197 / 237
最終章 2人の未来編
3、異変
しおりを挟む「小夏はアルツハイマー って聞いたことある?」
ビジネスホテルの一室で母からそう尋ねられた時、私は急に変わった話題に戸惑って、思わず「えっ?」と聞き返していた。
「アルツハイマー って……物忘れが酷くなったりする、アレだよね? お年寄りがなっちゃうっていう……」
それなら私もなんとなくは知っている。
以前テレビで、痴呆老人が踏切に降りて死亡事故を起こし、遺族の元に何百万円もの損害請求があったというニュースを見たことがあったから。
そのとき一緒にテレビを見ていた母と祖母が、『24時間ずっとボケ老人を見張ってるなんて無理に決まってるのに、人情も何もあったもんじゃないわね。こういうのをお役所仕事って言うのよ!』と憤慨していた事もあって、印象に残っていたのだ。
母は私の返答を待ってから、酷く物悲しい顔になり、「それも間違いではないんだけどね……」と続けた。
「アルツハイマー はお年寄りだけがなる訳じゃないの。若くてもなる場合があって、それは若年性アルツハイマー とか、若年性認知症とか呼ばれていて……」
母がそこまで言った辺りで、なんとなくこの話の先が読めたような気がして、背筋がゾクリと冷えた。
嫌な予感がする。この先は聞きたくない、だけど聞かなくてはいけない。それが私の知りたかった事なんだから、逃げるわけにはいかないんだ。
耳を塞ぎたくなる衝動と戦って、真っ直ぐ母の目を見つめた。
「穂華さんがね……その病気になったの。アルツハイマー型認知症」
ーーああ……。
『やっぱり』と言う気持ちと同時に、『間違いじゃないのか』と疑う気持ちもあった。
『間違いであって欲しい』と言う方が正しいかもしれない。
だけど、これで漸く分かった。
たっくんは私を巻き込みたくなくて……私に迷惑をかけると思って、何も言わなかったんだ。
『この指輪を見るたびに……俺のことを思い出して』
『小夏……一緒にお風呂に入ろうか?』
『一生のお願い……一緒にいてよ』
『俺の姿も声も全部刻みつけてよ』
『はぁ~っ……離れがたい……ヤバイな』
『俺……小夏と離れたくない』
最後に肌を重ねたあの夜、幸福感に満たされていた私とは裏腹に、たっくんはたった1人で別れの儀式を行っていたんだ。
『……行けよ。俺がずっと見送っててやるから』
あの日、玄関の中に消えていく私の後ろ姿を、たっくんはどんな気持ちで見つめていたの?
それからアパートに戻って食べたハンバーグは、涙の味だった?
ああ、私はあまりにも鈍感過ぎた。
クリスマスから2ヶ月以上もの間、あんなにもたっくんはサインを出していたのに……。
打ちひしがれ項垂れている私に、母は申し訳なさそうに、だけど容赦なく、悲しい事実を突きつけてくる。
「穂華さんがそれに気付いたのは、秋になってから。だけどそれよりももっと前……7月中旬には、自分でも何か変だとは思ってたそうよ」
最初に気づいた異変は、対人関係だったという。
夫である十蔵さんは顔の広い人で、しょっちゅう何処かのパーティーや食事会に顔を出していて、そこに穂華さんを同伴することも多かった。
ある日のパーティーの席で、ある御夫婦に「初めまして」と挨拶したら怪訝な顔をされ、隣の十蔵さんから「何言ってるんだい、この前会って話したばかりじゃないか」と指摘を受けた。
それが2度3度と続いた時に、自分で『あれっ?』と思ったそうだ。
穂華さんは長く水商売をしていたこともあって、人の名前と顔を覚えるのは得意な方だった。
それが、ついこの間会ったばかりの人を忘れてしまうだなんて……。
不安に思いながらも、真実を確かめるのが怖くて、目を背けていた。
だけど、その兆候はじわりじわりと、そして容赦なく現れる。
自分ではそうした覚えが無いのにピーッと笛が鳴って、ヤカンを火にかけていたと気付く。
買った覚えのない洋服やアクセサリーが増えている。
食事をした形跡はあるのに、その記憶がない。
それと同時進行で、頭にモヤがかかったように思考がボンヤリする時間が増え、何事にもやる気が失せていく。俗に言う『鬱状態』と言うやつだ。
秋になって、流石にこれは変だと自覚した穂華さんは、総合病院の脳神経内科を受診し、様々なテストの結果、アルツハイマー病だと診断された。
それが9月の終わり頃で、その2ヶ月後に、彼女は和倉の家を……たっくんを捨てることになるのだった。
0
お気に入りに追加
262
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる