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第3章 過去編 side 拓巳
41、失踪
しおりを挟むその兆候は少し前から現れていたんだと思う。
結婚してしばらくは贅沢な暮らしを享受していた母さんも、4ヶ月、5ヶ月と経つと飽きが来たのか、徐々に不機嫌そうな顔を見せるようになっていた。
最初の頃は嬉々として出掛けていた、十蔵さんの海外出張や国内旅行、地元セレブのパーティーなんかにも付いて行かなくなったし、買い物も一緒に行くより1人で出掛けたがるようになった。
家では日がなボ~ッとテラスの籐椅子に腰掛けて考えごとをしているか、1階奥の主寝室に籠って出て来ないことが増え、俺が朝から晩まで顔を見ないという日もあった。
そんな空気を感じてか、十蔵さんも腫物に触るみたいに母に気を遣っていて、指輪やらネックレスやらを買ってきては必死で機嫌取りしている。
いい歳をした中年男性が、10歳も歳下の女にヘラヘラしながら媚びている姿が、前に読んだ谷崎某の『痴人の愛』を彷彿とさせ、見てて滑稽で哀れだった。
それはもうすぐ秋も終わりに差し掛かった11月の初めで、十蔵さんが仕事の関係で大阪に行っていた時のことだ。
朝、朝美と向かい合ってトーストとコーヒーだけの簡単な朝食を食べていたら、珍しく母さんが出てきて俺の隣に座った。
「母さんも食べる?」
そう聞いたら黙って頷いたから、トーストにバターを塗って渡してやったら、「ありがとう」とパクついた。
俺が歯磨きを終えて鞄を持って玄関に向かったら、黙ってす~っと付いてきて、家の前まで出て来る。
「どうしたの?珍しいね」
「ふふっ、母親っぽいでしょ?」
「そうだね。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
暫くしてから何の気なく振り返ったら、白いネグリジェに光沢のあるグレーのガウンを羽織った母さんが、まだヒラヒラと手を振っていた。
俺はちょっと嬉しくなって、年甲斐もなく胸の前で小さく手を振り返した。
あの時の薄っすら目を細めた柔らかい微笑みが、俺が覚えてる最後の母さんの顔だ。
-------------------------
十蔵さん
お世話になりました。
もう飽きたので出て行きます。
事故でも事件でも無いので探さないでください。
拓巳をよろしくお願いします。
---------------------------
拓巳へ
お母さんは出て行きます。
あなたの通帳と印鑑を置いて行きます。
幸せにね。
------------------------------
手紙を発見したのは俺だった。
学校から帰ってきたら、ダイニングテーブル の上にコピー用紙に書かれた手紙が2枚、封筒にも入れずに開いた状態で置かれていた。
手紙というよりも、『ちょっと買い物に行って来ます』みたいな簡潔な伝言レベルのあっけない文章。
心臓がドクンとなって、俺は手紙をグシャッと握り締めたまま、腰を抜かして床に尻餅をついた。
ーーなんだ……コレ!
一体どうなってるんだ?
出て行くって……幸せにって……。
どれくらい経ったのかは分からない。
俺が呆けたまま動けずにいたら、高校から帰って来た朝美が十蔵さんへの手紙に気付いて、慌てて俺の前にしゃがみ込んできた。
「拓巳、穂華さんは?どこに行ったの?!」
俺が黙って自分宛の手紙を差し出したら、朝美はクシャクシャのそれをバッと俺から奪い取って読んで、すぐに十蔵さんに電話を掛けた。
「拓巳、お父さんがすぐに帰って来るって言ってるから、とりあえずそれまで待ちましょう……拓巳、聞いてる?」
朝美の声は聞こえてたけど、内容は全く耳に入ってこなかった。
その時俺の頭にあったのは、いつもと違った今朝の母さんと笑顔、そしてゆっくり振られていた白くて細い手。
まるでモンシロチョウみたいに、ヒラヒラと揺れていて……。
ーーああ、やっぱり母さんはモンシロチョウだ。
ヒラヒラ、フラフラと、自由気ままに飛んでいくんだ。
そしてとうとう、俺を置いて羽ばたいて行った……。
そのとき朝美が俺を力強く抱きしめた。
「拓巳、可哀想に。とうとうあの女に捨てられちゃったのね。だけど大丈夫、私がいるわ。私は絶対にあなたを捨てたりしない。拓巳、愛してる……」
その言葉で漸く気付いた。
ーーそうか、俺は捨てられたんだ……。
その途端、感情が決壊したように全てが溢れ出し、俺は喉が潰れたような低い声で咆哮しながら、必死で朝美にしがみついていた。
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