格的にスタートした。


 水口麻耶が離婚の相談に来たのは、ちょうどその頃だった。
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