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最終章 2人の未来編
22、無理すんなよ?お前はもう十分に素敵なんだ
しおりを挟む今朝の横須賀は雲一つない青空が広がっていて、早朝の澄んだ空気が爽やかだ。
遠くから丘を見上げると、『サニープレイス横須賀』の白い建物が、朝日に照らされ眩しく輝いているのが見えた。
「悪いな、せっかく来てくれたのに、こんなとこまで付き合わせて……」
「ううん、最初からそれを承知で来たんだし、たっくんといられるなら何処でもいいよ」
たっくんは毎朝7時の起床時間に合わせて施設を訪れて、就寝時間の8時まで穂華さんに付き添っている。
私が横須賀に来ると言った時、たっくんは施設の人に穂華さんを任せて半日くらい時間を作ると言ってくれたけれど、私がそれを断った。
たっくんがやると決めた事を私のせいで中断させたくなかったし、彼のいつもの生活を見てみたいという気持ちもあったから。
私に合わせて今日は自転車をアパートに置いてきたたっくんと、手を繋いでゆっくりと坂道を登って行く。
遠くから聞こえる穏やかな波の音。
風が運んでくる潮の香りに紛れて、何処からか漂ってくる木蓮の香りが、春の訪れを知らせていた。
ーーうん、気持ちいい。
大きく深呼吸して朝の空気を胸一杯に吸い込むと、それを見ていたたっくんがクスッと小さく笑う。
「あっ、今笑ったでしょ!」
「いや、笑ったって言うか……シアワセだなって思ってさ」
「えっ?」
たっくんが遠くを見るような目をして、握った手をブンブン振りながら歩く。
「12月の終わりに初めてここに来て、それからここに通うようになって……もう3ヶ月は経つけどさ、景色をゆっくり眺める余裕も、楽しいと思う事も無かったから……」
「ごめん、なんか私だけ浮かれてて……不謹慎だよね」
「違うって!」
その場で足を止めて私をジッと見つめる。
「自分で決めた事とは言え、小夏と離れて辛くて苦しくて……今まで何度も絶望的な気持ちでこの坂を登って来たんだ。だけど今日は同じ坂を小夏と手を繋いで歩いてる。それが嬉しいんだ」
こんなふうに波の音に耳を澄ませたり春の風を感じたりしながら、2人揃って母親に会いに行く。
そんな日が来るなんて思ってもいなかったのだと、たっくんは穏やかな表情で語った。
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……本当に私も一緒でいいの?穂華さんが嫌がるんじゃ……」
「それは……たぶん大丈夫な気がする」
「だけど前に来た時も思いっきりライバル視されたでしょ?」
「あの時はあの時、今日は今日だよ。母さんにとっては毎日が新しい出会いなんだから」
「……えっ?」
たっくんの言葉の意味が良く分からなかったけれど、彼がいいと言っているんだから、とにかくこのままついて行こう。
穂華さんが嫌がるようなら離れて1人で裏庭の散歩をしてもいいし。
今度は私が「歩こう~、歩こう~」と散歩の歌を歌いながら、繋いだ手を大きくブンブンと振った。
「ほら、たっくんも歌って!」
「えっ、マジかっ!」
「マジですよ。ほら、御一緒に!『歩こう~』」
「「歩こう~」」
2人で「2番の歌詞ってこんなんだったっけ?」なんてクスクス笑いながら坂を登り切り、芝生に囲まれた小径を進んで行った。
たっくんには今日のこの日、この時を、最高に楽しい思い出として記憶に残しておいて欲しい。
これからこの坂道を1人で登る度に、その事を思い出して微笑んで欲しいから……。
「穂華さん、おはようございます」
たっくんが部屋に入って声を掛けても、穂華さんは薄っすら目を開けただけで再び目を閉じ、布団に耳まで潜り込んだ。
たっくんに手招きされて私も部屋に入り、彼の隣に立つ。
「穂華さん、おはようございます。小夏です」
穂華さんは漸く目を開けて大きく一つ欠伸をしてから、まだ眠たそうな表情で私に焦点を合わせて来た。
「あなた……誰?」
「私は……折原小夏です」
「どうして私の部屋にいるの?ドロボウ?」
穂華さんが険しい表情になった所で、私とベッドの間にたっくんがサッと割り込んで来る。
「穂華さん、彼女はボランティアです。今日一日、俺と一緒に穂華さんのお世話をさせていただきます」
すると穂華さんが小首を傾げて
「えっと、あなたは……」
ーーえっ?
私が思わずたっくんを見上げると、たっくんは顔だけこちらに振り返って、大丈夫とでも言うように黙って頷いた。
「俺は拓巳……ボランティアの和倉拓巳です」
穂華さんはたっくんの話そっちのけで彼の顔を凝視していたかと思うと、
「そうそう、拓巳くんだったわよね。私の息子と同じ名前なのよ。私の拓巳もあなたみたいなブルーアイズでね、とても綺麗な顔をしてるのよ」
そこでキョロキョロと部屋を見渡し、ガバッと身体を起こす。
「拓巳がいないわ!あなた、拓巳が何処に行ったのか知らない?」
「拓巳くんは、お祖母さんと遊びに行ってますよ」
「ああ……そうね、そうだったわ……。あの子ね、あなたと同じ綺麗なブルーアイズなのよ」
「そうなんですか」
同じような会話を3回繰り返してから、たっくんが穂華さんの背中に手を添える。
「それじゃあ穂華さん、ベッドから出てトイレに行きましょうか」
「嫌だ、行きたくない」
「行きたくなくても朝食前に行っておいた方がいいですよ」
すぐに枕元のインターホンを押して、「今からトイレに入ります。よろしくお願いします」と告げ、ベッドの下からピンクの介護シューズを取り出した。
マジックテープをバリっと剥がしたシューズに彼女が足を差し入れると、たっくんがテープをしっかり留めてから立たせ、トイレまで手を引いて行く。
「はい、お待たせしました。さあ穂華さん、一緒に行きましょうね」
若い女性職員さんがたっくんからバトンタッチして、車椅子用の広い室内トイレに入って行った。
何も出来ずにその様子を後ろで黙って見ていた私を振り返り、たっくんが苦笑いする。
「朝はいつもこんな感じ。トイレの介助は恥ずかしがるから女性職員さんにお願いしてるんだ。オムツをしているのを見られたくないみたい」
「そう……」
「俺のことはお世話をしてくれる人って認識してるみたいだけど、なかなか名前が出てこないようになった。だけど本人は記憶障害を知られたくなくて、分かってるフリをするんだ」
「そうなんだ……」
物忘れが徐々に進行していても、『自分に優しくしてくれる人』とか『嫌いだった人』という感情的な部分の記憶は残っているらしく、以前伯父さん夫婦が来た時の激しい拒絶反応はそのためだったようだ。
母が来た時に素直に従っていたのも、穂華さんが母を姉のように慕っていたという記憶のカケラがまだ残っているからなのかも知れない。
ーーこれがアルツハイマー病患者の介護の現実……。
そしてこれが、たっくんの日常なんだ。
私はあと数時間でここを出てしまえばそれまでだけど、たっくんにはその後も、今日も明日も、ずっとずっとこの時間が続いて行く。
私が家で母が作った料理を食べ、ベッドに寝転んで寛いでいる間も、たっくんは穂華さんに付き添い、何度も繰り返される彼女の話に耳を傾けているんだ。
『自分の道を進む人は、誰でも英雄だ』
不意に、司波先輩がたっくんに捧げた言葉が脳裏に浮かんできた。
「たっくん……私、残りの高校生活を頑張るよ。勉強も一生懸命して、絶対に大学に合格する。そして……英雄のたっくんに相応しい素敵な女性になる」
「英雄?……ああ……俺からしたらお前が英雄だけどな。くれぐれも無理すんなよ?……お前はもう十分に素敵なんだ」
「ううん、たっくんが英雄だよ。凄いよ。たっくんは……たっくんが選んだ道は……カッコいい」
ーーうん、たっくんはカッコいいよ。
顔が綺麗とか整っているとか、そんなのは関係ない。
記憶を失っていく母親のために献身的に尽くすその心が、内面から溢れている強さと優しさが尊いのだ。
そして私は、そんな彼の隣に立つに足りる人間になりたいと……心からそう思う。
気付くとどちらともなく手を伸ばし、指を絡めてギュッとキツく握り締めていた。
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