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5章
土砂降り
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高校生の頃の恋愛なんて、まだ削られていない鉛筆の様なもの。これから描いていく未来も伝えられないのに、付き合うという言葉が、全てを支配してしまう。好きという気持ちが、本当はなんなのかもわからないまま、キスさえしてしまえば、それが自分の出した答えになってしまうのだから。
叶太、私達はどうして、意地を張ったのかな?
県大会の日。
トーナメント表を見て、男子のシングルスの選手の中に、叶太の名前を見つけた。
叶太、ずいぶん強くなったんだね。
揃いのチームジャージが行き交うギャラリーで、叶太が顧問の笠井と2人だけで、席に座っていた。
「渋谷、元気だったか?」
バドミントン部の顧問で担任だった笠井が、挨拶にきた遥に声を掛ける。
「先生、お久しぶりです。」
「新しい高校でバドミントン続けられて良かったな。」
「はい。」
遥は叶太をチラッと見た。
「うちは、叶太がずいぶん頑張ってくれて、今年は県大会までやってこれたんだ。他のみんなも、メキメキ力をつけてるし、この学年には期待してるんだよ。」
笠井が、叶太の肩を掴んだ。
「会いたいです、みんなに。」
遥は笠井そう言った。
母の浮気さえなげれば、自分はずっと叶太の隣りにいたはずなのに。
ここに座っている叶太の隣りに、自分もあたり前のように並んでいられた。
「渋谷、先生が集まってだって。」
渉が遥を呼びにきた。遥が渉と歩いていったその先には、同じジャージをきた数人が、楽しそうに集まって話しをしている。背中に書かれた揃いの文字に、叶太は少し嫉妬した。
遥。
あの日、手紙を見て笑ってくれたら、ずっと胸に溜めていた気持ちを伝えようとしてたのに。なんで勝手に行ってしまったんだよ。
小学2年の夏。
両親が離婚して、母親と一緒この町にやってきた時、貸してくれた遥の教科書に、たくさん落書きをしたよな。
遥も叶太も順調に勝ち進んだ。
叶太の3回戦は、遥を呼びに来た渉との試合だった。
試合が始まり、叶太はギャラリーから自分を見ている遥に気がついた。
急に力んでシャトルを見失うと、叶太を笑うように、シャトルは足元にポトリと落ちた。
遥の右手が固く握っているのがわかる。
バカかよ、遥。
試合は3セット目までもつれ、結果は叶太が勝利した。
叶太は遥が次の試合の準備をしているコートの後ろを通ると、遥に小さく右手を上げた。
遥と華英の試合が始まった。
遥がサーブを打とうと構えると、ギャラリーに叶太の姿が見えた。
遥のサーブが、ネットに引っ掛かる。
「遥、何焦ってんの?」
華英がそう言った。
叶太が見ていると思うと、次もシャトルを見失った。
1セット目が終わった所で、華英が声を掛ける。
「遥、もう少し集中してよ。」
「ごめん。」
「どうしたの、コンタクト、落とした?」
「ううん。次はちゃんと見失わないから。」
その後も気持ちがソワソワして、小さなミスが続いた。華英が遥に声を掛け、何度も助けられる。なんとか勝つ事はできたが、次の試合を前に、渉は遥にこう言った。
「渋谷、今日はひどいな。水川に負担掛け過ぎだろ。あとで哲がくるって言ってんだ。それまでなんもしても勝ち続けろよ。」
華英は遥に、
「さっき話してた人って、前の学校の人?」
そう聞いてきた。
「そう。」
「気持ちが入らないのは、そのせい?」
「違うよ。ごめんね、華英。次はちゃんと動くから。」
準々決勝で、叶太は敗退した。
斜め後ろのコートで試合をしていた遥は、荷物を持ってコートを後にする叶太に気がついた。
叶大の事が気になっていると、相手の打ったシャトルが、遥の右目を直撃して、遥は転んだ。
右の手首から、鈍い音が聞こえた。
少しでも動かそうとすると、体中が稲妻が走る。
「大丈夫?」
起き上がれらない遥に、華英が声を掛ける。
「あと3点。華英、なんとか頑張るから。」
遥は華英の手を借りてなんとか立ち上がり、左手でラケットを握った。
試合は勝ったが、結局、次の試合は棄権となった。
「ごめん。華英。」
「そんな事より、早く病院に行こうよ。」
華英が遥の腫れてきた右腕を心配した。
「渋谷、家族に連絡して、すぐにここにくるように言いなさい。」
顧問の先生がそう言うと、遥はカバンの中から携帯を出そうとしたが、使い慣れない左手では、ファスナーさえ開けることができない。
「渋谷。」
笠井が心配そうに遥の元にきた。
「遥。」
「遥ちゃん。」
叶太と叶太の母もいる。
笠井が遥の右手に触った。
「折れてるぞ、これ。」
「遥ちゃん、このまま病院に送って行くよ。渋谷くんには、私から連絡しておくから。」
遥の母がそう言った。
笠井と叶太の母が、監督に事情を話している。
叶太は遥のカバンを持つと、
「行くぞ。」
遥にそう言った。
「華英、ごめん。先に帰るから。」
「わかってる。早く病院に行きな。」
華英は心配に遥を見ている叶太と、少し目があった。
「渋谷、気を付けてな。」
監督がそう言って、遥を見送った。
遥はみんなに頭を下げると、叶太の後をついて行く。
「叶太、頼んだぞ。俺は一旦、学校に戻るから。」
笠井はそう言うと、叶太の母に頭を下げた。
右手を使えない遥が、靴を履くのに手間取っていると、叶太が手を貸してくれた。
「ありがとう。」
「遥にお礼なんて言われたの、初めてだな。」
「そんな事ないよ、いつもちゃんと言ってるよ。」
「痛むのか?」
「何も感覚がないの。」
哲が玄関に入って来るのが見える。遥を見ると、
「試合、終わったの?」
そう聞いた。
「終わったよ。」
遥が押さえている右手を見て、
「大丈夫?」
そう言って遥の顔を見た。
「これから、病院に行くところ。」
遥は叶太の隣りに並んだ。
遥の肩が、隣りに男の肩に吸い込まれて行くようだ。
「遥!後で連絡くれよ。」
「うん。」
遥は振り向くと、哲に向って静かに微笑んだ。
叶太の母の運転する車で、救急病院へ向かった。叶太の母が連絡を取ってくれた父も、病院に駆けつける事になった。
「澄子《すみこ》さん、すみません。」
遥は叶太の母にそう言った。
「澄子さんなんて呼ぶの、遥ちゃんくらいよ。」
叶太の母と父は高校の同級生だったらしく、叶太の母の事を、父は澄子さん、叶太の母は、父の事を、渋谷くん、と呼んでいた。幼かった遥は、父が呼ぶように叶太の母を、澄子さんと呼んでいた。
病院に着くと、すぐにレントゲンを取った。腫れて熱を持つ遥の右手をレントゲン技師が台に乗せると、痛っ!遥は思わず声が出た。
ギプスを巻き終え、遥が処置室から出てくると、父が待合にいるのが見えた。
「お父さん。」
父の服が濡れている。
「雨、降ってるの?」
「すごい雨だよ。」
遥は玄関に目をやると、外は土砂降りの雨だった。
「大丈夫か、遥。」
「折れてるって。」
「そうか…。痛むか?」
「少し。」
「遥、お父さん、明日から出張でな。少しの間、お母さんの所、行くか?」
父がそう言うと
「遥ちゃん、家に泊まってよ。」
澄子はそう言った。
「遥、そうしなよ。」
叶太は遥の顔を見た。
「澄子さん、そう言うわけには行かないよ。」
「うちはいいのよ。遥ちゃんだって、お母さんの所なんか行きにくいと思うし。出張はいつまで?」
「明々後日。」
「それなら、どうせ土日になるんだし、帰ってきたらこっちに遥ちゃんを迎えにくればいいでしょう。」
「そうだな。澄子さんの言葉に甘えるよ。」
叶太の家に着いた。
「私、ちょっと買物に行ってくるから。遥ちゃん、右手使えないなら、晩ごはんはスプーンで食べれるものにしようか。ユニフォーム洗うから、叶太の服に取り替えて。」
2人きりになった遥と叶太。
「叶太、ゼッケン取ってくれる?」
遥は少しでも叶太に近づきたかった。
ジャージを脱ぎ、叶太に背中を向けた。
「わかったよ。」
叶太は遥の束ねた髪を肩に掛けた。本当は思いっきり遥の背中に触れたかったけれど、ユニフォームとゼッケンを止めている安全ピンをそっと外して、背中越しに、外したゼッケンを遥に渡した。
遥の背中が少し震えているのがわかる。
「ほら、」
「ありがとう。」
「遥。」
「何?」
叶太は遥を後ろから抱きしめた。
「俺、遥の顔、まっすぐに見れないよ。」
叶太は遥の髪に顔を埋める。
「どうして?」
「小百合と付き合っているから。」
「そうだったんだ…。」
「子供の時みたいに、なんにも考えずにいられたら良かった。好きだって言葉が、誰かを傷つける事だってあるんだよ。」
遥の溢れた涙が、自分の体を抱きしめている叶太の手に落ちた。
「黙って出ていったのは私だもん。もう会うつもりなんてなかったのに、また会えて嬉しくて、やっぱり好きだったなんて、都合のいい話しだよね。」
遥は精一杯、強がった。
「やっぱり、遥の事、」
叶太は遥の顔に近づいた。
「叶太。私もね、さっき玄関で会った人と、付き合ってるの。」
遥は叶太を遠ざけた。
「バカだな、俺達。」
叶太はうつむいた遥のギプスを触った。
「痛むのか?」
「きっとね。」
「なんだよ、それ。」
「こんな痛みよりも、心の中はもっと痛くて苦しいから。」
泣き続ける遥を、叶太はソファに座らせた。
「手、すごく腫れてるぞ。指まで色が変わってる。」
「何日か腫れるって、先生が言ってた。」
「なんか飲むか?」
「カバンの中に、飲み掛けた水が入っているはず。本当はもうひとつくらい、試合ができると思ったのに。」
「遥と組んでた子、すごく上手かったな。」
「そうでしょう。」
「すぐに友達ができてよかったな。」
「叶太も転校してきた時、緊張してた?」
「こんな田舎になんで俺だけって、ずっと思ってた。」
「そっか。だけど誰かのせいにしたって、最初からそうなるように、決まってたんだよね。」
「遥、あのさ。」
「叶太、ここに私が来たこと、誰にも言わないで。小百合が知ったらきっと嫌な気持ちになると思うから。」
「言わないよ。」
叶太は遥のドリンクボトルをカバンから出すと、それを台所へ置き、遥にはパックの牛乳を持ってきた。
「ほら、ストローさしてきてやったぞ。」
「えっ?」
「時々懐かしくて買ってくるんだ。遥、牛乳嫌いで、俺によくくれたよな。」
「そうだった。今も大嫌い。」
「飲めよ、このままなら骨がつかないぞ。」
遥は仕方なくストローに口をつけた。一気に吸い上げようとしたけれど、途中でどうしても飲み込めなくなった。
「やっぱり、苦手。残りは叶太が飲んでよ。」
少し笑った遥は、隣りに座る小学生の時と同じ目をしていた。
「なんにも変わらないな、おまえ。」
叶太は遥に残りを渡した。
「頑張ってちゃんと飲めよ。」
「無理だって。」
「わー!すごい雨。」
澄子が帰ってきた。
「あなた達、ちょうどいい時に試合が終わって良かったね。」
「そんなに?」
叶太は窓の方に歩いていった。
「さっき、大雨警報が出たみたいよ。遥ちゃん、今日はシチューにするから。」
澄子は遥の前に置かれた牛乳パックを見た。
「あら、それ飲んじゃたの?」
「あっ、ごめんなさい。」
「だってそれ、俺が買ってきたやつだろう。」
「冷蔵庫に入ってたから、買ってこなかったのに、もう一回行って牛乳買ってくるわ。」
「それならカレーにすればいいだろう?」
「だって、一昨日もカレーだったじゃない。」
「俺は別に続いてもいいけど。」
「じゃあ、カレーにしようか。」
遥と叶太のユニフォームが、並んで除湿機の風に吹かれている。
澄子は遥を脱衣場に呼んだ。
「遥ちゃん、お風呂入っておいで。後ろのホックとるからね。」
「すみません。」
「困ったわね、右手なら。」
「なんとかなります。」
「これ、ホックのない下着だから、遥ちゃんに買ってきたの。お父さんなら、そんな事わからないでしょうから。」
「澄子さん、ありがとうございます。」
「ねえ、新しい学校は楽しい?」
「楽しいです。」
「遥ちゃんも、叶太も大人に振り回されて…、たくさん傷ついてるよね。」
「どんな事情があっても、澄子さんにも叶太にも会えたから、結局、良かったんです。」
「遥ちゃん、叶太の事、好きなんでしょう?叶太もきっと好きなんだろうって。」
「ずっと隣りの席だったし、背も同じくらいで、一緒に並ぶ事が多かったですからね。」
「この前ね、小百合ちゃんが家に来て、それから叶太がちょっとずつ、前みたいに話さなくなってね…。」
「いろいろ考えてるんだと思いますよ、小百合と何を話そうか。」
「そっか。遥ちゃん、お風呂入っておいで。頑張って背中は自分で洗える?」
「大丈夫です。」
叶太の部屋に澄子は布団を敷いた。
「叶太は布団よ。遥ちゃんはベッドの方が起き上がりやすいから。じゃあ、おやすみ。2人で変な気、起こさないでよ。」
「母さん、変な事言うなよ、本当に。」
澄子が部屋を出ていくと、叶太がベッドに座った。
「遥、携帯教えろよ。」
「そうだね。」
遥は携帯を叶太に渡した。
「右手を使えないから、叶太に任せる。」
「ずいぶん、着信あるみたいだな。」
相手が哲からだという事が遥にはわかっていた。
「いいの、別に。」
「彼氏なんだろう?」
「…。」
布団に座っている遥は、叶大の膝に左手を置いた。
「叶太が悪いんだよ。あんな手紙くれるから。」
遥は叶太をまっすぐに見た。
「やっぱり、迷惑だったか?」
「ごめんとか言って謝らないでよ。かえって辛くなるから。本当は転校する前に、叶太と話しをしておけばよかった。」
叶太はベッドから降りると、遥を布団に押し倒した。
「痛っ、」
「ごめん。大丈夫か?」
叶太は遥の右の肩をそっと撫でた。
「大丈夫。」
遥はそう言って少し笑うと、そのまま体を横に向けて丸くなった。
「私がここで寝るよ。ちゃんと1人で起き上がれるから。」
遥はそう言って目を閉じた。
「おやすみ、叶太。今言った事、全部忘れてね。」
叶太、私達はどうして、意地を張ったのかな?
県大会の日。
トーナメント表を見て、男子のシングルスの選手の中に、叶太の名前を見つけた。
叶太、ずいぶん強くなったんだね。
揃いのチームジャージが行き交うギャラリーで、叶太が顧問の笠井と2人だけで、席に座っていた。
「渋谷、元気だったか?」
バドミントン部の顧問で担任だった笠井が、挨拶にきた遥に声を掛ける。
「先生、お久しぶりです。」
「新しい高校でバドミントン続けられて良かったな。」
「はい。」
遥は叶太をチラッと見た。
「うちは、叶太がずいぶん頑張ってくれて、今年は県大会までやってこれたんだ。他のみんなも、メキメキ力をつけてるし、この学年には期待してるんだよ。」
笠井が、叶太の肩を掴んだ。
「会いたいです、みんなに。」
遥は笠井そう言った。
母の浮気さえなげれば、自分はずっと叶太の隣りにいたはずなのに。
ここに座っている叶太の隣りに、自分もあたり前のように並んでいられた。
「渋谷、先生が集まってだって。」
渉が遥を呼びにきた。遥が渉と歩いていったその先には、同じジャージをきた数人が、楽しそうに集まって話しをしている。背中に書かれた揃いの文字に、叶太は少し嫉妬した。
遥。
あの日、手紙を見て笑ってくれたら、ずっと胸に溜めていた気持ちを伝えようとしてたのに。なんで勝手に行ってしまったんだよ。
小学2年の夏。
両親が離婚して、母親と一緒この町にやってきた時、貸してくれた遥の教科書に、たくさん落書きをしたよな。
遥も叶太も順調に勝ち進んだ。
叶太の3回戦は、遥を呼びに来た渉との試合だった。
試合が始まり、叶太はギャラリーから自分を見ている遥に気がついた。
急に力んでシャトルを見失うと、叶太を笑うように、シャトルは足元にポトリと落ちた。
遥の右手が固く握っているのがわかる。
バカかよ、遥。
試合は3セット目までもつれ、結果は叶太が勝利した。
叶太は遥が次の試合の準備をしているコートの後ろを通ると、遥に小さく右手を上げた。
遥と華英の試合が始まった。
遥がサーブを打とうと構えると、ギャラリーに叶太の姿が見えた。
遥のサーブが、ネットに引っ掛かる。
「遥、何焦ってんの?」
華英がそう言った。
叶太が見ていると思うと、次もシャトルを見失った。
1セット目が終わった所で、華英が声を掛ける。
「遥、もう少し集中してよ。」
「ごめん。」
「どうしたの、コンタクト、落とした?」
「ううん。次はちゃんと見失わないから。」
その後も気持ちがソワソワして、小さなミスが続いた。華英が遥に声を掛け、何度も助けられる。なんとか勝つ事はできたが、次の試合を前に、渉は遥にこう言った。
「渋谷、今日はひどいな。水川に負担掛け過ぎだろ。あとで哲がくるって言ってんだ。それまでなんもしても勝ち続けろよ。」
華英は遥に、
「さっき話してた人って、前の学校の人?」
そう聞いてきた。
「そう。」
「気持ちが入らないのは、そのせい?」
「違うよ。ごめんね、華英。次はちゃんと動くから。」
準々決勝で、叶太は敗退した。
斜め後ろのコートで試合をしていた遥は、荷物を持ってコートを後にする叶太に気がついた。
叶大の事が気になっていると、相手の打ったシャトルが、遥の右目を直撃して、遥は転んだ。
右の手首から、鈍い音が聞こえた。
少しでも動かそうとすると、体中が稲妻が走る。
「大丈夫?」
起き上がれらない遥に、華英が声を掛ける。
「あと3点。華英、なんとか頑張るから。」
遥は華英の手を借りてなんとか立ち上がり、左手でラケットを握った。
試合は勝ったが、結局、次の試合は棄権となった。
「ごめん。華英。」
「そんな事より、早く病院に行こうよ。」
華英が遥の腫れてきた右腕を心配した。
「渋谷、家族に連絡して、すぐにここにくるように言いなさい。」
顧問の先生がそう言うと、遥はカバンの中から携帯を出そうとしたが、使い慣れない左手では、ファスナーさえ開けることができない。
「渋谷。」
笠井が心配そうに遥の元にきた。
「遥。」
「遥ちゃん。」
叶太と叶太の母もいる。
笠井が遥の右手に触った。
「折れてるぞ、これ。」
「遥ちゃん、このまま病院に送って行くよ。渋谷くんには、私から連絡しておくから。」
遥の母がそう言った。
笠井と叶太の母が、監督に事情を話している。
叶太は遥のカバンを持つと、
「行くぞ。」
遥にそう言った。
「華英、ごめん。先に帰るから。」
「わかってる。早く病院に行きな。」
華英は心配に遥を見ている叶太と、少し目があった。
「渋谷、気を付けてな。」
監督がそう言って、遥を見送った。
遥はみんなに頭を下げると、叶太の後をついて行く。
「叶太、頼んだぞ。俺は一旦、学校に戻るから。」
笠井はそう言うと、叶太の母に頭を下げた。
右手を使えない遥が、靴を履くのに手間取っていると、叶太が手を貸してくれた。
「ありがとう。」
「遥にお礼なんて言われたの、初めてだな。」
「そんな事ないよ、いつもちゃんと言ってるよ。」
「痛むのか?」
「何も感覚がないの。」
哲が玄関に入って来るのが見える。遥を見ると、
「試合、終わったの?」
そう聞いた。
「終わったよ。」
遥が押さえている右手を見て、
「大丈夫?」
そう言って遥の顔を見た。
「これから、病院に行くところ。」
遥は叶太の隣りに並んだ。
遥の肩が、隣りに男の肩に吸い込まれて行くようだ。
「遥!後で連絡くれよ。」
「うん。」
遥は振り向くと、哲に向って静かに微笑んだ。
叶太の母の運転する車で、救急病院へ向かった。叶太の母が連絡を取ってくれた父も、病院に駆けつける事になった。
「澄子《すみこ》さん、すみません。」
遥は叶太の母にそう言った。
「澄子さんなんて呼ぶの、遥ちゃんくらいよ。」
叶太の母と父は高校の同級生だったらしく、叶太の母の事を、父は澄子さん、叶太の母は、父の事を、渋谷くん、と呼んでいた。幼かった遥は、父が呼ぶように叶太の母を、澄子さんと呼んでいた。
病院に着くと、すぐにレントゲンを取った。腫れて熱を持つ遥の右手をレントゲン技師が台に乗せると、痛っ!遥は思わず声が出た。
ギプスを巻き終え、遥が処置室から出てくると、父が待合にいるのが見えた。
「お父さん。」
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「少し。」
「遥、お父さん、明日から出張でな。少しの間、お母さんの所、行くか?」
父がそう言うと
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澄子はそう言った。
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叶太は遥の顔を見た。
「澄子さん、そう言うわけには行かないよ。」
「うちはいいのよ。遥ちゃんだって、お母さんの所なんか行きにくいと思うし。出張はいつまで?」
「明々後日。」
「それなら、どうせ土日になるんだし、帰ってきたらこっちに遥ちゃんを迎えにくればいいでしょう。」
「そうだな。澄子さんの言葉に甘えるよ。」
叶太の家に着いた。
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「叶太、ゼッケン取ってくれる?」
遥は少しでも叶太に近づきたかった。
ジャージを脱ぎ、叶太に背中を向けた。
「わかったよ。」
叶太は遥の束ねた髪を肩に掛けた。本当は思いっきり遥の背中に触れたかったけれど、ユニフォームとゼッケンを止めている安全ピンをそっと外して、背中越しに、外したゼッケンを遥に渡した。
遥の背中が少し震えているのがわかる。
「ほら、」
「ありがとう。」
「遥。」
「何?」
叶太は遥を後ろから抱きしめた。
「俺、遥の顔、まっすぐに見れないよ。」
叶太は遥の髪に顔を埋める。
「どうして?」
「小百合と付き合っているから。」
「そうだったんだ…。」
「子供の時みたいに、なんにも考えずにいられたら良かった。好きだって言葉が、誰かを傷つける事だってあるんだよ。」
遥の溢れた涙が、自分の体を抱きしめている叶太の手に落ちた。
「黙って出ていったのは私だもん。もう会うつもりなんてなかったのに、また会えて嬉しくて、やっぱり好きだったなんて、都合のいい話しだよね。」
遥は精一杯、強がった。
「やっぱり、遥の事、」
叶太は遥の顔に近づいた。
「叶太。私もね、さっき玄関で会った人と、付き合ってるの。」
遥は叶太を遠ざけた。
「バカだな、俺達。」
叶太はうつむいた遥のギプスを触った。
「痛むのか?」
「きっとね。」
「なんだよ、それ。」
「こんな痛みよりも、心の中はもっと痛くて苦しいから。」
泣き続ける遥を、叶太はソファに座らせた。
「手、すごく腫れてるぞ。指まで色が変わってる。」
「何日か腫れるって、先生が言ってた。」
「なんか飲むか?」
「カバンの中に、飲み掛けた水が入っているはず。本当はもうひとつくらい、試合ができると思ったのに。」
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「そうでしょう。」
「すぐに友達ができてよかったな。」
「叶太も転校してきた時、緊張してた?」
「こんな田舎になんで俺だけって、ずっと思ってた。」
「そっか。だけど誰かのせいにしたって、最初からそうなるように、決まってたんだよね。」
「遥、あのさ。」
「叶太、ここに私が来たこと、誰にも言わないで。小百合が知ったらきっと嫌な気持ちになると思うから。」
「言わないよ。」
叶太は遥のドリンクボトルをカバンから出すと、それを台所へ置き、遥にはパックの牛乳を持ってきた。
「ほら、ストローさしてきてやったぞ。」
「えっ?」
「時々懐かしくて買ってくるんだ。遥、牛乳嫌いで、俺によくくれたよな。」
「そうだった。今も大嫌い。」
「飲めよ、このままなら骨がつかないぞ。」
遥は仕方なくストローに口をつけた。一気に吸い上げようとしたけれど、途中でどうしても飲み込めなくなった。
「やっぱり、苦手。残りは叶太が飲んでよ。」
少し笑った遥は、隣りに座る小学生の時と同じ目をしていた。
「なんにも変わらないな、おまえ。」
叶太は遥に残りを渡した。
「頑張ってちゃんと飲めよ。」
「無理だって。」
「わー!すごい雨。」
澄子が帰ってきた。
「あなた達、ちょうどいい時に試合が終わって良かったね。」
「そんなに?」
叶太は窓の方に歩いていった。
「さっき、大雨警報が出たみたいよ。遥ちゃん、今日はシチューにするから。」
澄子は遥の前に置かれた牛乳パックを見た。
「あら、それ飲んじゃたの?」
「あっ、ごめんなさい。」
「だってそれ、俺が買ってきたやつだろう。」
「冷蔵庫に入ってたから、買ってこなかったのに、もう一回行って牛乳買ってくるわ。」
「それならカレーにすればいいだろう?」
「だって、一昨日もカレーだったじゃない。」
「俺は別に続いてもいいけど。」
「じゃあ、カレーにしようか。」
遥と叶太のユニフォームが、並んで除湿機の風に吹かれている。
澄子は遥を脱衣場に呼んだ。
「遥ちゃん、お風呂入っておいで。後ろのホックとるからね。」
「すみません。」
「困ったわね、右手なら。」
「なんとかなります。」
「これ、ホックのない下着だから、遥ちゃんに買ってきたの。お父さんなら、そんな事わからないでしょうから。」
「澄子さん、ありがとうございます。」
「ねえ、新しい学校は楽しい?」
「楽しいです。」
「遥ちゃんも、叶太も大人に振り回されて…、たくさん傷ついてるよね。」
「どんな事情があっても、澄子さんにも叶太にも会えたから、結局、良かったんです。」
「遥ちゃん、叶太の事、好きなんでしょう?叶太もきっと好きなんだろうって。」
「ずっと隣りの席だったし、背も同じくらいで、一緒に並ぶ事が多かったですからね。」
「この前ね、小百合ちゃんが家に来て、それから叶太がちょっとずつ、前みたいに話さなくなってね…。」
「いろいろ考えてるんだと思いますよ、小百合と何を話そうか。」
「そっか。遥ちゃん、お風呂入っておいで。頑張って背中は自分で洗える?」
「大丈夫です。」
叶太の部屋に澄子は布団を敷いた。
「叶太は布団よ。遥ちゃんはベッドの方が起き上がりやすいから。じゃあ、おやすみ。2人で変な気、起こさないでよ。」
「母さん、変な事言うなよ、本当に。」
澄子が部屋を出ていくと、叶太がベッドに座った。
「遥、携帯教えろよ。」
「そうだね。」
遥は携帯を叶太に渡した。
「右手を使えないから、叶太に任せる。」
「ずいぶん、着信あるみたいだな。」
相手が哲からだという事が遥にはわかっていた。
「いいの、別に。」
「彼氏なんだろう?」
「…。」
布団に座っている遥は、叶大の膝に左手を置いた。
「叶太が悪いんだよ。あんな手紙くれるから。」
遥は叶太をまっすぐに見た。
「やっぱり、迷惑だったか?」
「ごめんとか言って謝らないでよ。かえって辛くなるから。本当は転校する前に、叶太と話しをしておけばよかった。」
叶太はベッドから降りると、遥を布団に押し倒した。
「痛っ、」
「ごめん。大丈夫か?」
叶太は遥の右の肩をそっと撫でた。
「大丈夫。」
遥はそう言って少し笑うと、そのまま体を横に向けて丸くなった。
「私がここで寝るよ。ちゃんと1人で起き上がれるから。」
遥はそう言って目を閉じた。
「おやすみ、叶太。今言った事、全部忘れてね。」
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大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
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