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第3章 過去編 side 拓巳
9、暴力のトリガー
しおりを挟む今でもハッキリと覚えている。
アイツが初めて俺の目の前で母さんを殴ったのは、小学校2年生の終わり、春休み目前の週末だった。
昼過ぎ、俺が居間でテレビを見ているところにアイツが何処からか帰ってきた。
冷蔵庫から缶ビールを取り出して片手で飲みながら、テーブルの上にあったリモコンをかざして、勝手にテレビのチャンネルを変えた。
俺が黙ってテレビの前から離れ、カラーボックスの隣に体育座りして絵本を読んでいたら、和室から母さんがパジャマ姿のままでのっそり出てきた。
母さんは俺の姿なんて全く目に入っていないというように、前を素通りして真っ直ぐアイツの元に向かうと、リモコンでテレビを消して、アイツの前に仁王立ちした。
「昨日はずっとどこに行ってたのよ」
「……。」
「女のとこに泊まったんでしょ。私の財布からお金を持ち出して、そのお金でホテルにでも行ったの? 」
「……そんなトコ行ってねえよ」
その頃はまだ、アイツにも居候の自覚があったのか、多少は母さんに遠慮してるところがあって、どちらかと言えば、母さんの方が強気に出てるところがあった。
だからその時も、母さんはアイツの浮気を咎める側だったし、腹立ちまぎれにずいぶん高圧的な口調で責め立てていたんだ。
「それじゃあ、女の部屋に泊まったの?! 」
「……ったく、うるっせーな」
それが引き金になった。
うるさいと言われてヒステリックになった母さんが、「出てけ」だの「クズ」だのギャーギャー喚き出したその瞬間、パシン! と大きな音が聞こえて、母さんが絨毯の上に吹っ飛んだ。
俺が呆気に取られている間に、アイツは母さんの上に馬乗りになって、今度は往復ビンタを食らわせた。
「ヤメロよっ! 」
漸く我に返った俺がアイツに横から体当たりして突き飛ばすと、アイツもその姿勢のまま呆然としていた。
しばらくすると、アイツが冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出してきて、
「それで冷やしとけよ。腫れるぞ」
顎でしゃくりながら、母さんに手渡した。
「……ありがとう」
そう言って母さんがアイツの手から素直に缶ビールを受け取った時、俺は愕然としたと同時に、呆れかえった。
ーーコイツ馬鹿なんじゃないの。
俺は真底呆れ返った。
アイツじゃなくて、母さんに……だ。
浮気されて、逆ギレの往復ビンタを食らわされて、なんで御礼とか言ってんの?
そのビールを買ったお金は母さんが働いて得たものだし、そもそもこの家は俺と母さんの家じゃないか。
アイツが亭主ヅラして居座ってること自体が間違ってるんだ。
ーーこんなヤツ、今すぐ追い出してしまえよ!
俺は自分の母親がそんなに立派だとは思ってないし、早苗さんや他のお母さんに比べたら全然母親らしくないとは思っていた。
だけど、『母親らしく』なくたって、俺にとってては唯一の『母親』だったんだ。
男にだらしなくたって、尊敬出来なくたって、それなりに愛していたんだ。
だから……心から軽蔑したのはこの時が初めてで、そんな風に思った自分自身にもショックだった。
そのうちに母さんはアイツに肩を抱かれてしなだれかかりながら寝室に消えて行き、すぐに嬌声が聞こえ始めて、俺は外に出た。
俺は今でもよく考えるよ。
あの時に母さんがアイツを見限っていれば、アイツをアパートの部屋から追い出してさえいれば……その後の辛い出来事も、あの日の事件も起こらなかったのに……って。
あの時に母さんに許されてしまったアイツは、それに味を占めて、同じようなことを繰り返すようになった。
いや、同じじゃないな。
ちょっとずつ手口を悪化させながら、暴力のレベルを上げながら、アイツは俺たちをジワジワと苦しめていったんだ。
暴力ってさ、一気にマックスには行かないんだよ。
徐々に間合いを詰めてくるっていうかさ、今日は1発殴っても大丈夫だった、今回はグラスを投げつけても大丈夫だった……って、こっちの許容範囲を窺いながら、徐々にレベルアップしていくんだ。
そのうちにこっちもそれに慣れてきちゃってさ、今日は1発殴られただけだった、今日割られたのはお皿1枚だけで済んだ、『ああ、良かった』って思うんだ。
殴られてるのに、『今日はこれだけで済んだ』ってホッとしてる時点で、もう受け入れちゃってるんだよ。
そうなったらもう終わりだよな。
相手もそれを分かってどんどんエスカレートさせていく。
そこからはもう、どうしようも無かった。
アイツのトリガーが完全に外されたんだ。
母さんとアイツの関係は『共依存』ってヤツだったんだと思うけど、俺は母さんがエイリアンに侵略されたんだと思った。
皆川涼司と言う名の、人間の皮を被ったエイリアンに、身も心も乗っ取られ操られている。
俺がどうにかしなきゃ、早く助けなきゃ……そう真剣に思ってたんだ。
だけど9歳の俺に出来る事なんて限られていて…… 。
そして5月の終わり頃、大きな転機が訪れた。
『雪の女王』の絵本を傷つけられた、あの事件が起こったんだ。
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