たっくんは疑問形 〜あなたと私の長い長い恋のお話〜

田沢みん

文字の大きさ
上 下
104 / 237
第3章 過去編 side 拓巳

9、暴力のトリガー

しおりを挟む
 
 今でもハッキリと覚えている。
 アイツが初めて俺の目の前で母さんを殴ったのは、小学校2年生の終わり、春休み目前の週末だった。

 昼過ぎ、俺が居間でテレビを見ているところにアイツが何処どこからか帰ってきた。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出して片手で飲みながら、テーブルの上にあったリモコンをかざして、勝手にテレビのチャンネルを変えた。

 俺が黙ってテレビの前から離れ、カラーボックスの隣に体育座りして絵本を読んでいたら、和室から母さんがパジャマ姿のままでのっそり出てきた。
 母さんは俺の姿なんて全く目に入っていないというように、前を素通りして真っ直ぐアイツの元に向かうと、リモコンでテレビを消して、アイツの前に仁王におう立ちした。

「昨日はずっとどこに行ってたのよ」
「……。」

「女のとこに泊まったんでしょ。私の財布からお金を持ち出して、そのお金でホテルにでも行ったの? 」
「……そんなトコ行ってねえよ」


 その頃はまだ、アイツにも居候いそうろうの自覚があったのか、多少は母さんに遠慮してるところがあって、どちらかと言えば、母さんの方が強気に出てるところがあった。
 だからその時も、母さんはアイツの浮気をとがめる側だったし、腹立ちまぎれにずいぶん高圧的な口調で責め立てていたんだ。

「それじゃあ、女の部屋に泊まったの?! 」
「……ったく、うるっせーな」

 それが引き金になった。

 うるさいと言われてヒステリックになった母さんが、「出てけ」だの「クズ」だのギャーギャーわめき出したその瞬間、パシン! と大きな音が聞こえて、母さんが絨毯じゅうたんの上に吹っ飛んだ。
 俺が呆気あっけに取られている間に、アイツは母さんの上に馬乗りになって、今度は往復ビンタを食らわせた。

「ヤメロよっ! 」

 ようやく我に返った俺がアイツに横から体当たりして突き飛ばすと、アイツもその姿勢のまま呆然としていた。
 しばらくすると、アイツが冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出してきて、

「それで冷やしとけよ。腫れるぞ」
 顎でしゃくりながら、母さんに手渡した。

「……ありがとう」

 そう言って母さんがアイツの手から素直に缶ビールを受け取った時、俺は愕然がくぜんとしたと同時に、呆れかえった。

ーーコイツ馬鹿なんじゃないの。

 俺は真底呆れ返った。
 アイツじゃなくて、母さんに……だ。

 浮気されて、逆ギレの往復ビンタを食らわされて、なんで御礼とか言ってんの?
 そのビールを買ったお金は母さんが働いて得たものだし、そもそもこの家は俺と母さんの家じゃないか。
 アイツが亭主ヅラして居座ってること自体が間違ってるんだ。

ーーこんなヤツ、今すぐ追い出してしまえよ!

 俺は自分の母親がそんなに立派だとは思ってないし、早苗さんや他のお母さんに比べたら全然母親らしくないとは思っていた。
 だけど、『母親らしく』なくたって、俺にとってては唯一の『母親』だったんだ。
 男にだらしなくたって、尊敬出来なくたって、それなりに愛していたんだ。

 だから……心から軽蔑したのはこの時が初めてで、そんな風に思った自分自身にもショックだった。

 そのうちに母さんはアイツに肩を抱かれてしなだれかかりながら寝室に消えて行き、すぐに嬌声きょうせいが聞こえ始めて、俺は外に出た。



 俺は今でもよく考えるよ。
 あの時に母さんがアイツを見限っていれば、アイツをアパートの部屋から追い出してさえいれば……その後の辛い出来事も、あの日の事件も起こらなかったのに……って。

 あの時に母さんに許されてしまったアイツは、それに味を占めて、同じようなことを繰り返すようになった。

 いや、同じじゃないな。
 ちょっとずつ手口を悪化させながら、暴力のレベルを上げながら、アイツは俺たちをジワジワと苦しめていったんだ。

 暴力ってさ、一気にマックスには行かないんだよ。
 徐々に間合いを詰めてくるっていうかさ、今日は1発殴っても大丈夫だった、今回はグラスを投げつけても大丈夫だった……って、こっちの許容範囲をうかがいながら、徐々にレベルアップしていくんだ。

 そのうちにこっちもそれに慣れてきちゃってさ、今日は1発殴られただけだった、今日割られたのはお皿1枚だけで済んだ、『ああ、良かった』って思うんだ。

 殴られてるのに、『今日はこれだけで済んだ』ってホッとしてる時点で、もう受け入れちゃってるんだよ。

 そうなったらもう終わりだよな。
 相手もそれを分かってどんどんエスカレートさせていく。
 そこからはもう、どうしようも無かった。
 アイツのトリガーが完全に外されたんだ。



 母さんとアイツの関係は『共依存』ってヤツだったんだと思うけど、俺は母さんがエイリアンに侵略しんりゃくされたんだと思った。
 皆川涼司と言う名の、人間の皮を被ったエイリアンに、身も心も乗っ取られ操られている。
 俺がどうにかしなきゃ、早く助けなきゃ……そう真剣に思ってたんだ。

 だけど9歳の俺に出来る事なんて限られていて…… 。

 そして5月の終わり頃、大きな転機が訪れた。

『雪の女王』の絵本を傷つけられた、あの事件が起こったんだ。
しおりを挟む
感想 264

あなたにおすすめの小説

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語

ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ…… リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。 ⭐︎2023.4.24完結⭐︎ ※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。  →2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った

五色ひわ
恋愛
 辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。アメリアは真実を確かめるため、3年ぶりに王都へと旅立った。 ※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

処理中です...