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最終章 2人の未来編
3、異変
しおりを挟む「小夏はアルツハイマー って聞いたことある?」
ビジネスホテルの一室で母からそう尋ねられた時、私は急に変わった話題に戸惑って、思わず「えっ?」と聞き返していた。
「アルツハイマー って……物忘れが酷くなったりする、アレだよね? お年寄りがなっちゃうっていう……」
それなら私もなんとなくは知っている。
以前テレビで、痴呆老人が踏切に降りて死亡事故を起こし、遺族の元に何百万円もの損害請求があったというニュースを見たことがあったから。
そのとき一緒にテレビを見ていた母と祖母が、『24時間ずっとボケ老人を見張ってるなんて無理に決まってるのに、人情も何もあったもんじゃないわね。こういうのをお役所仕事って言うのよ!』と憤慨していた事もあって、印象に残っていたのだ。
母は私の返答を待ってから、酷く物悲しい顔になり、「それも間違いではないんだけどね……」と続けた。
「アルツハイマー はお年寄りだけがなる訳じゃないの。若くてもなる場合があって、それは若年性アルツハイマー とか、若年性認知症とか呼ばれていて……」
母がそこまで言った辺りで、なんとなくこの話の先が読めたような気がして、背筋がゾクリと冷えた。
嫌な予感がする。この先は聞きたくない、だけど聞かなくてはいけない。それが私の知りたかった事なんだから、逃げるわけにはいかないんだ。
耳を塞ぎたくなる衝動と戦って、真っ直ぐ母の目を見つめた。
「穂華さんがね……その病気になったの。アルツハイマー型認知症」
ーーああ……。
『やっぱり』と言う気持ちと同時に、『間違いじゃないのか』と疑う気持ちもあった。
『間違いであって欲しい』と言う方が正しいかもしれない。
だけど、これで漸く分かった。
たっくんは私を巻き込みたくなくて……私に迷惑をかけると思って、何も言わなかったんだ。
『この指輪を見るたびに……俺のことを思い出して』
『小夏……一緒にお風呂に入ろうか?』
『一生のお願い……一緒にいてよ』
『俺の姿も声も全部刻みつけてよ』
『はぁ~っ……離れがたい……ヤバイな』
『俺……小夏と離れたくない』
最後に肌を重ねたあの夜、幸福感に満たされていた私とは裏腹に、たっくんはたった1人で別れの儀式を行っていたんだ。
『……行けよ。俺がずっと見送っててやるから』
あの日、玄関の中に消えていく私の後ろ姿を、たっくんはどんな気持ちで見つめていたの?
それからアパートに戻って食べたハンバーグは、涙の味だった?
ああ、私はあまりにも鈍感過ぎた。
クリスマスから2ヶ月以上もの間、あんなにもたっくんはサインを出していたのに……。
打ちひしがれ項垂れている私に、母は申し訳なさそうに、だけど容赦なく、悲しい事実を突きつけてくる。
「穂華さんがそれに気付いたのは、秋になってから。だけどそれよりももっと前……7月中旬には、自分でも何か変だとは思ってたそうよ」
最初に気づいた異変は、対人関係だったという。
夫である十蔵さんは顔の広い人で、しょっちゅう何処かのパーティーや食事会に顔を出していて、そこに穂華さんを同伴することも多かった。
ある日のパーティーの席で、ある御夫婦に「初めまして」と挨拶したら怪訝な顔をされ、隣の十蔵さんから「何言ってるんだい、この前会って話したばかりじゃないか」と指摘を受けた。
それが2度3度と続いた時に、自分で『あれっ?』と思ったそうだ。
穂華さんは長く水商売をしていたこともあって、人の名前と顔を覚えるのは得意な方だった。
それが、ついこの間会ったばかりの人を忘れてしまうだなんて……。
不安に思いながらも、真実を確かめるのが怖くて、目を背けていた。
だけど、その兆候はじわりじわりと、そして容赦なく現れる。
自分ではそうした覚えが無いのにピーッと笛が鳴って、ヤカンを火にかけていたと気付く。
買った覚えのない洋服やアクセサリーが増えている。
食事をした形跡はあるのに、その記憶がない。
それと同時進行で、頭にモヤがかかったように思考がボンヤリする時間が増え、何事にもやる気が失せていく。俗に言う『鬱状態』と言うやつだ。
秋になって、流石にこれは変だと自覚した穂華さんは、総合病院の脳神経内科を受診し、様々なテストの結果、アルツハイマー病だと診断された。
それが9月の終わり頃で、その2ヶ月後に、彼女は和倉の家を……たっくんを捨てることになるのだった。
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