想愛

小谷野 天

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7章

北風

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 電話を切った後、健一が横になっているベッドには入らず、ベッドの下の床に座っていた。
 心は罪悪感でいっぱいだった。
 出ていった母の背中を思い出し、紗和は苦しくなった。
 父を不幸にした母を、許せなかった。自分がしている事は、母と同じように、誰からも許してもらえるような事じゃないんだ。

 健一の顔をまっすぐに見ることができない。

 思い出のゴミも、誰かに寄り添いたい気持ちもみんな捨ててきたはずなのに。
仕事も辞めて、住む場所も変えて、それなのに、健一への思いは、何一つ消えていなかった。
 汚い私は、航大が優しい言葉を掛けてくれると、それに甘えた。
 心がモヤモヤして、息を吸っても吸っても、苦しくなる。
 紗和は、胸に拳を押し付けた。
 
「どうした?」
「ごめん。私、もう少し起きてるから、先に寝てて。」
 紗和はカバンからパソコンを取り出した。
「仕事するのか?」
「今日ね、パソコンが壊れて、これは代替え品なの。中身、整理しようと思って。」
「今、やらないとダメか?」
「うん。今やらないと、ずっとやらないから。」
 健一は紗和の隣りに座った。
「寝ててよ。昨日は倒れたっていうし、今日も駅でずっと待ってたでしょう。体、休めないと。」
「いいよ。終わるまで待ってる。」
 健一は紗和の机に置いてある本を手にとって読み始める。
 
 私が残業している時、いつもそうやって隣りで待っていてくれたよね。
 
 健一は眠くなったのか、紗和の隣りでウトウトしている。
「もう、横になったら?」
「じゃあ、一緒にきてよ。」
「ううん。先に寝てて。」
 健一は紗和の手を引っ張る。
「さっきの電話、」
「……。」
「航大からだったの?」
「健一の同級生だっけ。」
「そうだよ。」
「……。」
「航大、彼女ができたって、もしかして、紗和の事かなって思ったんだ。」
「……。」
「俺とは別れていたんだし。」
 紗和は首を振った。
「紗和?」
「健一、もう眠ってよ。」
 紗和は健一を遠ざけた。
「眠れるわけ、ないだろう。」
 健一はそう言うと、紗和をベッドまで持ち上げた。
「紗和、もう寝よう。」
 紗和を包んだ健一は、目を閉じた。
 こんなに近くにいるのに、どうして素直に、好きだという言葉が言えないんだろう。

 眠りについた健一に布団を掛けると、紗和は床に寝そべり、いつの間にか眠ってしまった。  
 
 朝起きると、積もった雪の上に、さらに雪が降っていた。風が出てきたので、辺りは真っ白になり、何もかも見えない光景が窓に広がった。
「風邪、引かなかったか?」
 健一が言った。
「大丈夫。ご飯にするね。」
「待ってる。」
 キッチンにいた紗和は、背中越しに健一に話し掛ける。
「健一、何時に帰るの?」
「この雪の中、俺を帰らせるつもりか?」
「だって仕事は?」
「今日は土曜日だし、休み。」
「仕事、溜まってないの?」
「たくさん、溜まってる。」
「じゃあ、帰ってやらなきゃ。」
「昨日も今日もこっちへ泊まるつもりだったし。」
 健一は紗和の隣りでにっこりと笑った。
 やっとまっすぐに見た、健一の顔。
「そんな顔しないでよ。」
 紗和は、目を逸らして、トマトを切った。
「じゃあ、どんなに顔すればいいんだよ。」
「いいから、あっちに座っててよ。」
「俺、トマト嫌い。」
「そうだった?」  
 健一はさっきと同じように、ニコニコ笑っている。
「小さいのは食べれるけど、大きいのは嫌いなんだ」
「ケチャップは大丈夫なのに?」
 紗和の携帯がなった。
「なってるよ。」
「いいの。」
 
 朝ご飯を食べ終えて、食器を洗っていた。少し経てば、お昼ご飯の時間がきて、少し経てば夜ご飯の時間がくる。
 こんなに長い時間、健一といた事なんてなかった。
 
 父と過ごす休日は、苦痛で仕方なかったけど、時間になると食事が準備され、父が仕事に行く休日も、テーブルの上に食事が置かれていた。不器用な父の生き方が、あの頃の自分は理解できなかった。父はどんな言葉を、持っていたのだろう。 
 いつも適当な時間に、口入れるだけの食事を摂るようになったのは、大学を出て、一人暮らしを始めるようになってからだ。
 最近は、空腹なんて感じた事もない。
 
 紗和は本を読む健一を見た。
「何?」
「こんなに一緒にいた事、あったかな?」
 健一は考えていた。
「ないよね。」
「時間がないって、いつも思ってたけど、こんな風な時間ができると、困るね。」
 紗和がそう言った。
「そんな事ないよ。このままずっと一緒にいたいと思ってる。」 
 健一は紗和を見て微笑んだ。
「健一、その本を面白い?」
「あんまり頭に入ってこない。」
 食器をしまい終えると、行き場のない心がウロウロしている。 
「今日は仕事、しないんだろう?」
「う~ん。」
「座ったら?」
 健一は立ち上がり、紗和を自分の隣りに座らせた。
「さっきから言いたいことがあるんだろう?」
 健一は紗和を見ている。
「何を?」
 紗和は少し笑ってごまかした。
「航大の事、ちゃんと話して。」
「健一、なんでそんなに優しくできるの?」
「優しくなんかできないよ。俺、すごく腹が立ってる。」
 紗和は下を向いた。
「嫌われるのが怖いんだろう?航大、いいやつだから。」
 紗和は健一を見た。
「航大とは高校の時に同じサッカー部でさ。あいつは入ってきた時からすごく上手くてさ。一目置かれる存在だったんだよ。それが、1年の秋に怪我をして、思うようにサッカーが出来なくなったんだ。そのうち後輩が入ってくると、すっかり気持ちがついてこなくなって、それでも3年間一緒にサッカーをやってきて、俺は航大とは、いい思い出しか残ってない。」
「藤原くんから、サッカーの話しなんて聞いたことなかった。」
「航大にとっては、嫌な思い出なんだろう。」
「そうなんだ。」
 紗和は肩を触っていた。
「昨日、床に寝てたから、体が痛いんだろう?」
「そんな事ない。」
「意地っ張りだな。本当に。」
 紗和は健一に寄りかかった。
「だから、昨日、一緒に寝ようって言ったのに。」
 健一は紗和を抱き寄せてキスをしようとした。
「健一、ごめんなさい。」
 紗和は俯いて、健一の唇を避けた。
「もう、戻れない。」
「どうして?」
「健一の読んでる本、藤原くんがくれたの。誰も来ない寒い冬の中にいるとね、1番先に名前を呼んでくれた人の胸に飛び込みたくなる。」
 健一の目に、少しずつ涙が溜まってきた。
「ごめん、寄り掛かって。」
 紗和は健一と距離をとった。
「こんなに好きなのに、なんで別れなきゃならないんだよ。」 
 健一は紗和を抱きしめた。
「これで、いい思い出のまま、閉じ込める事ができる。」
「軽く言うな。忘れる事なんてできないよ。」

 紗和の携帯がなる。
 健一が紗和の手を掴んだ。
「ダメだよ。」
 紗和が携帯を手に取る。
 携帯には、航大から何度も着信があった。


「もしもし。」
「紗和、今日は何時に会える?」
「会えないよ。」 
「雪なら、もうすぐ晴れると思うよ。」
「藤原くん、今ね、前の彼氏が来てたの。いろいろ誤解があって別れたけど、」
「また、元に戻りたいって、そんな事言うの?」
「違う。」
「勝手だよ。俺は、許さないから。」
「許さなくてもいいよ。」
「明日は会える?」
「ごめん。」
「どうしたの?」
「もう、2人で会うのはやめよう。」
「やっぱり健一の所へ戻るのか……。」
「戻らない。」
「じゃあ、なんで会えないの?」
「藤原くんは、健一とは、知り合いだったんでしょう?」
「そうだよ。だけど、それは紗和を好きになった事とは関係ない。」
「そっか。私ね、好きとか嫌いとか、そういう面倒くさい事が元々苦手なの。1人で生きていく方が、うんと気が楽。せっかく新しい職場へ来たのに、そういう事で振り回されるのって、なんだかとってもバカにみたい。」
「なんだよ、それ。」
「藤原くん、ごめんね。大嫌いになってもいいから。」

 航大は、紗和の言葉に驚いた。
 自分が紗和にした事は、ただ追い詰めてしまっただけの事だったのか。
 そんな答えを出すなんて、思ってもみなかった。
 黙って、どちらかに寄り掛かればってしまえはいいだろう。
 そこに健一がいるんだよな。
 それに、俺の方が、いつも紗和の近くにいてやれるのに。
 わざわざ、嫌われるような事を言って、1人になりますなんて、なんて女なんだよ。

「月曜日、橋田くんやみんなにちゃんとお礼をするから。じゃあね。」

 航大は電話を切った後、無理に笑っている紗和の顔が浮かんだ。
 俺は健一の落ち込む顔が見たかっただけで、紗和を傷つけようとなんて思ってなかった。
 一体どういうつもりだよ。
 飾り気がなく、ひたすら仕事に打ち込んでいる紗和は、大きな声で笑う事もなければ、誰かを頼る事もない。
 紗和のパソコンに俺がコーヒーをこぼした時、普通の女なら泣言を言って誰かに頼るのに、紗和は淡々と仕事をしていた。
 健一は、どうしてこんなつまらない女を選んだのだろう。お前なら、たくさんいい女だって集まってくるだろうに。
 結局、俺は2人を引き離して、紗和を1人にしただけなんだな。
 最初からこんな女の事なんてどうでも良かったのに、強がっている紗和の事を、なんでだろう。今すぐに抱きしめたいと思えてくるんだ。
 健一、お前の前で、紗和は心から笑うのか?
 本心を話す事があったのか?
 俺にも、そうやって笑ってくれよ。
 本当の気持ちを聞かせてくれよ。
 航大は、紗和が包まった毛布を被った。

 航大との電話を少し離れた所で聞いていた健一は、
「どういう事?」
 紗和に聞いた。
「1人になれて、スッとした。」
 紗和は笑った。
「紗和、それは本当の気持ちなのか?」
「そう。煩わしいのは嫌だったし。でも、健一、この雪なら外に行けないから、今日は泊まってもいいよ。ほら、洗濯するから、着替えてよ。」
 紗和はいつの間にか着替えていた。
「納得いかないよ。航大だって、きっとそう思ってる。」
「勝手に思ってればいいでしょう。」
「どこまで、意地っ張りなんだよ。」
 健一は脱いだ服を紗和の顔に投げた。
 紗和が健一のシャツを拾おうとしゃがむと、涙が床に落ちた。
「紗和、ごめん。」
「寒いから、早く服着たほうがいいよ。」
 健一は紗和をベッドへ押し倒した。
 紗和の目から溢れた涙を手で拭くと、静かにキスをした。さっき拭いたばかりなのに、紗和の頬がまた涙で濡れている。
「健一、ごめん。」
「謝るなよ。」
 健一は紗和の服を脱がせた。
「俺はずっと好きでいるからな。」
 健一は紗和を抱きしめた。
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