たっくんは疑問形 〜あなたと私の長い長い恋のお話〜

田沢みん

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第1章 幼馴染編

2、たっくんって俺のこと?

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 私の家は母子家庭だ。 
 父親は仕事仲間との飲み会から帰る途中で、信号無視のトラックにはねられて死んだ。
 まだ花冷はなびえのする3月下旬、私が5歳の時だった。

 長距離トラックの運転手だった父は、ずっと無事故無違反むじこむいはん優良ゆうりょう運転手だったそうで、その父がトラックの事故にったというのはなんとも皮肉な話だ……  というのは、今では母が誰かに事故の話を語るときの決まり文句になっている。


 父親が入っていた生命保険と加害者からの慰謝料のおかげで金銭的に困ることは無かったけれど、それまで家族で住んでいた社宅は出て行かなくてはならなかった。

 社長さんが良い人でこちらの事情を配慮してくれたので、すぐに出て行けとは言われなかったけれど、それでもずっとという訳にはいかない。

 それで、母親が仕事を見つけてある程度生活が落ち着いたタイミングで、勤務先のある『鶴ヶ丘』という街に、親子で引っ越してきたのだった。




「困ったわね…… 」

 百貨店の包装紙で包まれた小さな箱を手に持って、お母さんが玄関先で溜息をついていた。

「どうしたの? 」
「お隣がどうも夜のお仕事みたいでね、昼間に挨拶あいさつに行っても誰も出てこないのよ」

 その時の私は『夜のお仕事』の意味がよく分かっていなかったけれど、母が隣の住人に引っ越しの挨拶あいさつ粗品そしなを渡せずに困っているということは、すぐに理解できた。

 母は真面目で礼儀を重んじる人だったので、薄っぺらい箱にハンドタオルが2枚入った粗品を5個用意していた。
 2個はアパートの両隣、1個は上の階の住人、残りの2個は、これからアパートで知り合いが出来た時用の予備だ。

 私たちが入ったのは2階建の木造アパートの1階で、左隣の部屋には『田中たなかさん』という1人暮らしのおばあちゃん、上の部屋には『森下もりしたさん』という、小さな赤ちゃんのいる夫婦が住んでいた。

 その2件は引っ越したその日に挨拶を済ませたのだけど、右隣の部屋だけは、いくらノックをしても返事がない。

 木曜日に引っ越してきて、今日はもう日曜日。
 その間に母が何度出向いても、右隣の部屋のドアが開くことはなかった。
 そこで母の、『どうも夜のお仕事みたい』発言が飛び出したというわけだ。


「お隣には誰も住んでないのかもよ」
「ううん、ちゃんと郵便受けに名前が入ってるから、人が住んでるのは確かなの」

 私が5歳児の知恵で精いっぱいひねり出した推理すいりは、 母親によってあっけなく否定される。

「風邪をひいて寝てるのかもよ? 」
「そうかも知れないわね。また後でもう一度行ってみるわ」

 5歳児にとっては粗品を渡せないことなど大した問題じゃなくて、私はそれよりも、まだ見ぬお隣さんがどんな人なのかが気になって仕方がなかった。

  その時の私は、綺麗で優しいお姉さんだったらいいな…… とか、自分と同じ歳の女の子が住んでたらいいな…… なんて勝手な想像をしては、想像の中の彼女たちに会った時の挨拶を真面目に考えて、夢を膨らませていた。

 おまけに鏡に向かって笑顔の練習までしていたのだから、今思い返すと滑稽こっけい以外の何ものでもないのだけど……。


 その日の夕方、母親がもう一度お隣をのぞいてみると言うので、私も一緒について行った。

 ドアの横にあるチャイムを鳴らしても応答がなくて、ドアをトントンとノックしても人が出てくる気配がなかった。

「小夏、公園に行こうか」
「うん!」

 母はその日のうちに隣人りんじんに会うことをあきらめたようで、その代わりに私をアパートの目の前にある公園に連れて行くことにした。

 引っ越してきてからずっと忙しく、日曜日も朝から荷解にほどきで何処どこにも遊びに行けなかったことを、申し訳なく思ったのかもしれない。

 母と手をつないで公園に行くと、砂場でうつむいている小さな背中が見えて、足を止めた。

ーー あっ!

 その後ろ姿を見て、そこにいるのが誰だかすぐに分かった。

 その背中だけなら気付かなかっただろうけど、あの輝く髪の毛には見覚えがある。
 いや、忘れるはずがない。

 あのとき光を反射してキラキラ輝いていた栗色の髪は、今日は夕日に照らされて、オレンジ色にも金色にも、焦げ茶色にも見えている。


「たっくんだ…… 」
「えっ?! 」

 振り返ったたっくんと目が合った。

 明るく照らされた髪と、夕日が顔に作る陰影いんえいとのコントラストが美しくて、私はやっぱりあの時みたいに見惚みとれてしまって……。

 たっくんはゆっくり立ち上がると、ひざや手についた砂をパンパンッと手ではらってから、私の方をジッと見た。

「たっくんって…… 俺のこと? 」

 そう言った彼の目は、その日もやっぱりビー玉みたいに青く澄んでいた。
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