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第3章 過去編 side 拓巳
32、確信と絶望
しおりを挟む俺の母さんは、蝶々みたいな人だった。
母さんがホステスをしていたからではない。
『夜の蝶』なんかじゃなくて……例えるなら、モンシロチョウ。
花から花へとヒラヒラ飛んでいく小さな蝶だ。
白くて可愛らしくて軽やかで……その羽根をむやみに触ると簡単に傷ついて壊れてしまうような危うさがあって……。
確かに母さんは、その外見だけ見れば、清楚で儚げな雰囲気を纏っていたし、夜の店でお酒を呷っているよりも、明るい木漏れ日の下でほんわりと微笑んでいる方が似合っていたと思う。
だけどそのじつ、自分の欲求に貪欲で、他人には無神経で図太くて……そして、とても愚かで浅はかな人だった。
周りを顧みることも深く考えることもせず、ただ目の前の甘い蜜に誘われて、フラフラと飛び込んで行く。
たとえそれが毒であろうが食虫花であろうが、他人の庭に咲いているものであろうが構わない。
『世間の常識』だとか『人の目を気にする』なんて考えもしないし、その欲求を満たすためには躊躇しない。
『欲しいものは欲しい』のだ。
たとえそれが、『息子の担任』であっても……だ。
ーーなあ、そうなんだよな? 母さん……。
*
『臼井先生が浮気しているらしい』
そんな噂がまことしやかに囁かれだしたのは、秋も終わりに差し掛かった11月末のことだった。
「本当だって! 金曜日に1組の後藤が隣町まで回転寿司を食べに行った帰りに、ラブホから先生が車で出てくるところを見たんだって! 」
「マジかっ?! 先生もラブホに行くんだな」
「助手席は良く見えなかったらしいけど、運転してたのは絶対に臼井先生だったって言ってたぞ。 後藤の母ちゃんも一緒に見たって」
「でも、浮気じゃなくて奥さんと行ったのかもしんないじゃん」
「バカヤロー、奥さんだったらわざわざラブホに行く必要ないじゃん」
「そんなの分かんないじゃん」
「そうだけどさ~、やっぱ怪しいよ」
教室の真ん中に出来た大きな人だかりから離れて、俺は廊下側の自分の席で黙々と教科書を開いていた。
視線は教科書に注いでいるけれど、正直その内容は全く頭に入ってこない。
ドクンドクンと激しく響く心臓の音がうるさい。
その大きな心臓の音をBGMに、俺はみんなの会話に必死で耳を澄ませていた。
ーー まさか……。
そんな事は……と思うけれど、否定しきれない自分がいる。
だって、 思い当たる節があり過ぎる。
頻繁に掛かってくるようになった電話と、妙にトーンの高い甘えたような話し声。
夜遅い時間の外出と、石鹸の匂い。
これまでの経験上、嫌でも気付いてしまう。
母さんに新しい恋人が出来たんだ。
今までと違うのは、電話になると襖を閉めて隣の和室に引きこもり、声を潜めること。
絶対に相手の名前を口にせず、『あなた』としか呼ばないこと。
そして、家まで絶対に送ってもらわず、タクシーや電車で帰ってくるということ……。
最初は、前の男で大失敗したから、またすぐに男が出来た事を隠したいのかな? とも思ったけれど、その割には平気でオシャレして出掛けて行くし、そのこと自体を隠そうとしているわけでは無さそうだった。
だけど微妙にコソコソしてるのはなんでだろうな? ……と思っていたところに臼井先生の噂。
途端に背中がゾミッとして、心臓が縮み上がった。 一瞬で顔色が変わったのが自分で分かった。
簡単に結び付けるべきでは無い。
たまたま母さんに彼氏ができた時期と噂が重なっただけかも知れない。
だけど、思い返せば兆候があった。
例えば授業参観のあとの妙なハイテンション。
夏休み前の個別懇談の時の2人の笑顔とアイコンタクト。
夏祭りの日に夜中に帰ってきてから急に増えた外出。
何かと学校の様子を聞きたがる母親。
先週の金曜日……母さんが帰って来たのは午前0時頃だった。
頭の片隅に違和感として残りながらも、『まさか』と気にしていなかった。
いや、答えに辿り着くのが怖くて、考えることを無意識に避けていたのかも知れない。
ーー マズい、どうしよう……。
この際、2人が付き合っていようが、そんなのはもうどうでもいい。
ーーとにかくバレないでくれ!
心からそう願った。
小夏と離れて行き先も分からずホテルの部屋で絶望に打ちひしがれていた、あの頃にはもう戻りたくない。
クラスのみんなに、幸夫に嫌われたくない。
ようやく手に入れた穏やかな暮らしを失いたくない。
もう1人ぼっちは嫌なんだ!
ーー頼むよ……お願いだ、母さん……。
チャイムが鳴って教室に入って来たのは、副担任の太田先生だった。
「え~っ……臼井先生は校長先生とお話されているので、朝の会は僕が受け持ちます」
そう言って太田先生が出席を取り始めると、途端にクラス中がザワついた。
『ほら、やっぱり…… 』
と言う空気が漂っている。
だけど、1限目に教室に入って来た臼井先生は、最初こそ多少表情が硬かったものの、すぐに普通に算数の授業を始めたので、次の休み時間には、
『アレっ? 違ったのかな? 』
『大した問題じゃなかったんじゃね? 』
『やっぱり相手は加奈ちゃんだったのかも』
という空気に変わっていて、その話題も沈静化しようとしていた。
だけど、俺だけは顔を引きつらせたまま、見てもいない教科書にジッと目を向け続けていた。
そのことに気付いていたのは、あの日あのクラスできっと俺だけだったと思う。
臼井先生は教室に入ってすぐに盗み見るように俺の方にチラッと視線を向けたけれど、俺と目が合った途端にギクッとした顔をして、慌てて目を逸らした。
そして、その日はそれから一度たりとも俺の方を見ようとはしなかった。
その瞬間、疑念が確信に変わり、そしてすぐに絶望が俺の心を覆い尽くした。
ーーああ、そっか~、そうなんだ……。
臼井先生の相手は、やっぱり母さんなんだ……。
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