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第1章 幼馴染編
16、なに勝手なことしてんの?(1)
しおりを挟む『うさぎ脱走事件』が発生したのは、私が保育園を卒業して5ヶ月近く経った、8月半ばの夏休み中のことだった。
何者かが鶴ヶ丘保育園のウサギ小屋の鍵を開けて扉を解放したため、3匹のうち1匹が小屋から脱走した。
日曜日の朝に餌の補充に行った副園長先生がそのことに気付き、周囲を探し回ったところ、園庭の茂みの中でうずくまっているところを発見されたという。
土曜日の閉園時間までは何の異常もなかったので、事件が起こったのは、先生たちが帰った土曜日の午後6時半以降から日曜日の朝7時頃までの間ということになる。
私がそのニュースを知ったのは日曜日のお昼過ぎで、たっくんと2人で母に連れられて商店街を歩いていた時だった。
その日は穂華さんが彼氏とデートとかで、たっくんは朝から我が家に預けられていた。
ちょうど夏休み中で学校も無いので、たっくんは我が家で一緒に夕食を食べて、そのままお泊まりしていく予定だ。
家でお昼ご飯を食べたあと、母が私たちを買い物に連れてきたところで、向こう側から見慣れた顔が歩いて来るのが見えた。
「あら、副園長先生に楓先生、今日は2人でお買い物ですか? 」
「あら、折原さん、こんにちは……小夏ちゃんに拓巳くん、久し振りね。小学校は楽しい? 」
「うん、楽しいよ。 宿題はメンドくさいけど」
副園長先生の問いにたっくんが元気に答えると、先生は懐かしい笑顔でうんうんと頷いていた。
だけど隣にいた楓先生は暗い表情で、母に向かって口を開いた。
「実はね、私たち、獣医さんのところに行ってきた帰りなんですよ…… 」
楓先生はそう言って『うさぎ脱走事件』について語ったあとで、 私の方に悲しげな顔を向けた。
「小夏ちゃんは特にミルクと仲良しだったから心配だろうけど、ミルクは病院で治してもらってるからね」
「えっ! ミルクは病院にいるの? 」
「ええ、かなり弱っててエサも食べられないから、点滴をしてもらってるの」
「点滴? 」
「お注射で栄養を与えてるの。そうしないと死んじゃうから…… 」
「ミルクは死んじゃうの?! 死なないよね? 」
「それは分からないけど…… 小夏ちゃんも、 ミルクが元気になるよう祈っててね」
私が思わずたっくんの方を見ると、たっくんも心配そうな顔で私を見ている。
「たっくん、ミルクが……どうしよう」
「うん……。 楓先生、俺たちがミルクに会いに行っちゃダメですか? 」
「えっ、どうだろう…… 獣医さんに聞いてみないと…… 」
楓先生が困っていると、副園長先生が、「ちょっと待っててね」と言って、獣医に電話をかけ始めた。
そして、電話を切ったあとで私の目線まで腰を屈めると、安心させるように優しく頭を撫でてくれた。
「獣医さんがね、ちょっとだけならいいですよって」
「会いに行ってもいいの?! 」
「ええ。でも、ミルクは疲れて寝てるから、静かにそっと顔を見るだけね」
「はい…… 」
「たっくん、私、ミルクに会いに行きたい」
「うん、俺も」
2人でウンと頷きあって母を見上げると、母は仕方がないという表情で、「ちょっと覗くだけよ」と言った。
*
左の前脚に点滴を刺されたミルクは、四角い透明なケースの隅っこの方でジッとうずくまっていた。
ケースの扉のところには点滴の袋がぶら下がっている。
「ミルク…… 」
背中が上がったり下がったりしているので呼吸をしているのはかろうじて分かるけれど、それは私の知っている、ワガママで食いしん坊のミルクではなかった。
その痛々しい姿に胸が痛くなり、瞼の奥がジンと熱くなる。
辛くて見ていられないのに、目を離したら二度と会えないような気がして、そこから動くことが出来ない。
「小夏、拓巳くん、もう行くわよ」
母にそう言われたけれど、ミルクと離れがたくてジッとケースを見つめる。
「小夏……俺たちがいたらミルクが休めない。もう行こう」
たっくんに手を引かれ、後ろ髪を引かれる思いでフラフラとその部屋から出た。
「ミルクは元気になりますか? 」
案内にいた看護師さんに聞いたら、
「それはどうかな……あの子はもう8歳だから。人間だと、もうおばあちゃんの歳なのよ」
そう申し訳なさそうに言われてしまった。
『大丈夫よ』と言ってもらえるものと思っていた私は、ショックのあまり大声で泣きだした。
家に帰ってからも私の心は晴れず、あの狭い箱の中で苦しんでいるミルクと、そして保育園の小屋に残されたココアとチョコのことを思った。
ミルクはあそこにいた3匹の中でも一番体が大きくて、みんなのリーダー格だった…… と、私が勝手に思っているだけなのだけど、一番元気で騒がしかったミルクがいなくなって、きっと残りの2匹は寂しがっているだろう。
そう思いを巡らせていたら、今度はココアとチョコのことが心配になってきた。
うさぎ小屋の扉には鍵がついていたけれど、誰でも外側から簡単に開けられるようになっている。
今度は用心のために南京錠をつけると先生は言ってたけれど、 本当に鍵を付け替えたのだろうか。
また誰かが扉を開けてしまうんじゃないだろうか。
ーー 残りの2匹は大丈夫なんだろうか……。
一度それを考え出したら私の想像はどんどん悪い方へと転がりだし、それは布団に入ってからも止まらなかった。
母と私とたっくん、3つの布団が並んだ畳の部屋で天井を見つめながら、私はいても立ってもいられなくて、真っ暗な暗闇の中で、布団をそっと抜け出した。
そして、ゆっくり玄関へと歩いて行ったところで、後ろから急に声を掛けられビクッとする。
「お前、なに勝手なことしてるの? 」
振り返るとそこに、たっくんが立っていた。
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