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第1章 幼馴染編
32、なんで俺の言うこと聞かねえの?
しおりを挟む「小夏……こうやって小夏の髪の毛を三つ編みしに来るのは、今日で最後だ」
穂華さんがうちに怒鳴り込んできた翌週の朝、たっくんが私の髪をブラシで梳かしながら、静かに言った。
「えっ、どうして? 」
「どうしてって……もうこの家には来ちゃいけないって言われてるから」
「あの男が言ったの? 」
「違うよ、お母さん。でも、俺もそうしたほうがいいって思うから…… 」
「嫌だよ! 」
勢いよく振り返ったら、たっくんの左手に握られている髪の束をグイッと引っ張る形になってちょっと痛かったけれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「たっくんがやってくれなきゃ髪の毛をおさげに出来ないよ! 穂華さんがダメって言ったって、そんなの無視すればいいじゃん! 毎朝来てよ! 」
たっくんは振り返っている私の顔を後ろから両手で挟み込んでクイッと前を向かせると、髪の毛を真ん中で分けて、左側から三つ編みを始める。
「三つ編みは早苗さんの方が上手に出来るし、小夏も練習すれば自分で出来るようになるよ。とにかく俺は、もうここには来ないから…… 」
「嫌だ! 」
今度は体ごと振り返って、たっくんに掴みかかった。
「私の髪を三つ編みさせてって言ったのはたっくんじゃん! 途中で放り出すなんて卑怯だよ! 絶対にダメ! 」
「小夏……前を向いて。三つ編み出来ない」
「そんなのどうだっていいよ! 明日から出来ないんだったら、今日だってもういいじゃん! 私のことなんてもう放っておけばいいよ! 」
「小夏…… 」
たっくんが目を伏せて、途方に暮れたような表情をした。
ああ、泣きそうな顔だな……と思った。
分かっている。私は今、酷くたっくんを困らせている。
たっくんは悪くない。
彼はただ、母親に言われた事をそのまま私に伝えているだけだ。
そもそも、彼が私の家に毎朝通って髪を結う義務も責任もありはしない。
だけど、今ここで私がたっくんの言うことに頷いたら、たっくんと私の関係もプツリと切れてしまうような気がして、必死でしがみついていた。
「小夏、お願いだから分かって。小夏はもう俺の側にいない方がいい」
「嫌っ! 絶対イヤ! 私はたっくんの家来だって言ったもん! 絶対に離れないから! たっくんがやってくれないなら、もう三つ編みなんて一生しない! 死ぬまでやらない! 」
「ダメだよ、小夏はこの髪型が可愛いんだ。一生しないなんて言うな…… 」
たっくんが顔をクシャッとさせて、益々泣きそうな顔になる。
大好きなたっくんにこんな顔をさせているのが、あの男でも穂華さんでもなくて自分だと言うことが、酷く悲しくて苦しくて、胸が痛んだ。
だけど、私の髪に触れるこの手を離したら、もう終わりだという気がした。
「小夏、ワガママ言っちゃダメよ。拓巳くんだって困ってるわ」
「お母さん! 」
「ほら、遅刻しちゃうでしょ。髪ならお母さんがやってあげるから…… 」
「嫌っ、触らないで! 」
「小夏! 」
「もういいよ! このままで行くから! 」
私は髪を下ろしたまま、ランドセルを背負って外に出た。
母は車に傷をつけられて以来、隣と関わる事を避けるようになっていた。
要はビビったんだと思う。
誰がやったのかは分からない。
ただの通行人のイタズラかも知れない。
だけど母の脳裏には、紫煙をくゆらせながら片手で車のボディにコインを滑らせる男の姿が浮かんでいたのだろう。
週末になっても我が家に遊びに来ないたっくんと、呼びに行けと言わない母親。
その両方に私は苛立っていた。
みんなあの男の言うことを聞くのか。
あんな男に屈服するのか。
こんな風に1つずつ諦めていくのか。
私も……何も出来ずに負けてしまうのか……。
髪を下ろしたままで教室に入って行ったら、途端に空気がザワついた。
みんなが珍しいものでも見るように遠くからジロジロ無遠慮に眺めてくるけれど、そんなのどうでもいい。
黙って自分の席についた。
唇をギュッと噛み締めて俯いていたら、後ろで「ごめん、ちょっとだけ変わって」と言う声がして、ガタンと立ち上がる音と、ギシッと座る音。
その気配に背中を硬くしていたら、次の瞬間に、後ろから髪を撫でられてビクッとする。
「バカだな……お前は三つ編みが似合ってるって言っただろ? 家来のくせに、なんで俺の言うこと聞かねえの? 」
言ってることとは裏腹に、その声音も指先もとても優しくて、涙が溢れそうになった。
たっくんは慣れた手つきで髪を左右に分け、いつものように左側から編んでいく。
「お前、そんなに俺に三つ編みして欲しいの? 」
黙ってコクンと頷いた。
「お前、ホントに俺のこと好きなのな」
コクコクと頷きながら、頬を拭う。
「しょ~がねえな、これからはココで髪を結ってやるからさ、それで許してよ」
「……うん」
「だからさ、髪を下ろしてるとこは、俺以外に見せるなよ。学校までは後ろで結んで来い。それくらいは自分で出来るだろ? 」
「……うん……う~っ…… 」
机にポタポタと落ちる雫を見つめながら、嬉しくて悲しくて、肩を震わせた。
たっくん、ごめんね。
ワガママを言ってごめんね。
困らせてごめんね。
三つ編みなんてしないなんて言ってごめんね。
嘘だよ。
私だって、三つ編みがいいんだよ。
たっくんがしてくれる三つ編みがいいんだよ。
だから、今日で最後だなんて、そんなこと、二度と言わないで……。
それが当然のことのように長い髪を委ねている私と、慣れた手つきで丁寧に編んでいくたっくん。
その姿はまるで、お姫様と、彼女に傅く従者のように見えていたことだろう。
いや、あんな綺麗な男の子が従者だなんてあり得ない。
私が彼の家来なのだから。
だけどそのときの私は、まるで自分がたっくんの大切なお姫様になれたような気がして、ついさっきまでの怒りも吹き飛んで、この上ない幸福感で満たされていた。
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