ルーベンスメモリー

小谷野 天

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第12章

暗闇の中の光り

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 大学時代にバッテリーを組んでいた京吾から、社会人野球の誘いがあった。
 京吾の住んでいる町で、新しい野球チームができるから、一緒にやらないかと、煌に声を掛けてきた。

 4月。
 京吾は教師を辞め、煌も市役所を辞めた。 
 チームの母体となっている会社に勤めてはいるけれど、それだけでは生活できず、煌と大吾は警備員のアルバイトを掛け持ちしていた。

「まったく煮えきらないな、俺達。結局、野球しかする事がないのか。」
 京吾は煌にそう言った。

「また、京吾に受けてもらえて嬉しいよ。」
 キャッチボールをしている京吾の返球が大きく逸れた。

「おい!」 
「煌、見てみろよ。お前の事、また見に来てるぞ。」

 京吾は土手にいる女子高生の事を、煌に目で合図した。 
 
「知らねーよ。いいから、ちゃんと投げてくれよ。」 
 
 練習を終えた2人は、久しぶりに休みが合い、飲みに行こうと話していた。
 他の仲間たちも集まり、結局、監督の行きつけの店でみんなで飲むことになった。
 
「おまえ、市役所辞めて後悔してないのか。むこうで、野球もやってたんだろう。中学生も教えてたって聞いたし。」
「京吾だって、そうだろう。硬い仕事手放してまで、野球を続けるなんて、俺達はバカなんだろうな。」
「なんか大変な事、あったよな。また、塞ぎ込むんじゃないかって、心配したよ。」
「俺が彼女を殺してしまったんだよ。なんでこんな事になっただろうな。」
「やっぱり、思い詰めてるのか。」
「ここにいたら、1日があっという間で、そんな事、考えようかって思ってるうちに朝になるけどな。」
 煌はビールを飲み干した。
「なぁ、京吾は馬に乗った事ってあるか?」
「なんだよ急に。」
「俺、1回だけ乗った事あってさ。彼女がよく乗っていた片目の馬なんだけど、止まらせたり、歩かせたりするだけでも、すごく大変なんだよ。馬って片目だと、暗闇を全速力で走ってるみたいなんだって。そんな馬を、彼女はすんなり走らせていたんだよ。」
「お前はその人の事を、ちゃんと信じているんだろう。」
「ああ。」
「一回、目をつぶって俺に投げてみるか?」
「勇気がいるよ。」 
「俺は、煌の球なら目をつぶってでも受けられると思うぞ。」
「本当かよ。投げてほしい球を要求しても、本当にそれを投げるかは俺が決めるんだぞ。」
「やっぱり、怖いな。」

 秋。

 メキメキと力をつけていったチームに、いくつかのスポンサーがついた。
 煌と京吾は、あい変わらず警備のバイトをしていた。

「今日は福井に帰るのか。」
「ああ。親父の命日だからな。」
「明日には戻ってくるのか?」
「帰りは明後日になる。」
「煌、また見に来てるぞ。」
 煌は土手の方をチラッと見た。
「あの高校生か?」
「ずっと来てるぞ。」
「どうせ、あっちのほうだろう。」
 煌は去年までプロでやっていたショートを指さした。
「いや、お前だよ。」

 父の墓参りを終えた煌は、平井の運転する車で家まで帰ってきた。
「向こうは暑いだろう。」
 平井が言った。
「暑いですね。」
「野球は楽しい?」
 優里が後ろを振り向く。
「うん。」
「少し見ないうちに、たくましくなったね。」
 母がそう言った。
「ここにいた時より、10キロ増えたし。」
「そんなに?」
 母は煌の腕を触った。
「煌が熊本へ行くって言った時は、淋しかったけど、ここにいるのは、辛かっただろうし。」

 平井が車を停めた。

「煌、お花とお水。」
 すっかり更地になった多岐の家があった場所で、4人は手を併せた。
「そう言えばね、この前、あの時の刑事さんが来て、真希ちゃんは、あの火事の日、燃え続ける家に入ろうとして、知り合いの男性が慌ててその場から連れ出したらしいよ。男性の実家の札幌に身を寄せて、精神科に通いながら、気持ちの整理をしてたらしいの。薬をやってたって疑われたのは、病院からもらってた薬のせいだって。」
 母はそう言った。
「もう少し、違う方法だったら、真希ちゃんを救えたかもしれないって、刑事さんは言ってた。人ってどうしても疑う事から入るからね。信じる事より、疑うほうが楽だし。」
「俺が手紙の事をちゃんと話していたら、こんな事にならなかったのに。」
「君はちゃんと彼女を見つけたじゃないか。その後の事を選んだのは、彼女自身なんだよ。全部話して、潔白を証明することだってできたのに、それをしなかったのは、言い出せない辛さや、誰にも言えない理由がいろいろあったんじゃない。周りだって、いつでも彼女を救えたんだし。」
「そうですかね。」
「煌、ラーメン食べていかない?煌の好きな辛いやつ。」
 優里は言った。
「俺、辛いのは好きじゃないって。」
「嘘。よく真っ赤なの食べてたじゃない?」
「優里、あれは味がわからないほど緊張してた時だろう。」
「そうなの、煌?」
「もう、覚えてないよ。」

 熊本に戻ってきた煌と京吾は社長から呼ばれた。
「今度、社会人代表と台湾のチームと試合をする事になって、2人に声が掛かったんだよ。」
 煌と京吾はお互いの肩を掴んだ。
「やったな。」
「橋川は、左で良かったな。今はどこも左がほしいからな。それに金山とのコンビは、阿吽の呼吸だしな。」

「煌、台湾行ったら、何食う?」
「京吾、楽しそうだな。」
「コツコツやってきて良かった。そう言えば、お前の家の変な猫、元気だったか?」
「元気だったよ。家は母さんだけになったから、おやつもらえなくなって、なんかほっそりしてた。」
「あの猫、本当に変な模様だったよな。」
「よく、覚えてるな。」
「なあ。今日も、あの子が土手に見に来てたら、名前くらい聞けよ。」
「なんだよ。そんな事どうでもいいって。それに、高校生なんかと話してたら、犯罪だろう。」
「煌、俺に任しておけって。」

 煌が休憩をとって水を飲んでいた時、京吾がその女子高生を連れてきた。
 チームのみんながその子に注目する。
「北校で野球部のマネージャーをやってたんだって。部活動は引退したけど、野球がすごく好きで、ここでお手伝いをしたいってさ。」
「勉強はいいの、3年生なんでしょう?」
 監督は聞いた。
「はい。あの病院の看護学校に行くことに決まりましたから。」
 彼女はここから見える病院を指さした。
「親御さんは?」
「あそこにいます。」
 会社を指さした。
「社長の娘さんかよ。いつの間にこんなに大きくなったんだ。」
 監督はそういうと、その子の頭を撫でた。

「石山佐和です。よろしくお願いします。」
 佐和は煌の方を見てニッコリ笑った。

 練習が終ったあと、佐和が煌の元にくる。
「橋川さんの事、黒木先生から聞きました。」
「黒木先生って、君もあの先生を知ってるの?」
「知ってますよ。私も手術をしたから。」
「黒木先生が、手術の前の日に橋川さんの事話してくれて、こうして本物が見れると思ってなかった。」
「俺、あの時の記憶って、あんまりないんだよ。それも切り取られたみたいにさ。」
「私も。」
「きっと、みんな、嫌な事から逃げようとするんだね。看護師になろうと思ったのは、病気をしたから?」
「そう。」
「うちの姉ちゃんも看護師してるんだ。」
「そうなの?」
「大変みたいだね。休みでも呼び出しもあるし。」
「そっか。ねえ、橋川さん、今度どうやって投げるのか教えて。」
「ええ!できるの?」
「できないけど、投げてみたくって。」 
「そうだ。京吾!」
「なんだよ。」
「今度、この子の球を受けてほしいんだ。」
「煌が受けろよ。俺、怖くて受けられないわ。」
「そんな事言うなよ。俺が投げ方教えるから、京吾を目がけて投げるんだよ。」
「わかった。」
 佐和がそう言うと、
「お前ら二人でやればいいだろう。俺を巻き込むな。」
 3人は顔を合せて笑った。

 練習が休みの月曜日。
 佐和と煌と京吾はグランドにきていた。
「せっかくの休みなのに、俺、用事あるからすぐに帰るからな。」
 京吾はそう言った。 
「佐和ちゃん、まずは普通に投げてみて。」
 京吾は素手だった。
「京吾、それは失礼だろう。」
「女子高生の球なんか、ミットなんかいらないって。」
 佐和は橋川の真似をして、京吾に向かって投げる。
 はずんだ球は大きく逸れて、京吾はそれを追いかけた。
 煌が教えて投げるたびに、京吾がボールを追いかける。
「おい、俺はもうヘトヘトだって。二人でキャッチボールからやれよ。」
 京吾はボールを煌に渡すと、
「佐和ちゃん、なかなか道は厳しいかもよ。」
 そう言って帰っていった。
 2人になった、煌と佐和は、緩い球でキャッチボールをしていた。
「だいぶ取れる様になったね。もう少し、離れてみようか。」
 煌は佐和との距離を伸ばす。

「疲れた?」
 タオルで汗を拭いていた佐和に、煌は水を渡した。
「疲れました。」
 煌は佐和の手のひらを見る。
「やっぱり、豆ができたね。」
「本当だ。少し痛かったのはこのせいだったんだ。」
「高校は楽しい?」
「うん。私、高校1年の時に手術して、もう死ぬかもって、毎日考えた。だから、どうせ拾ってもらった命だもん、なんでもやってやろうと決めたの。」
 
 煌は多岐の事を思い出していた。
 せっかく見つけた命なのに、自分には救う事ができなかった。

「どうかした?」
 佐和が煌を覗き込む。
 佐和のまっすぐでキラキラした目が、煌の心を映し出す。
「ごめん。ちょっと思い出す事があってさ。」
「彼女の事?」
「違うよ。彼女なんかいないし。」
「じゃあ、昔の失敗の事か。」
 佐和はケラケラと笑った。

「また、教えて、すごく楽しかった。」
 佐和はそう言うと、走って帰っていった。

 土手の草が、ハラハラと風に揺れているのがわかる。

 人ってあんなふうに笑うんだな。
 
 煌は小さくなった佐和の背中を見つめていた。

 何かを失くすと、失くしたもの以上に大きな物を失う。
 少しずつそれを取り返そうとしても、焦れば焦るたびに、大切なものは、また自分から離れていく。

 暗闇を走る勇気なんかない。
 誰だってそうだろう。
 
 だけどもし、自分を呼ぶ声が聞こえたら、少しだけ歩いてみようか。

 秋の冷たい風は、グランドの砂を少し巻き上げた。
 
 多岐、
  片目で見ている景色って、本当に真っ暗なのか。
 見える片方の景色は歪むけど、見えない片方の景色は、本当は澄んでいるんだろう。
 多岐が聞こえていた音ってなんだよ。
 風の音なのか?
 足音なのか?
 誰かの声なのか?
 急にいなくなってしまった本当の理由を教えろよ。 
 次に会えたら、大きな声で名前を呼んでやるから。
 
「橋川さん。」
 佐和が煌の前にいる。
「なんだ、まだ帰らなかったのか?」
「帰る途中に、猫がいたの。ちょっと、一緒にきて。」
「佐和ちゃんが連れて帰ればいいだろう。」
「家のお父さん、猫がアレルギーなの?橋川さん、飼えない?」
「俺はアパートだから、飼えないよ。」
「それなら、京吾さんに頼もうよ。だって実家でしょう?」

 佐和は煌の手を掴んだ。
   



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