想愛

小谷野 天

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12章

南風

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 1人で診察室に入ってきた紗和。
「今日は1人?」
「1人で来ました。」
「どう、少し眠れるようになった?」
「だいぶ。」
「ご飯は食べている?」
「食べてます。」
「時々、嫌な気分になる事は減った?」
「まだ少しありますけど、減りました。」
「紗和ちゃん、もう少し、休もうか。薬も出すから。」
「先生、もう薬はいりません。苦いし、薬を飲まなくても自分で治せます。」
「お休みは?」
「来週から少しずつ、仕事に行きたいです。」
「無理してもいい事ないよ。」
「大丈夫です。」

 紗和は病院からまっすぐ帰らず、少し前まで紗和の住んでいたアパートに寄った。アパートは、父の良樹がすでに引き払っていた。
 別の誰かの引っ越しのトラックが、部屋の前に停まっている。
 紗和は中から人が出てくると振り返り、今来た道を走って戻った。
 近くの公園のベンチに座り、会社に電話をした。人事担当と話しをした後、前の課長が電話を代わった。
「夏川さん、さっき来週から来れるって聞いたけど。」
「はい。また、お世話になります。」
「大丈夫かい?」
「大丈夫です。私の仕事、ありますか?」
「秘書課はね、もうないんだよ。」
「そうですか。」
「うちの課で、また働く事になったから。」
「ありがとうございます。」
「魚は元気にしてるかい?」
「元気です。育てるの、ちょっと難しいけど。」
「そっか。ちゃんと餌やってから会社に来るんだよ。」
「わかりました。」

 健一が紗和を迎えにきた。
「病院に行ったら、もう帰ったって言うから、探したよ。」
「ごめん。仕事の途中なのに抜けてきたんだね。」
「帰ろう。」
「うん。」
「本当に仕事に行けるのか?」
「うん。」
「職場が近いから、毎日送って行くからね。」
「本当に?」
「紗和。明日、買い物に行こうか。」
「うん。何を買うの?」
「お弁当箱。」
「どこか行くの?」
「会社に持って行くのが必要だろう。」
「健一が?」
「紗和も。」
「私は食堂があるから……。そっか、やっぱり、お弁当にする。」
「俺の分も作ってよ。」
「起きられるかな?」
「寝坊したら、買っていけばいいんだし。」
「そうだね。」
「紗和。今日はどこか食べに行こうか。」
「ううん。うちにいる。明日、出掛けるんだし。」

 晩ごはんを食べた後、紗和はパソコンを開いていた。
 久しぶりに画面の文字を追うと、少し目が霞んだ。
 しばらく、コンタクトもいれていない目は、ぼんやりした日常にすっかり慣れている。
 メガネを掛けると、文字がスッキリして見えた。
 お風呂から上がってきた健一が、紗和の隣に座る。
「メガネ、久しぶりだね。」
「健一の顔もよく見える。」
 紗和はそう言って笑った。
「薬は昨日でなくなったんだろう。」
「うん。」
「今日は眠れそう?」
「わからない。」
「お風呂、入っておいで。」
「そうだね。」

 お風呂から上がってきた紗和が冷凍庫から水を出して飲んでいる。
「直美がね、一緒に美容室に行こうだって。」
「直美ちゃんが?」
「ああ見えて、初めての場所は苦手なんだよ。」
「いつ?」
「明日。買い物はその後でいいから、行っておいで。」
「うん。」
 健一は紗和の手を握った。
「悪い夢はもう見ないといいね。」
「最近は、朝になると忘れているから。」
「もう、寝ようか。」
 ベッドに横になると、健一は紗和をいつものように優しく包んだ。
「健一、ごめんなさい。落ち着いたら、ちゃんと住む場所を探すから。」
「どうして?」
「ずっと甘えていられないよ。」
「紗和。ずいぶん元気になったんだな。その強がりが戻ってきたら、もう大丈夫だ。」
「勝手な解釈だね。」
「なんとでも言えよ。」  
 健一は紗和の手を握った。紗和の体の上になると、
「平気か?」
 そう言った。
「うん。」
 健一は紗和に近づくと、何度もキスをした。紗和が傷つかないように、少しずつ紗和の体に触れた。
 
 腕の中で眠る紗和の頬を触ると、
「もう、寝ようよ。」
 紗和がそう言った。
「起きてるなら、目、開けてよ。」
 健一は言った。
「やだよ。眠いもん。」
 紗和は背中を向けた。
「ちょっと、俺を置き去りにするなよ。」
 健一は紗和を背中から抱きしめた。
「苦しいよ、健一。」
「ごめん。」 
 健一が手を離すと
「おやすみ。」
 紗和はそう言った。
 健一が眠ろうと目を閉じると、紗和が健一の体に自分の体をピッタリとくっつけた。
「最初から、そうすれば良かっただろう。」
「明日から、そうするから。」
 健一は紗和にもう一度、キスをした。
「変な夢を見たら、ちゃんと起こせよ。」
「うん。」

 紗和が会社へ行くと同時に、健一もリモートから会社へ出社して仕事をする事にしていた。
 ずっと一緒いた時間は、慌ただしい朝の支度で、実は夢を見ていたかの様に感じた。
 
「健一、お弁当。」
「作ってくれたんだ。」

 会社の前では航大が待っていた。
「久しぶりだな。」
「そうだね。」
「ちゃんと化粧してきたのか?」
「仕事と化粧って何か関係あるの?」
「冷めてるなぁ、相変わらず。」
「紗和!」
 真衣が待っていた。
「ここだよ。紗和の席。しばらく湊が隣りに座ってくれるから。」
「橋田くん、別の部所じゃなかった?」
「ここになったの。私、知らなかったけど、湊のおじいちゃんって、ここの会長だったんだって。紗和が入れてくれたお茶が美味しかったから、ずっと休んでるって聞いて気にしてたみたいだよ。またここで働けるようにしてくれたのも、湊のおじいちゃん。時々、くるよ。ここに。」
 真衣の話しを聞いて、紗和の顔が強張った。
「大丈夫だよ。湊のおじいちゃんは本当に知らなかったんだ。怒って秘書課を解散させたくらいだから。」
 航大が言った。
「ああ、あの幹部達なら、出向して、もうここにはいないよ。社長と湊のおじいちゃんで、みんな後始末したから。」
「夏川さん!」
 湊がやってきた。
「早く座って。課長から、仕事頼まれてるから。」
「これ、夏川さんの分。橋田と手分けして、入力して。」
「これ、全部?」
 紗和はそう言うと、課長が隣りで立っていた。
「課長、また働けて嬉しいです。」
「なんだよ、文句言うのかと思ったら。夕方まで、やってしまえよ。明日の会議で使うから。」
「鬼だね。」
「冴木、聞こえてるぞ。」
「夏川さん、入力するところはね、ここ。」 
 湊が紗和のパソコンの画面を指差した。
「湊」
「ん?」
「お前、本当にすごいな。」
「何が?」
「その平常心を分けてほしいわ。」
 航大はそう言った。

 お昼休み。
 紗和がお弁当を食べていると、会長が来た。
 見覚えのあるその顔は、会社で一度だけお茶を入れた事があった。
 
「お昼だったかな。」
「すみません。」
 紗和はお弁当を閉まった。
「いやいや、こっちこそ、時間を考えないで悪かった。」
「お茶、入れますね。」
「頼むよ。」
 紗和がお茶を出すと、会長は一口飲んで頷いた。
「自分が入れたお茶の味って、想像できるかい?」
「……。」
「君は相手がどんな顔をするか想像して、お茶を入れたんだろう。俺は思ってた顔をしたかい?」
「思っていた通りの顔をされました。」
「会社は君にずいぶんひどい事をしたね。」
「いえ、また働かせてもらえて、嬉しいです。」
「湊から君の話しをよく聞くよ。難しい魚を飼ってるんだってね。」
「会長、それは。」
「今度、見せてくれ。お詫びにどんな餌でも手に入れてあげるから。」
 会長はお茶を飲んだ。
「あの掃除の奥さんとは、知り合いか?」
「はい。先日畑に行きました。」
「あれは俺の同級生だ。何回も振られて、こうして再会しても、冷たい態度だ。どうして、あんなに冷たい女から、キレイな野菜ができるのか不思議だよ。」
 会社は残りのお茶を飲むと、また来ると言って席を立った。
 お弁当の残りを食べていると、航大がやってきた。
「健一にも作ってるのか?」
「そう。」
「たまには、食堂のカレーも食べなよ。」
「藤原くん、おすすめしないって言ったでしょう?」
「会長が好きなんだって、甘いカレー。ここの食堂は一生あの味だよ。」
「藤原くん、かき氷で何が好き?」
「俺はメロンかな。紗和は?」
「かき氷のシロップって同じ味なんだよ。色でメロンになったり、イチゴになったり、錯覚するの。」
「なんだよ、それ。ずっと騙されてたのか。」

 仕事を終えて帰ろうと玄関に向かう。
 健一が迎えにきた。
「お疲れ様。」
「健一も、疲れたでしょう。」
「なんか食べて帰る?」
「ううん。家に帰る。」
「紗和、あんまり外食したがらないよね。」
「待ってる時間がね、苦手なの。」
「せっかちだもんね。」
「健一もそう。」
「急に暑くなったな。」
「本当。それに、この頃あんまり明るいから、夜にならないのかもって思ってしまう。」
「今度、映画見に行かない?」
「せっかくのお昼に、暗いところに行くの?」
「そっか。紗和、また寝ちゃうかもしれないか。」
「私、寝たことなんてないよ。」
「嘘つけ。いつもウトウトして、寄り掛かってくるだろう。」
「2時間、全部見る必要なんてないの。本当に大事なところだけ見たら、それで大丈夫だから。」
「都合の良い言い訳だな。一つ一つ、どこを切り取ってもいいように作ってるから、ちゃんと全部見なきゃダメだよ。」
「じゃあ、健一が一人で見たら?」
「2人で見たいって言ってるだろう。」
「なんで?」
「一緒に笑ったり、泣いたりしたいだろう。」
「健一は、ずっと泣いてるくせに。」
「よく言えるね、そういう事。自分だって、どれだけ泣いたんだよ。」
 2人は笑った。
「ねえ、夕焼け、真っ赤だよ。」
 家に着いた2人は、車を降りて空を見ていた。
「明日また、あの色で昇ってくるのかなぁ。」
 紗和が言った。
「明日はぼんやりした色で昇ってくるだろう。」
「そっか。」

 あの日、蜘蛛の巣に引っ掛かって力尽きた蝶は、どんな花に止まって、ここまできたんだろう。
 自由に空を飛ぶ事の出来ない蜘蛛は、いつ来るかわからない獲物をただ黙って待っているだけ。
 孤独に生きているもの同士が、最後に出会ったの蜘蛛の糸の上。
 一度甘い蜜の味を知った蝶は、最後にどんなに花を思い浮かべているのだろう。
 蝶を見つめている蜘蛛は、どんな味を思い浮かべて最後を待っているのだろう。
  
 一人で飛んでいた私を、導いてくれた少し強い風は、大きな太陽が出ると、少し恥ずかしいそうに、姿を隠くした。
 風は、雲の流れに乗ってやって来ると、みんなの肩を通り抜け、心地よい気持ちにさせる。
 だから、風が吹くまで、もう少し、この花の上で休んでいよう。
 
「健一。」
「何?」
「どんな映画を見ようとしてたの?」
「後で一緒に選ぼうよ。」
「そうだね。」

 終。
 
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