保護猫subは愛されたい

あうる

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カラン…と、音を立ててグラスが落下した瞬間。
不謹慎にも思い浮かんだのは子供の頃に聞いたハンプティ・ダンプティの童謡だった。

『ハンプティ・ダンプティ 塀から落ちたら割れちゃった

 王様の馬や兵隊達でも

 ハンプティ・ダンプティ 元の塀には戻れない』


実際には厚いガラスで作られていたらしいグラスが割れることはなく。
落ちたグラスから跳ね上がった酒が勢いよくシャツを濡らしただけ。

「ちょ……大丈夫??手が滑った?あぁ、びちょびちょになっちゃって…叔父さん、なんかタオルとか…」

慌てた様子で拭くものを探す同伴者には申し訳ないことをしたと思いつつ、染み付いたアルコールの匂いに頭がくらくらしそうになり、「すみません、テーブルを汚してしまいました」と、店の人間に頭を下げる。

「そんなことよりもほら、その格好をなんとかしないと!」

差し出されたタオルをありがたく受け取り、胸元へゴシゴシと何度も擦りつければ、流石はアルコールだけあって気化するのは早い。
全く、いい歳をして落ち着きがないとはこのことだろう。
やはりここまでついてきてしまったのは間違いだった。
丁度いいきっかけだと思って、このまま店を出てしまおう。
そう思ったその時だ。
誰もいないと思っていた背後から、突然腕を掴まれた。

「バックヤードに予備用の私の着替えがある」
「え?」

一体いつからそこに居たのか。

その人物が、同伴者である青年から叔父だと紹介された店のマスターであることに気付き、ならば先程の言葉は着替えを用意してくれるという意味だろうと悟り、「いえ、そこまでお世話には、」とその場を辞そうとしたが、掴まれた腕は離されることなく。
促されるまま大人しくついていってしまったのは、果たして一口しか口にしていない、酒の力故だったのか。

「そこの扉を開けて」 

バックヤードと言う言葉通り、一度店の裏に回ってから短い廊下を抜け、たどり着いたのはまるで防護壁のような扉。
見た目よりも軽いその扉を言われるがままに開けて驚いた。

中央には簡素なベッドが一つ。
壁際にはチェストと、ベッドのすぐ横には小さなノートPCが置かれたサイドテーブルがそれぞれ配置された、全体的にセンスのいいワンルーム。

「こういう商売をしていると、なかなか家に帰れないことも多くてね」

そう言って苦笑した言葉通り、普段は彼の仕事部屋兼仮眠室といったところなのだろう。
部屋から漂う香りは、今だに晶の腕を掴んだままの彼と同じものだろう。
市販されている香水を使っているのだとは思うが、以前嗅いだことのあるその香水とは、不思議と別物のように感じた。
無意識にくんと臭いん嗅ぐような真似をしてしまい、自分でも驚いた。

「好ましいと感じる匂いの相手とは相性がいいんだ。私と君はどうかな?」
「……す、すみません、失礼な真似を」

気づけば、すぐそこにマスターがいた。
眼の前に差し出された腕には、明らかに高価だとわかる腕時計。
住む世界が違うとひと目見て感じた通り、間違いなく上流階級の人間だ。

「今替えの服を出すから、そこに座って待っていてくれないか」
「ベッドに……ですか?」
「おかしな意味はないよ。いつもそこに寝ているのは私だけだし、他に座る場所はないんだ」

一瞬の躊躇いは見透かされ、促されるままに素直にベッドに腰を掛ける
そのままマットレスに手をつき、軽くうつむく晶。

「まだなにか気になることが?」
「あ、違うんです、あの…」

いいベッドは軋まないんだな、と思って。
そんな子供みたいなことを呟きながら、気恥ずかしさに半ば上目遣いにマスターを見上る。

「君が飛び乗ったくらいでは壊れないとは思うけれどね」

やってみるかい?と悪戯な視線を向けられ、どきりと鼓動が弾む。

果たしてこの人と自分は同じ性別の人間なのだろうか。
あまりに違いがありすぎて、自分をみじめに思う気持ちすら湧いてこない。
比較することすらおこがましいと思うくらいだ。

「緊張してるのかい?他人のテリトリーに入る事が珍しい?」
「友達もあまりいなかったので…そうかもしれません」

思えば、人の家に遊びに行くという経験がほとんどない。
逆に自分の家に他人を招いた機会も数えるほどしかなく、恋人で会った女性も、ほとんど家には来なかった。
寝に帰るだけの、我ながら何の面白みのない部屋なのでそれも当然かもしれないが。

「多少大きいだろうが私の服でなんとかなると思う。本当ならシャワーを浴びさせてあげたいんだけど、あいにくその設備がなくてね」

チェストから着替えとして手渡されたのは、シックな黒いシャツ。
予備の着替え、と言っていただけあって、マスターが今着ているものとどうやらお揃いのようだ。

「濡れた服は店の洗濯機で洗ってしまっていいね?そっちは明日の夕方にでも取りに来てくれ。その服も仕事着だし、クリーニングにかける必要はないから、その時一緒に返してくれればいい。シミになるし、早くその服は脱いでしまいなさい」

男同士なのだし、晶には別に服を脱ぐことに抵抗があるわけではない。
頭で考えるよりも先になぜか体が動き、マスターの言葉通りに服を脱ぐ。
それをさっさと回収し、「先に着替えていてくれ」と部屋を出たマスター。

主人のいない他人の部屋程落ち着かないものはない。
妙にドキドキしながらも、いつまでも裸のままではいられないと、覚悟を決めて借りた服に袖を通す。
思った通り、やはり随分袖丈が長い。
けれど、ボタンを閉めてしまえばそれほどおかしくもないか、と四苦八苦しながら服装を整える。
クスクス、という笑い声が聞こえたのは、ようやく着替えが済んだと安堵のため息をついたその時だ。

「いや、すまない。よく似合っていると思ってね」
「こちらこそすみません、全然気づかなくて」

一体どれだけ夢中になっていたのだろう。本当にさっきから子どものようなことばかりしている。

「甥から話を聞いただけだが、君は自分のdomを探しているんだろう?プレイの経験はどれくらいあるのかな?」

世間話のつもりなのか、軽い様子でかけられた台詞。
バース性の人間にとっては挨拶代わり程度の会話なのかもしれないが、考えようによっては赤裸々なその問いに、不慣れな晶はなかなか返す言葉が出ない。
そこへマスターが更に言葉を重ねる。

「では誰かのコマンドに従ったことは?」

なぜそんなことを聞かれているのか。
本来ならそこで聞き返せばいいだけの事。
あったばかりの他人に、なぜそんなことを教えなければいけないのかとつっぱねればいい、それだけ。

なのにーーーその声に、抗えないのは何故なのか。

気がつけば、答えが自然と口をついて出た。

「一度、だけ」

バース性専門のオリエンテーリング講習を受けた時、一通りのコマンドを教えられ、医療従事者でもあるdomと一応のお試しプレイを経験してはみたのだが。

「それで?君はそのプレイ相手との行為に満足できたのかな?」
「え…?」
「満足するということがどういう意味か理解できなかった?」
「………はい」
「なるほど」

惨敗だった結果を見越していたかのような台詞に、一瞬本気で頭が真っ白になった。
いわばプロのdomを相手にして、相手に「これは困ったね」と苦笑されたあの時。

晶自身に自覚はなかったが、相手方からみたプレイ中の晶の態度はまるで、『子供の我儘を聞いてあげる大人』といった風情のものだったようで。

普通のsubとしてまずありえない様子だったと言われ、もしや自分がSabだというのは誤診だったのではないかと疑ったが、それに関してはとうの本人から、「君は間違いなくSabだ」とはっきり否定されてしまった。

「試しで付き合ってくださった方は、慣れてくればまた変わってくるかもしれないから、しばらく自分と仮のパートナーを組んでみないかと仰ってくださったんですが…」
「君はそれを断った」
「はい」
「それは何故?」
「時間の無駄だと思ったので」
「君の?」
「勿論、お相手をして下さったdomの方の」

自分の時間などいくらドブに捨てても構わないが、他にもsubの患者が沢山いる中、自分のためにわざわざ時間を割いてもらうのは申し訳ない。
そう思っての言葉だったのだが。

「相手側はそれで納得した?」
「いえ……」

いつでもいいから気が変わったら声をかけて欲しいと言われ、プライベート用の連絡先を手に捩じ込まれた。
納得をしていたとはとても言えない。

「その彼がなぜ君に執着したのか、君にはわかるかい?」
「執着、ですか?」
「君の言う通り他にも患者は沢山いるだろう。その患者たち全員に同じ事を言っているとはとても思えない。
聞いた話だけでも十分君への執着を感じる」
 
そう、なのだろうか?
疑う訳では無いが、なぜ自分に?と思えてならない。

「それも分からなかった?」
「はい…」

最早彼を相手に嘘はつけないし、つこうとも思わなかった。
言葉を重ねるごとに、自身を守っていた薄い皮が、一枚ずつ剥がされて言っているような気分になる。

この人は、一体何なのだろう?

「私がdomだと言うのは最初に聞かされただろう?」
「はい」
「では、なぜここまで大人しくついてきた?」
「え?」
「subである君が、domである私と二人きりになることに抵抗はなかったのかい?」
「ありません」

即答する。

「それは私が強引にここまで連れてきたから?」
「違います」
「ではなぜ?」
「あなただから」

晶は正面からマスターを見つめ、答える。

たとえ、酒の影響が多少あったとしても。

「あなたでなければ、ここまでついてきたりはしなかった」
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