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最終章 2人の未来編
34、ごめんな? 俺が彼氏で
しおりを挟む昨夜のたっくんは饒舌で、美容院のお客様の話や通信過程のレポート内容など、息つく間も無いくらいずっと話し続けていた。
きっと沈黙が訪れるのが怖かったんじゃないかと思う。静かになれば穂華さんの不規則なイビキが聞こえてきて、嫌でも医師から告げられた言葉が頭に浮かんでしまうから。
だから私もたっくんの言葉に大げさに相槌を打ち、大声で笑い、自分もコンビニの話やアパートで炒飯を焦がしてしまった話を大袈裟に話して聞かせた。
朝6時になって遠くの空が薄っすらと濃紺と紫色のグラデーションを描き始め、常駐の看護師さんが点滴の交換に来た。
「もう朝か……小夏、腹が減っただろ?」
「私は大丈夫……」
看護師さんを手伝って、2人してヨイショと穂華さんの体の向きを変え、背中に枕を差し込んでいたら、私のお腹がグーッと鳴った。
「あのっ、コレは……本当に大丈夫だから!今はそれどころじゃないし、気にしないで!」
「ハハッ、気を遣うなよ。そう言えば昨日の夜は何も食べてなかったもんな。ごめんな、俺のせいで。何か買いに行くか?」
「いや、本当に気にしないで……」
私たちのやり取りを見ていた年配の看護師さんが、「今は呼吸状態も安定してるし、すぐにどうこうって事は無いから、食料の調達に行って来たら?」と声を掛けてくれた。
たぶん看護師同士の引継ぎで、たっくんが昨日医師から聞かされた内容も把握しているのだろう。
「気持ちは分かるけれど、自分の身体を大事にしなきゃダメよ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べないと」
そう言い残して部屋から出て行った。
「……コンビニにでも行こうか」
「うん」
施設の食堂でも食事は出来るけれど、開店の7時まではまだ1時間あるし、外の空気を吸いたい気分でもあったから、2人で散歩がてら近所のコンビニまで歩くことにした。
早朝の街はまだ薄暗く、吐く息は喉から溢れた途端に白くなる。
ゆっくり深呼吸をしたら、肺の奥までヒュッと冷たい空気が入り込んで、寝不足の脳を一気に目覚めさせてくれた。
「小夏、手袋してこなかったの?」
「あっ、慌ててたから……」
「そんじゃ、片方ずつな」
たっくんの濃紺の手袋を片方ずつはめて、もう片方の手は繋いで一緒にたっくんのダウンジャケットのポケットへ。
「ふふっ、なんだか恋人っぽいね」
「まあ、恋人だからな」
「へへっ」
「ごめんな……昨日はバイトがあったのに、休ませちゃったな」
「いいの、バイト仲間が代わってくれたし。週末でちょうど良かったよ。どうせ今日の午前中にはこっちに来るつもりだったから」
「クリスマスも……何処かに出掛けたり、恋人らしい事はしてやれないと思う。もしかしたら、それどころじゃないかも知れない」
「いいよ、私がここに会いに来るし」
もしかしたら、たっくんの部屋でケーキを食べるくらいは出来るかも……なんて期待して、バイトのシフトを入れていなかった……と言うのは内緒にしておく。
「ごめんな? 俺が彼氏で……」
「馬鹿っ! そういう事は絶対に言わないで!たっくんが彼氏じゃなきゃ、私が嫌なの!」
「そっか……俺、今日は仕事を休もうかな……」
「たっくんがそうしたいならそれでいいと思うけど……もしも私に気を遣って……とかなら、 仕事に行って欲しい」
「えっ、いいの?」
「当然でしょ!……って、やっぱり仕事に行きたいんじゃん! 私はたっくんのお手伝いがしたくて来てるんだよ? 遠慮される方が嫌だよ」
ーーほら、この期に及んで、まだ自分のことを後回しにして……。
私を思い遣ってくれるのは嬉しいけれど、こんな時くらいは我が儘を言ってくれてもいいのに……。
昨日の夜に縋り付いてきたみたいに弱音を吐いて欲しいし、もっと頼って欲しい。どんな些細なことでもいいから手伝いたいと思うのは、恋人なら当然だと思う。
「私は部屋で穂華さんと待ってるから、たっくんは仕事に行きなよ。須藤さんに鍛えてもらって、しっかりと技術を学んで来るんだよ!」
「小夏は? 勉強は大丈夫?」
「うん、テキストと筆記用具を持ってきたし。たっくんのノートパソコンを貸してね」
そこで漸くたっくんに笑顔が戻った。
「勿論。俺の写真フォルダの『小夏』のとこにお前の写真がめっちゃ入ってるから見ててもいいぞ」
「見ないからっ!」
「ハハッ……そうか? 白目のとか寝顔もあるし、面白くて飽きないのに」
「見ないっ!そして盗撮禁止!」
「ハハハッ」
コンビニで朝食用のおにぎりと昼用のサンドイッチ、そして飲み物を買って戻り、たっくんは朝食を済ませると、開店準備に間に合うように9時前に部屋を出て行った。
静まりかえった部屋で、ベッドサイドの椅子に座って穂華さんの寝顔を見ていると、彼女との思い出が次々と浮かんでくる。
綿菓子のように甘ったるくて、モンシロチョウのように自由だった彼女が、今は浮腫で腫れ上がった身体でベッドに横たわっている。
「穂華さん……昨日のたっくんの言葉を聞いていましたか? たっくんは、どんな姿になっても、どんな状態であっても……それでもあなたに生きていて欲しいんですよ」
指先までパンパンに膨れ上がった、今にも皮膚が破れそうなその手にそっと自分の手を添えて、聞こえているかもわからないその耳に口を近づけ話し続ける。
「穂花さん、私ね……穂華さんのことが嫌いでした。だって、いつも男の人に夢中で、たっくんのことを大事にしてくれなかったじゃないですか。私の前からたっくんを連れて行っちゃったじゃないですか。……だけど、私も穂華さんには生きていて欲しいと思ってるんですよ」
話しているうちに自然に涙が流れていた。
涙は私の手の甲に落ち、その下の穂華さんの手にも伝って行く。
「私、今だったら穂華さんと恋バナが出来ますよ。あの頃には幼くて良く分からなかったけれど……今なら恋愛のトキメキや苦しさも分かるし、ちゃんと話し相手になれると思うんです。だから……生きてください。生きて元気になって……遊び人時代のたっくんを一緒に責めたり、からかったりしましょうよ」
涙で濡れた手をタオルでそっと拭いていたら、穂華さんの指先がピクッと動いて、薄っすらと目が開いた。
「穂華さん?! 聞こえてますか? 私の顔は見えますか? 小夏です!」
穂華さんは微かに口元を緩めると、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「喉は乾いてないですか?」
ガーゼに少しだけ水を含ませて、乾燥した唇に当てると、チューチューと水を吸って、すぐまた目を閉じる。
一緒だけ視線が合ったような気がしたけれど、それが気のせいだったのかも、彼女が意識してのことだったのかも分からなかった。
「穂華さん……お願い……たっくんを置いて逝かないで……」
その日から、穂華さんの積極的治療は打ち切られ、施されるのは生命維持に最低限必要な1日1リットル以下の輸液と、口元を覆う酸素マスクのみとなった。
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