216 / 237
最終章 2人の未来編
22、無理すんなよ?お前はもう十分に素敵なんだ
しおりを挟む今朝の横須賀は雲一つない青空が広がっていて、早朝の澄んだ空気が爽やかだ。
遠くから丘を見上げると、『サニープレイス横須賀』の白い建物が、朝日に照らされ眩しく輝いているのが見えた。
「悪いな、せっかく来てくれたのに、こんなとこまで付き合わせて……」
「ううん、最初からそれを承知で来たんだし、たっくんといられるなら何処でもいいよ」
たっくんは毎朝7時の起床時間に合わせて施設を訪れて、就寝時間の8時まで穂華さんに付き添っている。
私が横須賀に来ると言った時、たっくんは施設の人に穂華さんを任せて半日くらい時間を作ると言ってくれたけれど、私がそれを断った。
たっくんがやると決めた事を私のせいで中断させたくなかったし、彼のいつもの生活を見てみたいという気持ちもあったから。
私に合わせて今日は自転車をアパートに置いてきたたっくんと、手を繋いでゆっくりと坂道を登って行く。
遠くから聞こえる穏やかな波の音。
風が運んでくる潮の香りに紛れて、何処からか漂ってくる木蓮の香りが、春の訪れを知らせていた。
ーーうん、気持ちいい。
大きく深呼吸して朝の空気を胸一杯に吸い込むと、それを見ていたたっくんがクスッと小さく笑う。
「あっ、今笑ったでしょ!」
「いや、笑ったって言うか……シアワセだなって思ってさ」
「えっ?」
たっくんが遠くを見るような目をして、握った手をブンブン振りながら歩く。
「12月の終わりに初めてここに来て、それからここに通うようになって……もう3ヶ月は経つけどさ、景色をゆっくり眺める余裕も、楽しいと思う事も無かったから……」
「ごめん、なんか私だけ浮かれてて……不謹慎だよね」
「違うって!」
その場で足を止めて私をジッと見つめる。
「自分で決めた事とは言え、小夏と離れて辛くて苦しくて……今まで何度も絶望的な気持ちでこの坂を登って来たんだ。だけど今日は同じ坂を小夏と手を繋いで歩いてる。それが嬉しいんだ」
こんなふうに波の音に耳を澄ませたり春の風を感じたりしながら、2人揃って母親に会いに行く。
そんな日が来るなんて思ってもいなかったのだと、たっくんは穏やかな表情で語った。
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……本当に私も一緒でいいの?穂華さんが嫌がるんじゃ……」
「それは……たぶん大丈夫な気がする」
「だけど前に来た時も思いっきりライバル視されたでしょ?」
「あの時はあの時、今日は今日だよ。母さんにとっては毎日が新しい出会いなんだから」
「……えっ?」
たっくんの言葉の意味が良く分からなかったけれど、彼がいいと言っているんだから、とにかくこのままついて行こう。
穂華さんが嫌がるようなら離れて1人で裏庭の散歩をしてもいいし。
今度は私が「歩こう~、歩こう~」と散歩の歌を歌いながら、繋いだ手を大きくブンブンと振った。
「ほら、たっくんも歌って!」
「えっ、マジかっ!」
「マジですよ。ほら、御一緒に!『歩こう~』」
「「歩こう~」」
2人で「2番の歌詞ってこんなんだったっけ?」なんてクスクス笑いながら坂を登り切り、芝生に囲まれた小径を進んで行った。
たっくんには今日のこの日、この時を、最高に楽しい思い出として記憶に残しておいて欲しい。
これからこの坂道を1人で登る度に、その事を思い出して微笑んで欲しいから……。
「穂華さん、おはようございます」
たっくんが部屋に入って声を掛けても、穂華さんは薄っすら目を開けただけで再び目を閉じ、布団に耳まで潜り込んだ。
たっくんに手招きされて私も部屋に入り、彼の隣に立つ。
「穂華さん、おはようございます。小夏です」
穂華さんは漸く目を開けて大きく一つ欠伸をしてから、まだ眠たそうな表情で私に焦点を合わせて来た。
「あなた……誰?」
「私は……折原小夏です」
「どうして私の部屋にいるの?ドロボウ?」
穂華さんが険しい表情になった所で、私とベッドの間にたっくんがサッと割り込んで来る。
「穂華さん、彼女はボランティアです。今日一日、俺と一緒に穂華さんのお世話をさせていただきます」
すると穂華さんが小首を傾げて
「えっと、あなたは……」
ーーえっ?
私が思わずたっくんを見上げると、たっくんは顔だけこちらに振り返って、大丈夫とでも言うように黙って頷いた。
「俺は拓巳……ボランティアの和倉拓巳です」
穂華さんはたっくんの話そっちのけで彼の顔を凝視していたかと思うと、
「そうそう、拓巳くんだったわよね。私の息子と同じ名前なのよ。私の拓巳もあなたみたいなブルーアイズでね、とても綺麗な顔をしてるのよ」
そこでキョロキョロと部屋を見渡し、ガバッと身体を起こす。
「拓巳がいないわ!あなた、拓巳が何処に行ったのか知らない?」
「拓巳くんは、お祖母さんと遊びに行ってますよ」
「ああ……そうね、そうだったわ……。あの子ね、あなたと同じ綺麗なブルーアイズなのよ」
「そうなんですか」
同じような会話を3回繰り返してから、たっくんが穂華さんの背中に手を添える。
「それじゃあ穂華さん、ベッドから出てトイレに行きましょうか」
「嫌だ、行きたくない」
「行きたくなくても朝食前に行っておいた方がいいですよ」
すぐに枕元のインターホンを押して、「今からトイレに入ります。よろしくお願いします」と告げ、ベッドの下からピンクの介護シューズを取り出した。
マジックテープをバリっと剥がしたシューズに彼女が足を差し入れると、たっくんがテープをしっかり留めてから立たせ、トイレまで手を引いて行く。
「はい、お待たせしました。さあ穂華さん、一緒に行きましょうね」
若い女性職員さんがたっくんからバトンタッチして、車椅子用の広い室内トイレに入って行った。
何も出来ずにその様子を後ろで黙って見ていた私を振り返り、たっくんが苦笑いする。
「朝はいつもこんな感じ。トイレの介助は恥ずかしがるから女性職員さんにお願いしてるんだ。オムツをしているのを見られたくないみたい」
「そう……」
「俺のことはお世話をしてくれる人って認識してるみたいだけど、なかなか名前が出てこないようになった。だけど本人は記憶障害を知られたくなくて、分かってるフリをするんだ」
「そうなんだ……」
物忘れが徐々に進行していても、『自分に優しくしてくれる人』とか『嫌いだった人』という感情的な部分の記憶は残っているらしく、以前伯父さん夫婦が来た時の激しい拒絶反応はそのためだったようだ。
母が来た時に素直に従っていたのも、穂華さんが母を姉のように慕っていたという記憶のカケラがまだ残っているからなのかも知れない。
ーーこれがアルツハイマー病患者の介護の現実……。
そしてこれが、たっくんの日常なんだ。
私はあと数時間でここを出てしまえばそれまでだけど、たっくんにはその後も、今日も明日も、ずっとずっとこの時間が続いて行く。
私が家で母が作った料理を食べ、ベッドに寝転んで寛いでいる間も、たっくんは穂華さんに付き添い、何度も繰り返される彼女の話に耳を傾けているんだ。
『自分の道を進む人は、誰でも英雄だ』
不意に、司波先輩がたっくんに捧げた言葉が脳裏に浮かんできた。
「たっくん……私、残りの高校生活を頑張るよ。勉強も一生懸命して、絶対に大学に合格する。そして……英雄のたっくんに相応しい素敵な女性になる」
「英雄?……ああ……俺からしたらお前が英雄だけどな。くれぐれも無理すんなよ?……お前はもう十分に素敵なんだ」
「ううん、たっくんが英雄だよ。凄いよ。たっくんは……たっくんが選んだ道は……カッコいい」
ーーうん、たっくんはカッコいいよ。
顔が綺麗とか整っているとか、そんなのは関係ない。
記憶を失っていく母親のために献身的に尽くすその心が、内面から溢れている強さと優しさが尊いのだ。
そして私は、そんな彼の隣に立つに足りる人間になりたいと……心からそう思う。
気付くとどちらともなく手を伸ばし、指を絡めてギュッとキツく握り締めていた。
0
お気に入りに追加
262
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

【完結】1日1回のキスをしよう 〜対価はチョコレートで 〜
田沢みん
恋愛
ハナとコタローは、 お隣同士の幼馴染。 親から甘いもの禁止令を出されたハナがコタローにチョコレートをせがんだら、 コタローがその対価として望んだのは、 なんとキス。
えっ、 どういうこと?!
そして今日もハナはチョコを受け取りキスをする。 このキスは対価交換。 それ以外に意味はない…… はずだけど……。
理想の幼馴染み発見!
これは、 ちょっとツンデレで素直じゃないヒロインが、イケメンモテ男、しかも一途で尽くし属性の幼馴染みと恋人に変わるまでの王道もの青春ラブストーリーです。
*本編完結済み。今後は不定期で番外編を追加していきます。
*本作は『小説家になろう』でも『沙和子』名義で掲載しています。
*イラストはミカスケ様です。
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。アメリアは真実を確かめるため、3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる