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第1章 幼馴染編

39、お前だってお母さんが大事だろ?

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「……どうぞ」

 目の前に麦茶の入ったグラスをコトリと差し出され、穂華さんはいくぶん恐縮した表情で、それを手に取りゴクゴク飲んだ。

「こんな暑い中……かなり長い時間待ってたんじゃないですか? 」

 祖母に聞かれてコクリと頷くと、「1時間半くらい…… 」と言葉短めに答えて、飲み干したグラスを座卓に置く。


 縁側に面した和室には、座卓を挟んで向こう側に穂華さん、手前側に祖母と母が座っていて、私とたっくんは母の斜め後ろで手を繋いで座っていた。

 久し振りに見た穂華さんは、相変わらず綺麗ではあったけれど、以前より益々ますます細くなって、目だけが大きくギョロギョロとしていて、表情に落ち着きがない。

 線の細い雰囲気が、物語に出てくる幽霊を連想させた。


「それで……今日はどういう御用件で?  連絡もせずに突然いらっしゃったということは、緊急の用件がおありになったという事でしょうか?  」

 対応は主に祖母がしていた。母では冷静に話せないと判断したのだろう。

 祖母がさぐるようにたずねると、穂華さんは「はい、それが…… 」と言いにくそうにガラステーブルを見つめ、言葉を詰まらせている。

 そのまま膝に置いた両手をギュッと握りしめていたけれど、覚悟を決めたのか、ガバッと顔を上げ、思い切ったように口を開いた。


「今日は…… 拓巳を迎えに来たんです」


「えっ?! 」
 私は思わず声を上げ、たっくんと顔を見合わせた。

「穂華さん、それじゃ話が違うわ! 拓巳くんは8月の終わりまでこっちにいられる事になってたわよね? !」

 勢いこんで言う母を制して目配せすると、祖母は穏やかな口調で、でもハッキリと拒否の姿勢を示した。

「早苗から、そちらの家庭の事情は大体うかがっております。同居されている方が暴力的なことや、拓巳くんがされてきた事も存じ上げています。 私共としては、拓巳くんをそんな場所から1日でも多く遠ざけてあげたいんです。 ……なのに母親のあなたはそうではないんですか? 」

「でも……拓巳がいないと、私が……。 涼ちゃんが、拓巳を連れ戻して来いって……そうじゃないと…… 」

 穂華さんが誰とも目を合わせずに自分に言い聞かせるように呟くと、母は座卓に手をついて身を乗り出し、絶叫するように言った。


「穂華さん! あなたって人は……自分が何を言ってるか分かってるの?! 自分が殴られたくないから息子を代わりに殴らせるって言ってるのよ! 人間の心が残ってるなら、一刻も早くあの男を警察に突き出しなさい! 」

「そんな事したら私もつかまって拓巳と引き離されちゃうわよ! 涼ちゃんが、私も共犯だって言ってるの! もうこうするしかないの! 」

「だからって自分が助かるために拓巳くんをアイツに差し出すって言うの?! それでも母親なの?! 」

「拓巳の母親は私よ! 母親が子供を家に連れ帰って何が悪いの?!  あなた達こそ……拓巳を渡さないなら誘拐で訴えるわよ! 」

「あなた……恥を知りなさい! 」


「早苗っ! 」

 祖母の言葉に母はハッとして私たちを振り返った。
そして涙目で、「2人とも…… 2階に行ってなさい」と言った。


「さあさあ、向こうでオヤツを出してあげましょうね」

 祖母に背中を押されるように2階に連れ出され、お盆に乗ったお饅頭と麦茶を渡されたけれど、私もたっくんもそれに手をつける気にはならなかった。


 8月の終わりにはあのアパートに帰らなくてはいけない。それは覚悟していた。
 だから、せめてそれまでは暴力におびえることなく楽しく過ごし、夜もぐっすり眠らせてあげたい……そう思っていたのに、その短い幸福さえも邪魔しようとするのか……。


 あの皆川涼司みながわりょうじという男は、 それさえも許せないのだろう。

 たぶんアイツは、 自分以外のみんなのシアワセが許せない人間なのだ。
 目につく人を片っ端から不幸にしたいと思っているんだ。

 だからまず、手っ取り早く近くにいるたっくんをターゲットにする。
 弱くて無力な子供だから。


 ただたっくんが邪魔なだけなら、目につかないよう追い出してしまえばいい。
 それをしないのは、近くに置いて苦しむのを見届けるためだ。


 アイツは正真正銘、本物の悪魔なんだ。



「たっくん、あんな所に帰らなくてもいいよ! ここで一緒にいようよ! 」
「小夏…… 」

「あんな男に会いに行っちゃダメだよ! また殴られちゃう! 絶対に行っちゃダメ! 私と一緒にいてくれるでしょ?! 」

 たっくんはそれには答えず、ひどく大人びた笑顔を浮かべてみせる。

「小夏、お前は早苗さんのことが好きか? 」
「うん……大好きだよ」

「俺もお母さんが好きなんだ」
「…………。 」


「お前だってお母さんが大事だろ? 」
「……うん 」

「俺だってお母さんが大事なんだ……そういう事だよ」


 そういう事って……それは、もうあきらめたっていうこと?

 母親を守るために……穂華さんのために……自分が身代わりになるっていう事なの?


「でも……だけど……たっくんが…… 」


ーー ああ、ダメだ、また泣いてしまう。

 たっくんと過ごすこの夏休みの間だけは笑顔でいようって決めてたのに……絶対に泣かないって決めてたのに……。

 そう思ってこらえようとすればする程、私の意気地いくじなしな涙腺るいせんは全く言うことを聞いてくれなくて……。

 それがあっけなく崩壊ほうかいすると、あとはもうどうしようもなかった。
 涙はとめどなくあふれ、のどは不規則な嗚咽おえつを何度も繰り返す。


「小夏……何度も泣かせてごめんな。俺のために泣いてくれて……ありがとうな」

 たっくんの白くて長い指が私のほほで、そっと目尻めじりしずくぬぐう。

 そのままその手で私の頭を優しく撫でると、柔らかく微笑んでくるりと背を向けた。

 廊下に出て行くその背に向かって手を伸ばしたけれど、腕を掴んで止めることは出来なかった。
 そんなことをしたって無駄だと分かっていたから。


 ふすまを開けて和室に入って行くたっくんに付いて、私も中に入って行くと、穂華さんが救われたような顔をして、座布団から腰を浮かせた。


「お母さん、一緒に帰ろう」
「拓巳…… 」

 その甘えたような媚びるような声色を聞いて吐き気がした。胸がムカムカして、胃液が逆流するような感覚があった。

 この人が、あの男が……心から憎いと思った。


 たっくんは、帰る前に金魚に餌をあげたいと言って、水槽を覗き込みながら茶色い餌をパラパラと水面に落とした。

「チビたく……お前はチビ夏と仲良くするんだぞ。 1号2号も元気でな」

 そして私を振り返り、
「俺の代わりに餌やりよろしくな」
と、フワッと笑った。


「たっくん、私も帰る! 」
「ダメだよ。小夏は残りの夏休みを楽しまなきゃ。『チビたく』をよろしく」



 こうして、私たちの夢のような時間は、本当にあっけなく、突然に終わりを迎えた。

 そして運命の1月に向けて、カウントダウンが始まった。
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