背中の言い訳

小谷野 天

文字の大きさ
上 下
4 / 13
4章

涙の理由

しおりを挟む
 あの人に会ったら、話したい事がたくさんある。

 待ち合わせの場所まで歩いていると、一面に広がった黄色い景色が見えた。優里は歩く速度を落とし、ゆっくりとその黄色を眺めた。
 暖かい日差しがポカポカと照りつける中、全身を防護服で覆った人が、草刈り機を腰に付けてやってくると、ギィーンと音を立てて、黄色のジュータンを片付け始めた。
 優里は目がかゆくなり、何度かこすっているうちに、涙と鼻水がどんどん流れてきた。
 大丈夫。
 今日はちゃんと鼻血が出てもいいように準備をしてきた。すぐに取り出せる様に、上着のポケットには、2つもテッシュを入れてきた。優里はハンカチを出すと、涙と鼻を拭った。

「優里ちゃん。」
 黒髪が優里の肩を軽く叩いた。
「あっ、金髪さん。」
「金髪って、その呼び名はないだろう。」  
 黒髪は優里にそう言った。
「名前、なんて言いましたっけ?」
「中嶋匠海。やっぱり忘れたのか。」
 男性は優里の頭を撫でそう言った。
「そうだ、中嶋さんだった。」 
 本当は、名前なんてすっかり忘れてしまっていたけれど、とりあえず知っているふりをして、優里は愛想笑いをした。
「風邪はすっかり良くなったかい?」
「はい。いろいろありがとうございました。」
「勝手に家に入ったりして、ごめんね。」
 中嶋はそう言った。
「熱があったせいか、あんまり覚えていないんです。」
「そうだろうね。すごく辛そうだったから。」
「少し前から、なんとなく風邪引いたかなって思ってたんですけど、そのうち治ると思って、放っておいたんです。」
「そっか。一人暮らしは最近始めなんでしょう?冷蔵庫の中、空っぽだったから。」
「見たんですね?」
「飲み物を入れる時に、見ちゃったよ。」
 中嶋は草刈りをしている方を指さした。
「優里ちゃん、アレルギーがあるのかい?」
「なんで?」
「目が真っ赤だから。」
「そんなに赤いですか?」 
「あの黄色はタンポポだよ。早く行こう。」
 中嶋はそう言って、優里の手を掴み歩き出した。
「車はそこに停めてあるから。」
「あの、ちょっと、ごめんなさい。」
 優里は中嶋の手を離すと、上着からテッシュを出して涙と鼻水を拭いた。
「あれ、タンポポだったんですね。」
「そうだよ。毎年あの庭に咲くんだ。」
「あそこって、なんて大学?」 
「教育大、俺の母校。」
「じゃあ中嶋さんは、毎年あのタンポポを見ていたの?」
「そう。あの場所に必ず咲くんだよ。綿毛になってしまったら大変だから、咲き始めると毎週の様に草刈りするんだけど、刈っても刈ってもまた花をつける。俺もこの時期は、あれのせいで鼻水が止まらなかったよ。」
「あんなに可愛いのに、やっかいな花なんですね。」
「ここらへんに咲いてるのは、外国からきた種類だよ。本当の日本のタンポポは、今は少ないんじゃないのかな。」
「外国のタンポポは強いんですね。綿毛なんかになってしまったら、風に乗って捕まえる事はできないだろうし。」
 優里は目をこすっていた。
「大丈夫かい?」
「大丈夫。中嶋さんは理科の先生なの?」
「前に優里ちゃんに話したじゃないか、俺は数学の教師だよ。本当にひどい風邪を引いていたんだね。」
 2人は中嶋の車の前に来た。
「乗って。」
 中嶋は優里に助手席のドアを開ける。
「どこに行くんですか?」
「一緒に野球を観に行こうよ。」
「野球?」
「今日は好きなチームの試合があるんだよ。1人で球場に行くのがなんだか嫌でね。優里ちゃん、一緒についてきてよ。」
「私、野球を観るのって初めてです。」
「そっか。迷惑かい?」
「ううん。楽しみです。」
 中嶋は車を走らせた。
「普段は何をしているの?」
「何もしていません。コンビニでバイトしてる以外は、ゴロゴロしてる事が多いです。」
「サークルとかは?」
「人付き合いが苦手なんで、入ってません。」
「大学は何を学んでるの?」
「栄養学って言えばいいかな。」
「そっか、言葉のないものを相手にしたいんだ。」
 中嶋は優里を見て笑った。
「わかりますか?」
「わかるけど、こうやって話してると、誰とでも上手くやれそうなのに。」
「あんまり話さなくてもいい仕事かと思ったのに、けっこう人と話す事が多くて、失敗したなって思います。」
「それはどんな仕事だってそうだろう?」
「そうだけど。」
「鼻血はよく出すの?」
「えっ?」
「この前、けっこう止まらなかったよね。鼻にぶつかったって事もあるけど、俺の予想では、牛乳ひとパックくらいは出たと思うよ。」
「たまになんの前触れもなく出る時もあって、なんでそうなのか、よくわからないんです。」    
「きっと優里ちゃんの中で、何か溜まってるものが、急に溢れる日があるんだろうね。」
「そんな事、あるのかな。」
「あるんだよ。うちの姉は、時々血を吐く事があって、入院までしたけど、結局原因はわからないんだ。」
「血を吐くの?」
「そう。体のどこかに血の溜まる袋ができるって、言われたらしいよ。別に悪いものじゃないらしいけど。」
「へぇ~、不思議ですね。」

 球場に着くと、入り口には長い列ができていた。
「野球は雨でもあるんですか?」
 優里は低く雲が立ち込める空を見た。
「ここは屋根のある球場だからね。」
「私、ぜんぜんルールなんてわかりません。」
「大丈夫、ちゃんと教えてあげるから。」
 中に入り席を探していると、中嶋は優里の手をそっと繋いだ。
「こっちだよ。」
 人と人との間を縫うように席に着くと、優里の目の前に、大きな背中がやってきた。
「中嶋さん、あの人はなんて名前なの?」
 優里はその背中を指さした。
「ああ、岡田だね。」 
 カッコいいなぁ。
 男の人の背中を、こんなに頼もしいと感じた事があっただろうか。何が起きても、どんな無茶をしても、あの大きな背中が自分の近くにあったら、大丈夫だよ、そう言って自分を守ってくれそうだ。
 優里は中嶋が一生懸命にルールを説明している時も、55番が気になって、それをずっと目で追っていた。
 そのうち、同じユニフォームを着ているのに、違う番号の背中があの位置にやってくると、優里は急に、強い風が自分に吹き付けてきて、立っていられないくらい辛い気持ちになった。
「ねぇ、中嶋さん。どうしてあの人はこないの?」
 優里は寄り掛かる場所を探した。
「選手交代になったんだね。さっき、そうアナウンスされただろう。」
「どうして?」
「代走の選手がそのまま岡田と代わったんだよ。」
「ん?」
「優里ちゃんは本当に人の話しを聞かないんだね。」
「あの人はもう出ないの?」
「もう出ないね。」
「そっか、がっかり。」

 帰りの車の中では、どうしてか知らないけど、中嶋は上機嫌だった。
「お腹減ったね。何か食べて帰ろうか。」
 中嶋はそう言った。
「じゃあ、私がご馳走します。この前のお礼もまだだし。」
「いいよ、優里ちゃんはまだ学生だろう。今日は一緒に野球を観てくれて、お礼を言うのはこっちの方だよ。」
「なんだか申し訳ないな。鼻血の時も、風邪を引いた時も、たくさんお世話になったのに。」
「そのわりには、ぜんぜん人の話しを聞かないで、ずいぶんとマイペースに過ごしてるよね。」
「話し、ちゃんと聞いてますよ。」
「だったら、今の試合は何対何でどっちが勝ったか、わかってる?」
「…。」
「ほら。ずっと岡田ばっかり見てたでしょう?」
「あんな大きな背中を見たの、初めてだったから。大きいって、ただ大きいだけじゃないの、なんだろう…。」
 優里は中嶋の後ろを確かめようと、シートと背中の隙間を見た。
「こら、俺と岡田の背中と比べるんじゃない。」
 中嶋はそう言って笑った。
 雨が少し強くなってきた。ワイパーを目一杯掛けると、中嶋は前屈みになって、信号を見つめた。
「中嶋さん。」
「何?」
「この前おにぎり作ってくれたでしょう?また食べたいなぁ。」
「じゃあ、優里ちゃんの家で、一緒に食べようか。」
 
 買い物を終え、2人は優里のアパートについた。
「優里ちゃんさぁ、男の人を家にあげるのって、ぜんぜん抵抗がないの?」
「だって中嶋さんは先生じゃないですか。ちゃんと常識がある人だと、信じてるから。」
「そうだけど、男なんてみんな同じだよ。」
「うーん、そっか。」
 優里は少し考えていた。
 本当はさっきから、ずっと中嶋の背中に寄り掛かってみたいと思っていた。そんな関係になりたいと思っているのは、自分の方なのかもしれない。
 いやらしい。
 あの雪の日から、いや、もっと前から、自分はこうして隣りで誰かと話しをする事を、ずっと避けてきた。だけど中嶋となら、少しでも長く一緒にいたいと思えてくる。そして、その背中に触れてみたい。
 近づきたいという気持ちが、次から次へと溢れてくる。中嶋が話す言葉も、隣りにいる空気も、そして息をするスピードも、何一つ嫌な思いをする事なく、一緒にいて心地がいい。

「優里ちゃんがそれで良かったから、俺はいいけど、彼氏とかいるなら、ちゃんと言ってよ。」
 中嶋はそう言ってキッチンに向かった。
 彼氏という言葉を聞いて、優里は現実に戻った。
 二人きりで一緒に過ごすという事は、やっぱりそういうと事か。中嶋は、自分のいやらしい気持ちを、見透かしていたのか。
「中嶋さん、お米はたくさんありますよ。母の実家が新潟だから。」
 優里は気持ちを隠す様に、シンクの扉を開けた。
「本当に人の話しを聞かないね。彼氏とかはいないの?」
 中嶋は優里の隣りにしゃがみ込んだ。
 優里は急に恥ずかしくなった。
「いませんよ。中嶋さんは?」
 さっきまで、普通に話せていたのに、中嶋の顔を見る事ができない。
「いたら、女の子の家になんて来ないよ。」
「嘘なんて、バレなきゃ本当になるからね。だいたい金髪で教師なんて、信じられないし。」
 優里は中嶋を疑るように横目で笑った。本当はその視線を送る胸の奥には、自分だけが存在している事を確かめたかった。
 中嶋はしゃがんでいる優里と同じ目線に合わせると、
「あれはね、大学の時の友達の結婚式があって、そいつと昔一緒にバンドを組んでたから、余興でやろうかって話しになって、それで。」
 そう言った。
「本当?」
「全部、本当だよ。」
 中嶋は言って優里を立たせると、
「おにぎりはまた今度。今日はカレーにするって、さっき話しただろう。」
 そう言って袋から材料を出した。
 じゃがいもの皮を剥きながら、優里は中嶋の背中を見ようと、何度もキョロキョロしていた。中嶋はその度に、何?と振り返るので、なかなかその背中を見ることができない。
「バイトは週に何回?」
「えっ?」
「バイトの回数。」
「えっと、週に4回。」
「夕方?」
「朝もたまにあります。土曜日とか。」
「じゃあ今日はバイトだったの?」
「そう。」
「明日は?」
「明日はお休みです。月と水木と土曜日。時々、金も入るかな。」
「じゃあ、今日は泊まって行ってもいい?」
「えっ?」
 自分の顔が熱くなってくるのがわかる。
「冗談だよ。ご飯食べたら帰るから。」
 優里は帰るまでに、せめてなんとか中嶋の背中を見ようと、また中嶋の後ろに視線を向けると、
「そんなに、背中が気になるのかい?」
 中嶋は振り向いてそう言った。
「すごく気になります。」
「もしもさ、俺の背中が、優里ちゃんの好みだったらどうする?」 

「その時は、触ってみてもいい?」

 優里は中嶋に思いを伝えた。真剣に言ったのに、中嶋は声に出して笑った。
「勝手に見るのはダメだよ。こっちにも準備があるからね。」
 中嶋はそう言うと、玉ねぎを鍋で炒めた。
 優里の気持ちは、中嶋にうまく逸らされたような感じがして、急にやり切れなくなった。
「中嶋さんは、いくつですか?」
「俺は29。優里ちゃんは?」
「19です。」
「じゃあ、大学1年生か。学校は楽しい?」
「どうかな。」
「だって、好きな勉強をしてるんだろう。」
「滑り止めで入った学校だから、好きな勉強っていうか、それしか選べなかったから。」
 じゃがいもの皮を全部剥いた優里は、ボールにそれを入れ、水で汚れをキレイに流した。
「あとは、煮込むだけだね。」
 中嶋はそう言った。
「サラダも作るの?」
「そうだね。」
「中嶋さん、トマトが嫌いって言ってたよね。」
 優里は中嶋の顔を覗いた。
「よく覚えてるね。」
「私もトマトって、ちょっと苦手。」

 食事を終えて、食器を洗いながら、優里はまた中嶋の背中が気になった。
 もう一度、中嶋に気持ちを伝えたい。
「見たらダメなの?」
 優里は中嶋に聞いた。
「あぁ、背中かい?今度、また来た時にね。」
「なんで?」
「入れ墨が入っていたらどうする?」
「別に裸を見ようとしてるわけじゃないし。それに、中嶋さんの背中には、なんの模様も入っていないような気がするよ。」
「ねぇ、優里ちゃん。」
「ん?」
「なんでそんなに背中が気になるの?」
「中嶋さんの事、確かめたくって。」
 中嶋は優里の背中を触った。
「背中は自分じゃ見れない分、人に見られると恥ずかしいんだよ。岡田はいろんな経験や実績があるし、何より大きな自信がある。俺はそんな自信がないし、後悔ばかりが積み重なっているよ。」
 自分の背中を触っている中嶋に、
「中嶋さんは、どんな背中が好き?」
 優里はそう聞いた。
「こんな背中。」
 中嶋は優里の背中を触り続けている。
「違うよ、自分がなりたい背中の事。」
 優里は話しをすり替えた。
「男の背中の事?」
「そう。男の人の背中の事。」
 優里は中嶋の背中を見ようとしたが、中嶋は優里と視線を合わせた。
「そりゃ、ほどよく筋肉があって、広い背中は理想だけど。」
「私ね、中嶋さんの背中、本屋で見たよ。」
 優里が言った。
「ん?」
「その背中について行ったら、急に振り向かれて、鼻血が出たけど、すごく自信で溢れていた気がする。」
 中嶋は自分の顔を見つめ、少し微笑んだ優里を、急に抱きしめたくなった。
「優里ちゃん、ずるいよ。そんな顔で俺を見るなって。」
「中嶋さん、今日は帰ってしまうの?」
「ずっとここにいたら、何をするかわからないよ。」
「それでもいいよ。もう少し、話しがしたいから。」
 中嶋は優里の顔に近づいた。
 優里は中嶋の頬をつねると、
「そうじゃなくて、野球の話しが聞きたいの。」
 心とは裏腹の気持ちを、中嶋に言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

溺愛される妻が記憶喪失になるとこうなる

田尾風香
恋愛
***2022/6/21、書き換えました。 お茶会で紅茶を飲んだ途端に頭に痛みを感じて倒れて、次に目を覚ましたら、目の前にイケメンがいました。 「あの、どちら様でしょうか?」 「俺と君は小さい頃からずっと一緒で、幼い頃からの婚約者で、例え死んでも一緒にいようと誓い合って……!」 「旦那様、奥様に記憶がないのをいいことに、嘘を教えませんように」 溺愛される妻は、果たして記憶を取り戻すことができるのか。 ギャグを書いたことはありませんが、ギャグっぽいお話しです。会話が多め。R18ではありませんが、行為後の話がありますので、ご注意下さい。

愛されない女

詩織
恋愛
私から付き合ってと言って付き合いはじめた2人。それをいいことに彼は好き放題。やっぱり愛されてないんだなと…

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

【短編】悪役令嬢と蔑まれた私は史上最高の遺書を書く

とによ
恋愛
婚約破棄され、悪役令嬢と呼ばれ、いじめを受け。 まさに不幸の役満を食らった私――ハンナ・オスカリウスは、自殺することを決意する。 しかし、このままただで死ぬのは嫌だ。なにか私が生きていたという爪痕を残したい。 なら、史上最高に素晴らしい出来の遺書を書いて、自殺してやろう! そう思った私は全身全霊で遺書を書いて、私の通っている魔法学園へと自殺しに向かった。 しかし、そこで謎の美男子に見つかってしまい、しまいには遺書すら読まれてしまう。 すると彼に 「こんな遺書じゃダメだね」 「こんなものじゃ、誰の記憶にも残らないよ」 と思いっきりダメ出しをされてしまった。 それにショックを受けていると、彼はこう提案してくる。 「君の遺書を最高のものにしてみせる。その代わり、僕の研究を手伝ってほしいんだ」 これは頭のネジが飛んでいる彼について行った結果、彼と共に歴史に名を残してしまう。 そんなお話。

王女殿下の秘密の恋人である騎士と結婚することになりました

鳴哉
恋愛
王女殿下の侍女と 王女殿下の騎士  の話 短いので、サクッと読んでもらえると思います。 読みやすいように、3話に分けました。 毎日1回、予約投稿します。

お針子と勘違い令嬢

音爽(ネソウ)
恋愛
ある日突然、自称”愛され美少女”にお針子エルヴィナはウザ絡みされ始める。理由はよくわからない。 終いには「彼を譲れ」と難癖をつけられるのだが……

お久しぶりです、元旦那様

mios
恋愛
「お久しぶりです。元旦那様。」

姉の代わりでしかない私

下菊みこと
恋愛
クソ野郎な旦那様も最終的に幸せになりますので閲覧ご注意を。 リリアーヌは、夫から姉の名前で呼ばれる。姉の代わりにされているのだ。それでも夫との子供が欲しいリリアーヌ。結果的に、子宝には恵まれるが…。 アルファポリス様でも投稿しています。

処理中です...