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第3章 過去編 side 拓巳
37、加奈ちゃん
しおりを挟む臼井先生の異動先は神奈川県北部の小さな村で、母さんによると、先生は村が用意してくれた宿舎に1人で住んでいると言う。
俺たちがその村に着いたのは、ちょうど日の暮れかかる頃で、母さんは小学校の近くでタクシーを停めさせると、通行人に声を掛けて、教師用の宿舎はどこかと聞いていた。
ーー住所も知らずに来たのかよ!
凄く嫌な予感がして、胸がぞわぞわした。
母さんはタクシーに戻って来ると運転手さんに指示を出して、そこから3分程走ったところで車を降りた。
それは山の麓にある木造平屋建ての一軒家で、玄関の横にある小窓から明かりが漏れていることから、中に人がいるのだと分かる。
母さんはスーツケースを引きずって玄関前まで行くと、躊躇なくチャイムを鳴らした。
しばらくしてドアが開いて顔を出したのは臼井先生で、先生は俺たちを見た途端、目を見開いてギョッとして、「どうして…… 」と絶句したまま固まった。
「あの街に居辛くなって出てきちゃった。先生のところに泊めてもらえる? 」
母さんがニコッとしながら屈託なく言うと、先生はいきなり「すまない!」と頭を下げてきた。
ーーああ、やっぱり……。
先生が呼んだのかと思っていたけれど、多分違う。母さんが勝手に押し掛けてきたんだ……。
「先生……? 」
「穂華さん、本当に……本当にすまない事をしたと思っている。だけど、家の中に入れる訳にはいかないんだ。申し訳ないけれど、このまま帰って欲しい」
「ちょっと先生、何を言って…… 」
頭を下げたままひたすら謝られて母さんが戸惑っていると、奥の部屋から女の人がひょっこり顔を出して、こちらを窺うのが見えた。
彼女はハッと顔色を変えたかと思うと、そのまま廊下を小走りでやって来た。
「加奈! 」
後ろを振り返った先生の言葉で、その人がみんなが言っていた『加奈ちゃん』なのだと分かった。
背が低くて、肩で切り揃えた髪がサラサラしていて可愛らしい感じの人。
その『加奈ちゃん』が、いきなり廊下で土下座して、木の床に頭を擦り付けながら謝りだした。
「この度は、臼井が……夫が申し訳ない事を致しました! 息子さんにも辛い思いをさせたと思います。全てはこの人の責任です! 本当に申し訳ありませんでした! 」
その途端、母さんは目を吊り上げて臼井先生をキッと睨みつけた。
「どう言うこと? 奥さんとはもう別れたんじゃなかったの? 1人で寂しいって言ってたじゃない! 今度遊びにおいでって言ってたじゃない! 」
「それは……本当に悪かったと思っている! 『魔が差した』なんて言葉では済まされないと思うけど……本当に申し訳なかった! 」
そう言いながら、先生も加奈ちゃんの隣に並んで土下座して頭を下げた。
「私たち、もう一度やり直す事にしたんです! 子供もまだ1歳になったばかりなんです! お願いです、臼井と別れて下さい! お願いします! 」
頭を下げたままの臼井先生と、泣きながら訴えている加奈ちゃんを、母さんは腕組みをしながら能面のような顔で見下ろしている。
「ふ~ん、そういう事。だから急に電話もメールも出来なくなったのね。子供が出来たから仕方なく結婚した奥さんと、子供のためにヨリを戻すってわけ」
「違う! 俺はっ!」
「違わないでしょ! あなたがそう言ったんじゃない! 新任教師に手を出したらすぐにデキちゃって失敗したって! 」
「母さん、もうやめようよ! もう行こう! 」
それまで存在を忘れられていた俺の大声に、その場が一瞬で静まりかえった。
「母さん、先生は加奈ちゃんと赤ちゃんのものなんだよ。母さんのじゃないんだ……もう行こう、なっ? 」
母さんを見上げてそう言ってから廊下を見下ろしたら、臼井先生の怯えた瞳と目が合った。
先生はすぐに目を逸らすと、茶色い床をジッと見つめた。
「拓巳くんにも申し訳ないことをしたと思っている。謝って済むことでは無いが……本当にすまなかった! 」
ーー馬鹿ばっかだ。
目を合わせる勇気もなくて、ひたすら床に頭を擦り付けているコイツも、こんな奴の言葉を信じてこんな場所までのこのこ追いかけて来た母さんも、こんな男のために頭を下げている加奈ちゃんも、みんな大馬鹿ヤロウだ!
「お前なんか……先生じゃない」
低く呟いたら、廊下に並んだ2人の肩が、仲良く揃ってピクッと跳ねた。
家の奥から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、加奈ちゃんが奥に引っ込んで行った。
それを見送ってから、先生が声のトーンを下げて懇願する。
「お金で済むとは思わないけれど……慰謝料を払わせてもらう。だから、今後一切、俺には関わらないで欲しい」
そう言われて、母さんの全身がわなわなと震え出したのが分かった。
母さんはバッグから通帳を取り出して、震えた手で番号をメモすると、それを臼井先生に突き出した。
「……そうね……あなたのせいで私と拓巳は居場所を失ったんだもの。200万、この口座に振り込んでちょうだい。サヨウナラ」
母さんは去り際に中を振り返って、大声で、
「加奈ちゃん! 分かってると思うけど、この男は絶対にまた浮気するわよ! それじゃ! 」
赤ちゃんの泣き声に被せるように最悪な捨て台詞を吐くと、勢いよくドアを閉め、スーツケースを乱暴に引き摺りながら、暗くなった道を歩き出した。
グラウンドの灯りにぼんやり照らし出された小学校の門の前で、俺と母さんは無言でタクシーを待っていた。
俺は何かを考える事をやめて、街灯に引き寄せられてパタパタ飛び回っている大きな蛾を、ひたすらジッと眺めていた。
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