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4章
涙の理由
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あの人に会ったら、話したい事がたくさんある。
待ち合わせの場所まで歩いていると、一面に広がった黄色い景色が見えた。優里は歩く速度を落とし、ゆっくりとその黄色を眺めた。
暖かい日差しがポカポカと照りつける中、全身を防護服で覆った人が、草刈り機を腰に付けてやってくると、ギィーンと音を立てて、黄色のジュータンを片付け始めた。
優里は目がかゆくなり、何度かこすっているうちに、涙と鼻水がどんどん流れてきた。
大丈夫。
今日はちゃんと鼻血が出てもいいように準備をしてきた。すぐに取り出せる様に、上着のポケットには、2つもテッシュを入れてきた。優里はハンカチを出すと、涙と鼻を拭った。
「優里ちゃん。」
黒髪が優里の肩を軽く叩いた。
「あっ、金髪さん。」
「金髪って、その呼び名はないだろう。」
黒髪は優里にそう言った。
「名前、なんて言いましたっけ?」
「中嶋匠海。やっぱり忘れたのか。」
男性は優里の頭を撫でそう言った。
「そうだ、中嶋さんだった。」
本当は、名前なんてすっかり忘れてしまっていたけれど、とりあえず知っているふりをして、優里は愛想笑いをした。
「風邪はすっかり良くなったかい?」
「はい。いろいろありがとうございました。」
「勝手に家に入ったりして、ごめんね。」
中嶋はそう言った。
「熱があったせいか、あんまり覚えていないんです。」
「そうだろうね。すごく辛そうだったから。」
「少し前から、なんとなく風邪引いたかなって思ってたんですけど、そのうち治ると思って、放っておいたんです。」
「そっか。一人暮らしは最近始めなんでしょう?冷蔵庫の中、空っぽだったから。」
「見たんですね?」
「飲み物を入れる時に、見ちゃったよ。」
中嶋は草刈りをしている方を指さした。
「優里ちゃん、アレルギーがあるのかい?」
「なんで?」
「目が真っ赤だから。」
「そんなに赤いですか?」
「あの黄色はタンポポだよ。早く行こう。」
中嶋はそう言って、優里の手を掴み歩き出した。
「車はそこに停めてあるから。」
「あの、ちょっと、ごめんなさい。」
優里は中嶋の手を離すと、上着からテッシュを出して涙と鼻水を拭いた。
「あれ、タンポポだったんですね。」
「そうだよ。毎年あの庭に咲くんだ。」
「あそこって、なんて大学?」
「教育大、俺の母校。」
「じゃあ中嶋さんは、毎年あのタンポポを見ていたの?」
「そう。あの場所に必ず咲くんだよ。綿毛になってしまったら大変だから、咲き始めると毎週の様に草刈りするんだけど、刈っても刈ってもまた花をつける。俺もこの時期は、あれのせいで鼻水が止まらなかったよ。」
「あんなに可愛いのに、やっかいな花なんですね。」
「ここらへんに咲いてるのは、外国からきた種類だよ。本当の日本のタンポポは、今は少ないんじゃないのかな。」
「外国のタンポポは強いんですね。綿毛なんかになってしまったら、風に乗って捕まえる事はできないだろうし。」
優里は目をこすっていた。
「大丈夫かい?」
「大丈夫。中嶋さんは理科の先生なの?」
「前に優里ちゃんに話したじゃないか、俺は数学の教師だよ。本当にひどい風邪を引いていたんだね。」
2人は中嶋の車の前に来た。
「乗って。」
中嶋は優里に助手席のドアを開ける。
「どこに行くんですか?」
「一緒に野球を観に行こうよ。」
「野球?」
「今日は好きなチームの試合があるんだよ。1人で球場に行くのがなんだか嫌でね。優里ちゃん、一緒についてきてよ。」
「私、野球を観るのって初めてです。」
「そっか。迷惑かい?」
「ううん。楽しみです。」
中嶋は車を走らせた。
「普段は何をしているの?」
「何もしていません。コンビニでバイトしてる以外は、ゴロゴロしてる事が多いです。」
「サークルとかは?」
「人付き合いが苦手なんで、入ってません。」
「大学は何を学んでるの?」
「栄養学って言えばいいかな。」
「そっか、言葉のないものを相手にしたいんだ。」
中嶋は優里を見て笑った。
「わかりますか?」
「わかるけど、こうやって話してると、誰とでも上手くやれそうなのに。」
「あんまり話さなくてもいい仕事かと思ったのに、けっこう人と話す事が多くて、失敗したなって思います。」
「それはどんな仕事だってそうだろう?」
「そうだけど。」
「鼻血はよく出すの?」
「えっ?」
「この前、けっこう止まらなかったよね。鼻にぶつかったって事もあるけど、俺の予想では、牛乳ひとパックくらいは出たと思うよ。」
「たまになんの前触れもなく出る時もあって、なんでそうなのか、よくわからないんです。」
「きっと優里ちゃんの中で、何か溜まってるものが、急に溢れる日があるんだろうね。」
「そんな事、あるのかな。」
「あるんだよ。うちの姉は、時々血を吐く事があって、入院までしたけど、結局原因はわからないんだ。」
「血を吐くの?」
「そう。体のどこかに血の溜まる袋ができるって、言われたらしいよ。別に悪いものじゃないらしいけど。」
「へぇ~、不思議ですね。」
球場に着くと、入り口には長い列ができていた。
「野球は雨でもあるんですか?」
優里は低く雲が立ち込める空を見た。
「ここは屋根のある球場だからね。」
「私、ぜんぜんルールなんてわかりません。」
「大丈夫、ちゃんと教えてあげるから。」
中に入り席を探していると、中嶋は優里の手をそっと繋いだ。
「こっちだよ。」
人と人との間を縫うように席に着くと、優里の目の前に、大きな背中がやってきた。
「中嶋さん、あの人はなんて名前なの?」
優里はその背中を指さした。
「ああ、岡田だね。」
カッコいいなぁ。
男の人の背中を、こんなに頼もしいと感じた事があっただろうか。何が起きても、どんな無茶をしても、あの大きな背中が自分の近くにあったら、大丈夫だよ、そう言って自分を守ってくれそうだ。
優里は中嶋が一生懸命にルールを説明している時も、55番が気になって、それをずっと目で追っていた。
そのうち、同じユニフォームを着ているのに、違う番号の背中があの位置にやってくると、優里は急に、強い風が自分に吹き付けてきて、立っていられないくらい辛い気持ちになった。
「ねぇ、中嶋さん。どうしてあの人はこないの?」
優里は寄り掛かる場所を探した。
「選手交代になったんだね。さっき、そうアナウンスされただろう。」
「どうして?」
「代走の選手がそのまま岡田と代わったんだよ。」
「ん?」
「優里ちゃんは本当に人の話しを聞かないんだね。」
「あの人はもう出ないの?」
「もう出ないね。」
「そっか、がっかり。」
帰りの車の中では、どうしてか知らないけど、中嶋は上機嫌だった。
「お腹減ったね。何か食べて帰ろうか。」
中嶋はそう言った。
「じゃあ、私がご馳走します。この前のお礼もまだだし。」
「いいよ、優里ちゃんはまだ学生だろう。今日は一緒に野球を観てくれて、お礼を言うのはこっちの方だよ。」
「なんだか申し訳ないな。鼻血の時も、風邪を引いた時も、たくさんお世話になったのに。」
「そのわりには、ぜんぜん人の話しを聞かないで、ずいぶんとマイペースに過ごしてるよね。」
「話し、ちゃんと聞いてますよ。」
「だったら、今の試合は何対何でどっちが勝ったか、わかってる?」
「…。」
「ほら。ずっと岡田ばっかり見てたでしょう?」
「あんな大きな背中を見たの、初めてだったから。大きいって、ただ大きいだけじゃないの、なんだろう…。」
優里は中嶋の後ろを確かめようと、シートと背中の隙間を見た。
「こら、俺と岡田の背中と比べるんじゃない。」
中嶋はそう言って笑った。
雨が少し強くなってきた。ワイパーを目一杯掛けると、中嶋は前屈みになって、信号を見つめた。
「中嶋さん。」
「何?」
「この前おにぎり作ってくれたでしょう?また食べたいなぁ。」
「じゃあ、優里ちゃんの家で、一緒に食べようか。」
買い物を終え、2人は優里のアパートについた。
「優里ちゃんさぁ、男の人を家にあげるのって、ぜんぜん抵抗がないの?」
「だって中嶋さんは先生じゃないですか。ちゃんと常識がある人だと、信じてるから。」
「そうだけど、男なんてみんな同じだよ。」
「うーん、そっか。」
優里は少し考えていた。
本当はさっきから、ずっと中嶋の背中に寄り掛かってみたいと思っていた。そんな関係になりたいと思っているのは、自分の方なのかもしれない。
いやらしい。
あの雪の日から、いや、もっと前から、自分はこうして隣りで誰かと話しをする事を、ずっと避けてきた。だけど中嶋となら、少しでも長く一緒にいたいと思えてくる。そして、その背中に触れてみたい。
近づきたいという気持ちが、次から次へと溢れてくる。中嶋が話す言葉も、隣りにいる空気も、そして息をするスピードも、何一つ嫌な思いをする事なく、一緒にいて心地がいい。
「優里ちゃんがそれで良かったから、俺はいいけど、彼氏とかいるなら、ちゃんと言ってよ。」
中嶋はそう言ってキッチンに向かった。
彼氏という言葉を聞いて、優里は現実に戻った。
二人きりで一緒に過ごすという事は、やっぱりそういうと事か。中嶋は、自分のいやらしい気持ちを、見透かしていたのか。
「中嶋さん、お米はたくさんありますよ。母の実家が新潟だから。」
優里は気持ちを隠す様に、シンクの扉を開けた。
「本当に人の話しを聞かないね。彼氏とかはいないの?」
中嶋は優里の隣りにしゃがみ込んだ。
優里は急に恥ずかしくなった。
「いませんよ。中嶋さんは?」
さっきまで、普通に話せていたのに、中嶋の顔を見る事ができない。
「いたら、女の子の家になんて来ないよ。」
「嘘なんて、バレなきゃ本当になるからね。だいたい金髪で教師なんて、信じられないし。」
優里は中嶋を疑るように横目で笑った。本当はその視線を送る胸の奥には、自分だけが存在している事を確かめたかった。
中嶋はしゃがんでいる優里と同じ目線に合わせると、
「あれはね、大学の時の友達の結婚式があって、そいつと昔一緒にバンドを組んでたから、余興でやろうかって話しになって、それで。」
そう言った。
「本当?」
「全部、本当だよ。」
中嶋は言って優里を立たせると、
「おにぎりはまた今度。今日はカレーにするって、さっき話しただろう。」
そう言って袋から材料を出した。
じゃがいもの皮を剥きながら、優里は中嶋の背中を見ようと、何度もキョロキョロしていた。中嶋はその度に、何?と振り返るので、なかなかその背中を見ることができない。
「バイトは週に何回?」
「えっ?」
「バイトの回数。」
「えっと、週に4回。」
「夕方?」
「朝もたまにあります。土曜日とか。」
「じゃあ今日はバイトだったの?」
「そう。」
「明日は?」
「明日はお休みです。月と水木と土曜日。時々、金も入るかな。」
「じゃあ、今日は泊まって行ってもいい?」
「えっ?」
自分の顔が熱くなってくるのがわかる。
「冗談だよ。ご飯食べたら帰るから。」
優里は帰るまでに、せめてなんとか中嶋の背中を見ようと、また中嶋の後ろに視線を向けると、
「そんなに、背中が気になるのかい?」
中嶋は振り向いてそう言った。
「すごく気になります。」
「もしもさ、俺の背中が、優里ちゃんの好みだったらどうする?」
「その時は、触ってみてもいい?」
優里は中嶋に思いを伝えた。真剣に言ったのに、中嶋は声に出して笑った。
「勝手に見るのはダメだよ。こっちにも準備があるからね。」
中嶋はそう言うと、玉ねぎを鍋で炒めた。
優里の気持ちは、中嶋にうまく逸らされたような感じがして、急にやり切れなくなった。
「中嶋さんは、いくつですか?」
「俺は29。優里ちゃんは?」
「19です。」
「じゃあ、大学1年生か。学校は楽しい?」
「どうかな。」
「だって、好きな勉強をしてるんだろう。」
「滑り止めで入った学校だから、好きな勉強っていうか、それしか選べなかったから。」
じゃがいもの皮を全部剥いた優里は、ボールにそれを入れ、水で汚れをキレイに流した。
「あとは、煮込むだけだね。」
中嶋はそう言った。
「サラダも作るの?」
「そうだね。」
「中嶋さん、トマトが嫌いって言ってたよね。」
優里は中嶋の顔を覗いた。
「よく覚えてるね。」
「私もトマトって、ちょっと苦手。」
食事を終えて、食器を洗いながら、優里はまた中嶋の背中が気になった。
もう一度、中嶋に気持ちを伝えたい。
「見たらダメなの?」
優里は中嶋に聞いた。
「あぁ、背中かい?今度、また来た時にね。」
「なんで?」
「入れ墨が入っていたらどうする?」
「別に裸を見ようとしてるわけじゃないし。それに、中嶋さんの背中には、なんの模様も入っていないような気がするよ。」
「ねぇ、優里ちゃん。」
「ん?」
「なんでそんなに背中が気になるの?」
「中嶋さんの事、確かめたくって。」
中嶋は優里の背中を触った。
「背中は自分じゃ見れない分、人に見られると恥ずかしいんだよ。岡田はいろんな経験や実績があるし、何より大きな自信がある。俺はそんな自信がないし、後悔ばかりが積み重なっているよ。」
自分の背中を触っている中嶋に、
「中嶋さんは、どんな背中が好き?」
優里はそう聞いた。
「こんな背中。」
中嶋は優里の背中を触り続けている。
「違うよ、自分がなりたい背中の事。」
優里は話しをすり替えた。
「男の背中の事?」
「そう。男の人の背中の事。」
優里は中嶋の背中を見ようとしたが、中嶋は優里と視線を合わせた。
「そりゃ、ほどよく筋肉があって、広い背中は理想だけど。」
「私ね、中嶋さんの背中、本屋で見たよ。」
優里が言った。
「ん?」
「その背中について行ったら、急に振り向かれて、鼻血が出たけど、すごく自信で溢れていた気がする。」
中嶋は自分の顔を見つめ、少し微笑んだ優里を、急に抱きしめたくなった。
「優里ちゃん、ずるいよ。そんな顔で俺を見るなって。」
「中嶋さん、今日は帰ってしまうの?」
「ずっとここにいたら、何をするかわからないよ。」
「それでもいいよ。もう少し、話しがしたいから。」
中嶋は優里の顔に近づいた。
優里は中嶋の頬をつねると、
「そうじゃなくて、野球の話しが聞きたいの。」
心とは裏腹の気持ちを、中嶋に言った。
待ち合わせの場所まで歩いていると、一面に広がった黄色い景色が見えた。優里は歩く速度を落とし、ゆっくりとその黄色を眺めた。
暖かい日差しがポカポカと照りつける中、全身を防護服で覆った人が、草刈り機を腰に付けてやってくると、ギィーンと音を立てて、黄色のジュータンを片付け始めた。
優里は目がかゆくなり、何度かこすっているうちに、涙と鼻水がどんどん流れてきた。
大丈夫。
今日はちゃんと鼻血が出てもいいように準備をしてきた。すぐに取り出せる様に、上着のポケットには、2つもテッシュを入れてきた。優里はハンカチを出すと、涙と鼻を拭った。
「優里ちゃん。」
黒髪が優里の肩を軽く叩いた。
「あっ、金髪さん。」
「金髪って、その呼び名はないだろう。」
黒髪は優里にそう言った。
「名前、なんて言いましたっけ?」
「中嶋匠海。やっぱり忘れたのか。」
男性は優里の頭を撫でそう言った。
「そうだ、中嶋さんだった。」
本当は、名前なんてすっかり忘れてしまっていたけれど、とりあえず知っているふりをして、優里は愛想笑いをした。
「風邪はすっかり良くなったかい?」
「はい。いろいろありがとうございました。」
「勝手に家に入ったりして、ごめんね。」
中嶋はそう言った。
「熱があったせいか、あんまり覚えていないんです。」
「そうだろうね。すごく辛そうだったから。」
「少し前から、なんとなく風邪引いたかなって思ってたんですけど、そのうち治ると思って、放っておいたんです。」
「そっか。一人暮らしは最近始めなんでしょう?冷蔵庫の中、空っぽだったから。」
「見たんですね?」
「飲み物を入れる時に、見ちゃったよ。」
中嶋は草刈りをしている方を指さした。
「優里ちゃん、アレルギーがあるのかい?」
「なんで?」
「目が真っ赤だから。」
「そんなに赤いですか?」
「あの黄色はタンポポだよ。早く行こう。」
中嶋はそう言って、優里の手を掴み歩き出した。
「車はそこに停めてあるから。」
「あの、ちょっと、ごめんなさい。」
優里は中嶋の手を離すと、上着からテッシュを出して涙と鼻水を拭いた。
「あれ、タンポポだったんですね。」
「そうだよ。毎年あの庭に咲くんだ。」
「あそこって、なんて大学?」
「教育大、俺の母校。」
「じゃあ中嶋さんは、毎年あのタンポポを見ていたの?」
「そう。あの場所に必ず咲くんだよ。綿毛になってしまったら大変だから、咲き始めると毎週の様に草刈りするんだけど、刈っても刈ってもまた花をつける。俺もこの時期は、あれのせいで鼻水が止まらなかったよ。」
「あんなに可愛いのに、やっかいな花なんですね。」
「ここらへんに咲いてるのは、外国からきた種類だよ。本当の日本のタンポポは、今は少ないんじゃないのかな。」
「外国のタンポポは強いんですね。綿毛なんかになってしまったら、風に乗って捕まえる事はできないだろうし。」
優里は目をこすっていた。
「大丈夫かい?」
「大丈夫。中嶋さんは理科の先生なの?」
「前に優里ちゃんに話したじゃないか、俺は数学の教師だよ。本当にひどい風邪を引いていたんだね。」
2人は中嶋の車の前に来た。
「乗って。」
中嶋は優里に助手席のドアを開ける。
「どこに行くんですか?」
「一緒に野球を観に行こうよ。」
「野球?」
「今日は好きなチームの試合があるんだよ。1人で球場に行くのがなんだか嫌でね。優里ちゃん、一緒についてきてよ。」
「私、野球を観るのって初めてです。」
「そっか。迷惑かい?」
「ううん。楽しみです。」
中嶋は車を走らせた。
「普段は何をしているの?」
「何もしていません。コンビニでバイトしてる以外は、ゴロゴロしてる事が多いです。」
「サークルとかは?」
「人付き合いが苦手なんで、入ってません。」
「大学は何を学んでるの?」
「栄養学って言えばいいかな。」
「そっか、言葉のないものを相手にしたいんだ。」
中嶋は優里を見て笑った。
「わかりますか?」
「わかるけど、こうやって話してると、誰とでも上手くやれそうなのに。」
「あんまり話さなくてもいい仕事かと思ったのに、けっこう人と話す事が多くて、失敗したなって思います。」
「それはどんな仕事だってそうだろう?」
「そうだけど。」
「鼻血はよく出すの?」
「えっ?」
「この前、けっこう止まらなかったよね。鼻にぶつかったって事もあるけど、俺の予想では、牛乳ひとパックくらいは出たと思うよ。」
「たまになんの前触れもなく出る時もあって、なんでそうなのか、よくわからないんです。」
「きっと優里ちゃんの中で、何か溜まってるものが、急に溢れる日があるんだろうね。」
「そんな事、あるのかな。」
「あるんだよ。うちの姉は、時々血を吐く事があって、入院までしたけど、結局原因はわからないんだ。」
「血を吐くの?」
「そう。体のどこかに血の溜まる袋ができるって、言われたらしいよ。別に悪いものじゃないらしいけど。」
「へぇ~、不思議ですね。」
球場に着くと、入り口には長い列ができていた。
「野球は雨でもあるんですか?」
優里は低く雲が立ち込める空を見た。
「ここは屋根のある球場だからね。」
「私、ぜんぜんルールなんてわかりません。」
「大丈夫、ちゃんと教えてあげるから。」
中に入り席を探していると、中嶋は優里の手をそっと繋いだ。
「こっちだよ。」
人と人との間を縫うように席に着くと、優里の目の前に、大きな背中がやってきた。
「中嶋さん、あの人はなんて名前なの?」
優里はその背中を指さした。
「ああ、岡田だね。」
カッコいいなぁ。
男の人の背中を、こんなに頼もしいと感じた事があっただろうか。何が起きても、どんな無茶をしても、あの大きな背中が自分の近くにあったら、大丈夫だよ、そう言って自分を守ってくれそうだ。
優里は中嶋が一生懸命にルールを説明している時も、55番が気になって、それをずっと目で追っていた。
そのうち、同じユニフォームを着ているのに、違う番号の背中があの位置にやってくると、優里は急に、強い風が自分に吹き付けてきて、立っていられないくらい辛い気持ちになった。
「ねぇ、中嶋さん。どうしてあの人はこないの?」
優里は寄り掛かる場所を探した。
「選手交代になったんだね。さっき、そうアナウンスされただろう。」
「どうして?」
「代走の選手がそのまま岡田と代わったんだよ。」
「ん?」
「優里ちゃんは本当に人の話しを聞かないんだね。」
「あの人はもう出ないの?」
「もう出ないね。」
「そっか、がっかり。」
帰りの車の中では、どうしてか知らないけど、中嶋は上機嫌だった。
「お腹減ったね。何か食べて帰ろうか。」
中嶋はそう言った。
「じゃあ、私がご馳走します。この前のお礼もまだだし。」
「いいよ、優里ちゃんはまだ学生だろう。今日は一緒に野球を観てくれて、お礼を言うのはこっちの方だよ。」
「なんだか申し訳ないな。鼻血の時も、風邪を引いた時も、たくさんお世話になったのに。」
「そのわりには、ぜんぜん人の話しを聞かないで、ずいぶんとマイペースに過ごしてるよね。」
「話し、ちゃんと聞いてますよ。」
「だったら、今の試合は何対何でどっちが勝ったか、わかってる?」
「…。」
「ほら。ずっと岡田ばっかり見てたでしょう?」
「あんな大きな背中を見たの、初めてだったから。大きいって、ただ大きいだけじゃないの、なんだろう…。」
優里は中嶋の後ろを確かめようと、シートと背中の隙間を見た。
「こら、俺と岡田の背中と比べるんじゃない。」
中嶋はそう言って笑った。
雨が少し強くなってきた。ワイパーを目一杯掛けると、中嶋は前屈みになって、信号を見つめた。
「中嶋さん。」
「何?」
「この前おにぎり作ってくれたでしょう?また食べたいなぁ。」
「じゃあ、優里ちゃんの家で、一緒に食べようか。」
買い物を終え、2人は優里のアパートについた。
「優里ちゃんさぁ、男の人を家にあげるのって、ぜんぜん抵抗がないの?」
「だって中嶋さんは先生じゃないですか。ちゃんと常識がある人だと、信じてるから。」
「そうだけど、男なんてみんな同じだよ。」
「うーん、そっか。」
優里は少し考えていた。
本当はさっきから、ずっと中嶋の背中に寄り掛かってみたいと思っていた。そんな関係になりたいと思っているのは、自分の方なのかもしれない。
いやらしい。
あの雪の日から、いや、もっと前から、自分はこうして隣りで誰かと話しをする事を、ずっと避けてきた。だけど中嶋となら、少しでも長く一緒にいたいと思えてくる。そして、その背中に触れてみたい。
近づきたいという気持ちが、次から次へと溢れてくる。中嶋が話す言葉も、隣りにいる空気も、そして息をするスピードも、何一つ嫌な思いをする事なく、一緒にいて心地がいい。
「優里ちゃんがそれで良かったから、俺はいいけど、彼氏とかいるなら、ちゃんと言ってよ。」
中嶋はそう言ってキッチンに向かった。
彼氏という言葉を聞いて、優里は現実に戻った。
二人きりで一緒に過ごすという事は、やっぱりそういうと事か。中嶋は、自分のいやらしい気持ちを、見透かしていたのか。
「中嶋さん、お米はたくさんありますよ。母の実家が新潟だから。」
優里は気持ちを隠す様に、シンクの扉を開けた。
「本当に人の話しを聞かないね。彼氏とかはいないの?」
中嶋は優里の隣りにしゃがみ込んだ。
優里は急に恥ずかしくなった。
「いませんよ。中嶋さんは?」
さっきまで、普通に話せていたのに、中嶋の顔を見る事ができない。
「いたら、女の子の家になんて来ないよ。」
「嘘なんて、バレなきゃ本当になるからね。だいたい金髪で教師なんて、信じられないし。」
優里は中嶋を疑るように横目で笑った。本当はその視線を送る胸の奥には、自分だけが存在している事を確かめたかった。
中嶋はしゃがんでいる優里と同じ目線に合わせると、
「あれはね、大学の時の友達の結婚式があって、そいつと昔一緒にバンドを組んでたから、余興でやろうかって話しになって、それで。」
そう言った。
「本当?」
「全部、本当だよ。」
中嶋は言って優里を立たせると、
「おにぎりはまた今度。今日はカレーにするって、さっき話しただろう。」
そう言って袋から材料を出した。
じゃがいもの皮を剥きながら、優里は中嶋の背中を見ようと、何度もキョロキョロしていた。中嶋はその度に、何?と振り返るので、なかなかその背中を見ることができない。
「バイトは週に何回?」
「えっ?」
「バイトの回数。」
「えっと、週に4回。」
「夕方?」
「朝もたまにあります。土曜日とか。」
「じゃあ今日はバイトだったの?」
「そう。」
「明日は?」
「明日はお休みです。月と水木と土曜日。時々、金も入るかな。」
「じゃあ、今日は泊まって行ってもいい?」
「えっ?」
自分の顔が熱くなってくるのがわかる。
「冗談だよ。ご飯食べたら帰るから。」
優里は帰るまでに、せめてなんとか中嶋の背中を見ようと、また中嶋の後ろに視線を向けると、
「そんなに、背中が気になるのかい?」
中嶋は振り向いてそう言った。
「すごく気になります。」
「もしもさ、俺の背中が、優里ちゃんの好みだったらどうする?」
「その時は、触ってみてもいい?」
優里は中嶋に思いを伝えた。真剣に言ったのに、中嶋は声に出して笑った。
「勝手に見るのはダメだよ。こっちにも準備があるからね。」
中嶋はそう言うと、玉ねぎを鍋で炒めた。
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「中嶋さんは、いくつですか?」
「俺は29。優里ちゃんは?」
「19です。」
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「どうかな。」
「だって、好きな勉強をしてるんだろう。」
「滑り止めで入った学校だから、好きな勉強っていうか、それしか選べなかったから。」
じゃがいもの皮を全部剥いた優里は、ボールにそれを入れ、水で汚れをキレイに流した。
「あとは、煮込むだけだね。」
中嶋はそう言った。
「サラダも作るの?」
「そうだね。」
「中嶋さん、トマトが嫌いって言ってたよね。」
優里は中嶋の顔を覗いた。
「よく覚えてるね。」
「私もトマトって、ちょっと苦手。」
食事を終えて、食器を洗いながら、優里はまた中嶋の背中が気になった。
もう一度、中嶋に気持ちを伝えたい。
「見たらダメなの?」
優里は中嶋に聞いた。
「あぁ、背中かい?今度、また来た時にね。」
「なんで?」
「入れ墨が入っていたらどうする?」
「別に裸を見ようとしてるわけじゃないし。それに、中嶋さんの背中には、なんの模様も入っていないような気がするよ。」
「ねぇ、優里ちゃん。」
「ん?」
「なんでそんなに背中が気になるの?」
「中嶋さんの事、確かめたくって。」
中嶋は優里の背中を触った。
「背中は自分じゃ見れない分、人に見られると恥ずかしいんだよ。岡田はいろんな経験や実績があるし、何より大きな自信がある。俺はそんな自信がないし、後悔ばかりが積み重なっているよ。」
自分の背中を触っている中嶋に、
「中嶋さんは、どんな背中が好き?」
優里はそう聞いた。
「こんな背中。」
中嶋は優里の背中を触り続けている。
「違うよ、自分がなりたい背中の事。」
優里は話しをすり替えた。
「男の背中の事?」
「そう。男の人の背中の事。」
優里は中嶋の背中を見ようとしたが、中嶋は優里と視線を合わせた。
「そりゃ、ほどよく筋肉があって、広い背中は理想だけど。」
「私ね、中嶋さんの背中、本屋で見たよ。」
優里が言った。
「ん?」
「その背中について行ったら、急に振り向かれて、鼻血が出たけど、すごく自信で溢れていた気がする。」
中嶋は自分の顔を見つめ、少し微笑んだ優里を、急に抱きしめたくなった。
「優里ちゃん、ずるいよ。そんな顔で俺を見るなって。」
「中嶋さん、今日は帰ってしまうの?」
「ずっとここにいたら、何をするかわからないよ。」
「それでもいいよ。もう少し、話しがしたいから。」
中嶋は優里の顔に近づいた。
優里は中嶋の頬をつねると、
「そうじゃなくて、野球の話しが聞きたいの。」
心とは裏腹の気持ちを、中嶋に言った。
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