40 / 237
第1章 幼馴染編
39、お前だってお母さんが大事だろ?
しおりを挟む「……どうぞ」
目の前に麦茶の入ったグラスをコトリと差し出され、穂華さんはいくぶん恐縮した表情で、それを手に取りゴクゴク飲んだ。
「こんな暑い中……かなり長い時間待ってたんじゃないですか? 」
祖母に聞かれてコクリと頷くと、「1時間半くらい…… 」と言葉短めに答えて、飲み干したグラスを座卓に置く。
縁側に面した和室には、座卓を挟んで向こう側に穂華さん、手前側に祖母と母が座っていて、私とたっくんは母の斜め後ろで手を繋いで座っていた。
久し振りに見た穂華さんは、相変わらず綺麗ではあったけれど、以前より益々細くなって、目だけが大きくギョロギョロとしていて、表情に落ち着きがない。
線の細い雰囲気が、物語に出てくる幽霊を連想させた。
「それで……今日はどういう御用件で? 連絡もせずに突然いらっしゃったということは、緊急の用件がおありになったという事でしょうか? 」
対応は主に祖母がしていた。母では冷静に話せないと判断したのだろう。
祖母が探るように尋ねると、穂華さんは「はい、それが…… 」と言いにくそうにガラステーブルを見つめ、言葉を詰まらせている。
そのまま膝に置いた両手をギュッと握りしめていたけれど、覚悟を決めたのか、ガバッと顔を上げ、思い切ったように口を開いた。
「今日は…… 拓巳を迎えに来たんです」
「えっ?! 」
私は思わず声を上げ、たっくんと顔を見合わせた。
「穂華さん、それじゃ話が違うわ! 拓巳くんは8月の終わりまでこっちにいられる事になってたわよね? !」
勢いこんで言う母を制して目配せすると、祖母は穏やかな口調で、でもハッキリと拒否の姿勢を示した。
「早苗から、そちらの家庭の事情は大体うかがっております。同居されている方が暴力的なことや、拓巳くんがされてきた事も存じ上げています。 私共としては、拓巳くんをそんな場所から1日でも多く遠ざけてあげたいんです。 ……なのに母親のあなたはそうではないんですか? 」
「でも……拓巳がいないと、私が……。 涼ちゃんが、拓巳を連れ戻して来いって……そうじゃないと…… 」
穂華さんが誰とも目を合わせずに自分に言い聞かせるように呟くと、母は座卓に手をついて身を乗り出し、絶叫するように言った。
「穂華さん! あなたって人は……自分が何を言ってるか分かってるの?! 自分が殴られたくないから息子を代わりに殴らせるって言ってるのよ! 人間の心が残ってるなら、一刻も早くあの男を警察に突き出しなさい! 」
「そんな事したら私も捕まって拓巳と引き離されちゃうわよ! 涼ちゃんが、私も共犯だって言ってるの! もうこうするしかないの! 」
「だからって自分が助かるために拓巳くんをアイツに差し出すって言うの?! それでも母親なの?! 」
「拓巳の母親は私よ! 母親が子供を家に連れ帰って何が悪いの?! あなた達こそ……拓巳を渡さないなら誘拐で訴えるわよ! 」
「あなた……恥を知りなさい! 」
「早苗っ! 」
祖母の言葉に母はハッとして私たちを振り返った。
そして涙目で、「2人とも…… 2階に行ってなさい」と言った。
「さあさあ、向こうでオヤツを出してあげましょうね」
祖母に背中を押されるように2階に連れ出され、お盆に乗ったお饅頭と麦茶を渡されたけれど、私もたっくんもそれに手をつける気にはならなかった。
8月の終わりにはあのアパートに帰らなくてはいけない。それは覚悟していた。
だから、せめてそれまでは暴力に怯えることなく楽しく過ごし、夜もぐっすり眠らせてあげたい……そう思っていたのに、その短い幸福さえも邪魔しようとするのか……。
あの皆川涼司という男は、 それさえも許せないのだろう。
たぶんアイツは、 自分以外のみんなのシアワセが許せない人間なのだ。
目につく人を片っ端から不幸にしたいと思っているんだ。
だからまず、手っ取り早く近くにいるたっくんをターゲットにする。
弱くて無力な子供だから。
ただたっくんが邪魔なだけなら、目につかないよう追い出してしまえばいい。
それをしないのは、近くに置いて苦しむのを見届けるためだ。
アイツは正真正銘、本物の悪魔なんだ。
「たっくん、あんな所に帰らなくてもいいよ! ここで一緒にいようよ! 」
「小夏…… 」
「あんな男に会いに行っちゃダメだよ! また殴られちゃう! 絶対に行っちゃダメ! 私と一緒にいてくれるでしょ?! 」
たっくんはそれには答えず、ひどく大人びた笑顔を浮かべてみせる。
「小夏、お前は早苗さんのことが好きか? 」
「うん……大好きだよ」
「俺もお母さんが好きなんだ」
「…………。 」
「お前だってお母さんが大事だろ? 」
「……うん 」
「俺だってお母さんが大事なんだ……そういう事だよ」
そういう事って……それは、もう諦めたっていうこと?
母親を守るために……穂華さんのために……自分が身代わりになるっていう事なの?
「でも……だけど……たっくんが…… 」
ーー ああ、ダメだ、また泣いてしまう。
たっくんと過ごすこの夏休みの間だけは笑顔でいようって決めてたのに……絶対に泣かないって決めてたのに……。
そう思って堪えようとすればする程、私の意気地なしな涙腺は全く言うことを聞いてくれなくて……。
それがあっけなく崩壊すると、あとはもうどうしようもなかった。
涙はとめどなく溢れ、喉は不規則な嗚咽を何度も繰り返す。
「小夏……何度も泣かせてごめんな。俺のために泣いてくれて……ありがとうな」
たっくんの白くて長い指が私の頬を撫で、そっと目尻の雫を拭う。
そのままその手で私の頭を優しく撫でると、柔らかく微笑んでくるりと背を向けた。
廊下に出て行くその背に向かって手を伸ばしたけれど、腕を掴んで止めることは出来なかった。
そんなことをしたって無駄だと分かっていたから。
襖を開けて和室に入って行くたっくんに付いて、私も中に入って行くと、穂華さんが救われたような顔をして、座布団から腰を浮かせた。
「お母さん、一緒に帰ろう」
「拓巳…… 」
その甘えたような媚びるような声色を聞いて吐き気がした。胸がムカムカして、胃液が逆流するような感覚があった。
この人が、あの男が……心から憎いと思った。
たっくんは、帰る前に金魚に餌をあげたいと言って、水槽を覗き込みながら茶色い餌をパラパラと水面に落とした。
「チビたく……お前はチビ夏と仲良くするんだぞ。 1号2号も元気でな」
そして私を振り返り、
「俺の代わりに餌やりよろしくな」
と、フワッと笑った。
「たっくん、私も帰る! 」
「ダメだよ。小夏は残りの夏休みを楽しまなきゃ。『チビたく』をよろしく」
こうして、私たちの夢のような時間は、本当にあっけなく、突然に終わりを迎えた。
そして運命の1月に向けて、カウントダウンが始まった。
0
お気に入りに追加
261
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
麗しのラシェール
真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」
わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。
ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる?
これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。
…………………………………………………………………………………………
短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる