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2章
遠い雷
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稲妻が光ってから、10数えても音が聞こえなかったら、雷は遠いと祖母が言っていた。
夜遅くに激しく降り出した雨は、目を貫くのような光りと、地面が揺れるような音を響かせた。
布団に潜って、雷が通り過ぎるのを待っていると、春香が夏希の布団を叩いた。
「夏希、携帯なってるよ。」
布団の中から手だけ伸ばして、春香から携帯を受け取ると、電話の相手は七海だった。
「夏希、寝てた?」
「ううん。布団の中にいた。すごい雷だね。」
「そっちはそんなにひどいの?」
「すごい、雷がすごく近い。この感じなら、きっとどこかに落ちたね。」
「夏希、優芽から聞いたよ。」
「優芽、足の事なんて言ってた?」
「足首にヒビが入ってたって。」
「やっぱり。すごい腫れてたから、ヤバいと思ったんだよね。ヒビならけっこう時間かかるね。」
「そうだね。手術にならなかっただけ良かったって。」
「休みなしで試合したからさ、故障したんだよ。」
「夏希、原田とモメたんだって?」
「そう。ちょっと頭にきてさ。」
「夏希が反抗するの、珍しいね。」
「砂田さん達の事も、すごく腹が立ってね。」
「廣岡くんにも、なんか言ったんだって?」
「そうだよ。私、もう部活やめるから、もうどうでもいい。」
「あと少しなのに。だって県大会も決まったんでしょう?」
「優芽も七海もいないなら、恥をさらしに行くようなもんだよ。」
「夏希は最後に、大きな花火上げたね。」
「もう、止められなくなっちゃってさ。」
「夏希、いつもノートどうもありがとう。」
「これから部活がなくなったら、毎日七海に届けるから。」
「ありがとう。島田先生がね、保健室で勉強しないかった言ってくれてね。行ってみようと思うの。いつからとは、まだ言えないけど。」
「本当に?」
「優芽のお父さん、また校長に文句つけたみたいで、何とか卒業できるように配慮してくれるって。」
「相変わらず熱いね、聡さん。原田のやり方に、相当に頭に来てるんだね。聡さんは少年団の練習でも、すごく厳しいんだよ。挨拶しない子には、練習させないし。」
「本当に?親はそれに対して何にも言わないの?」
「みんな聡さんを信頼してるから。少しでもだらしない態度の子がいるとね、自分だけの力で、ラケットが握っていると思うな!って、そう言うの。礼儀とか感謝とか、すごく大切にしてる。砂田さん達に聞かせてやりたいよ。」
「夏希、私も行ってみたいな。やっぱりバトミントン、やりたいんだよね。」
「いいよ。聡さんに頼んでみるから。七海なら、きっと大歓迎だと思うよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「ねえ、夏希。」
「何?」
「夏希、廣岡くんの事、好きだったでしょう?」
「何言ってんの、好きじゃないよ。大嫌い。」
「そう?」
「そうだよ。あんなプライドの塊みたいな人、超苦手。」
「私の勘違いか。」
「私ね、野球部のキャッチャーやってる、なんて言うんだっけ、あの人がタイプ。」
「あぁ、兼田くん。」
「兼田っていうの、あの人。」
「名前も知らなかったの。」
「だって同じクラスになった事ないし、野球のユニフォームって、後ろに名前書いてないよね、番号だけ。なんて名前かなぁって、ずっと思ってたの。」
「本当にタイプなの?」
「日焼けしてて、肩ががっしりしていて、すごく男らしい。」
「へぇ、意外。夏希はヒョロヒョロが好きだと思ってた。残念、兼田くん、彼女いるよ。2年のマネージャー。」
「うそ~、がっかり。」
その夜、七海と夏希はしばらく話していた。
さっきまで近くでなっていた雷は、いつも間にか数えるのも忘れるくらい、遠くに行ってしまったようだ。
月曜日。
七海は来なかった。
火曜日も七海は来なかった。
水曜日。
七海の家にノートを届けようと尋ねると、玄関に忌中と書かれた紙が貼られていた。
木曜日。
七海が死んだと、朝のホームルームで担任が言った。
詳しい事は言えないが、お通夜が今晩あるから、後から詳しい内容はメールで流すと、担任は言った。
優芽と一緒に七海のお通夜に行った夏希は、笑顔の七海の遺影を見ても、いなくなった事がまだ信じられなかった。
原田と有紗達が、七海の母の前で何かを言いながら泣いている。有紗の後ろに並ぶ廣岡と目が合うと、夏希はすぐに目を反らした。
七海にお線香をあげた優芽と夏希は、七海の両親の前で頭を下げた。
「2人共、ちょっと時間ある?」
七海の母がそう言って、優芽と夏希を人の少ない場所に呼んだ。
「ねぇ、七海のラケット、もらってくれない?見ると辛くってね。」
七海の母は、泣きながら2人にラケットを渡した。
「七海がどうして学校へ行けなくなったのかも、私はみんな知ってるのよ。当の本人達は、全然わかってないみたいだけど。真面目やってる人がバカを見る世の中って、本当に嫌ね。あなた達も辛い立場にいるんでしょう?
月曜日、七海は学校へ行ったのよ。そしたら、七海の靴が下駄箱になくてね。代わりに死ねって手紙が入っていたらしいの。月曜日のあの時間に学校へ行く事は、誰にも内緒にしてほしいって先生にお願いしたのに、誰かがあの子達に言ってしまったのね。」
「そんな!」
優芽は夏希と顔を合わせた。
「きっとバトミントン部の顧問の先生が、七海をいじめた子達に言ったのよ。さっき、あの中の1人の子が、そんな話しをしてたから。」
「ひどい。」
優芽は七海のラケットを握った。
「悲しいけれど、もう七海は戻ってこないの。2人と一緒に練習するって楽しみにしてたのに、残念ね。」
夏希と優芽は、七海の母が震えているのを見て、悔しくて涙が止まらなかった。
「ほら、家はここから遠いんでしょう?誰か迎えに来るの?明日も学校だから、早く帰って休んで。時々、七海の事、思い出してくれたら、それでいいから。」
聡が2人を迎えにきた。
「2人共、お腹空いただろう。母さんが蒸しパン作ったから、食べな。」
「お父さん、これたくさんある?」
「あるよ。」
優芽はそれを持って車から出ていった。松葉杖をつく優芽の後を夏希が追うと、
「七海、蒸しパン食べてね。」
そう言って、祭壇に蒸しパンをあげていた。
優芽は車に戻ると、
「私ね、これ嫌いなの。それなのにお母さん、たくさん作り過ぎるから、いつも七海にあげてた。」
そう言って、泣きながら蒸しパンを食べた。
金曜日。
原田が職員室に夏希を呼んだ。
「県大会の事なんだけど、団体戦で出場が決まった。梨田があれじゃあ出られないから、シングルスはおまえでいく。ダブルスの方は、砂田と組んでくれ。今回は特例で、予選と違う選手で登録し直してもいいって、協会が県大会の出場を認めてくれたんだ。」
夏希は聡が協会を説得した事を知っていた。
「原田先生、私は試合には出ません。部活もやめます。」
「理由もないのに、そんな事は許されないぞ。お前が出ないと、他の皆も出られなくなる。せっかくここまで練習してきて、それはないだろう。砂田だって、他の3年生だって、これが最後になるんだぞ。」
「じゃあ、私も怪我をした事にして、他の人を入れ換えればいいじゃないですか。」
「城田、いい加減にしろよ。」
原田は机を叩いた。周りの教師達が一斉に夏希を見た。
「城田さん、原田先生の言う通り。先生達だって、忙しい中、部活動を指導してるのよ。それなのにわがままばかり言われると、こっちだってやってられないわよ。」
隣りの席の女教師がそう言った。
「内申に響くぞ。城田は学校推薦で大学に行く予定だったよな。共通テストなんて無理なんだし、原田先生のいう事聞いて、最後の部活、精一杯やれよ。」
担任の島田がそう言った。
「練習は明日からでいいから。」
夏希は原田から、県大会の予定の書いてあるプリントを渡されて、職員室を出た。
教室に戻ると、優芽が待っていた。
「夏希、帰ろう。今日はお母さんが迎えに来るから。」
「優芽のお母さん、病院終わって来るんでしょう?私はバスで帰るからいいよ。」
優芽の母は3人目の子を妊娠していた。
「ねえ、優芽はどっちがいいの、弟?妹?」
「私はね、弟がいい。妹も弟がいいって言ってる。」
「いいなぁ。」
なんでもない話しなのに、夏希は急に泣き出した。
優芽は夏希の持っているプリントを手に取ると、
「有紗と組めって事か。」
そう言って夏希の肩に手を置いた。
「七海にも、申し訳なくって。」
「夏希が責任を感じる事はないよ。こうなったら、とことん原田の思い出作りに付き合ってやろうよ。私の足が治ったら、少年団の練習に参加して、本当の思い出を作ろう。」
優芽と玄関で別れると、夏希はバス停に向かって歩いていた。
「城田。」
青田が追ってきた。
「廣岡、ショックだったみたいだぞ。」
「何が?」
「澤山の事。」
「そうなんだ。」
夏希はそっけない返事をした。
「お前、澤山が学校に来なくなったのは、廣岡のせいだって言っただろう。」
「そんな事、言ったかな?」
「言っただろう、試合の日に。廣岡だって、中学の頃からずっと澤山が好きで、やっと告白したのに、お前にそんな事言われて、これじゃあ、まるで廣岡が全部悪いみたいじゃないか。」
「じゃあ、誰が悪いの?原因を作ったのは廣岡くんでしょう?それに、七海がイジメられてるの知ってて、見て見ないふりして。」
「お前だって、砂田に注意しなかったんだし、皆、同罪だろう。しかも、何事もなかったかのように、これから砂田とダブルスを組むって、どういう事だよ。俺、前から思ってたけど、ああいう女子がいると、本当に迷惑なんだよ。どうせ、廣岡目当てに県大会についてくるんだろう。お前から、2年の佐藤と組みたいって原田に言えよ。佐藤の方が経験あるし、砂田とは比べ物にならないしさ。」
「青田くんが佐藤さんを好きなんでしょう?もうそんなゴタゴタに巻き込まないで。」
夏希は走ってバス停に向かった。
梅雨なのか、スッキリ晴れない日が続いている。小雨の中、濡れた前髪を気にしているとバスがきた。
違う高校の制服を着た女の子が、夏希の隣りに座った。
「久しぶりだね。」
「久しぶり?」
「夏希、ずいぶん髪伸びたね。」
「そうなの。そろそろ切ろうと思って。」
「新しい美容室できたの知ってる?」
「ううん。どこにあるの?」
「駅前。バス停降りたらすぐだから。」
「前、やってた所、また復活したの?」
「違うよ。今度は違う人。若い人だって聞いた。」
「じゃあ、行ってみようかな。」
「そうしなよ。私、ここで降りるから、またね。」
ところであの子誰だっけ?
いつものバス停ではなく、駅前で降りると、運転手が忘れ物は?と声を掛けた。
「あっ、傘。」
夏希は席まで取りに行った。
「気をつけてよ。」
運転手は笑った。
母はお弁当箱を忘れない様に、ジャージを入れる袋の中に一緒に入れるようになった。
バス停を降りて、すっかり様子が変わった美容室の扉を開けると、中から男性の美容師が出てきた。
若いって言うから、若い女の人かと思ったら、男の人だなんて、間違えたって言って帰ろうかな。
「学生さん?」
「はい。予約なんてしてないから、無理ですね。」
夏希はそのまま帰ろうとした。
「いいよ。こっち。」
「私、間違えて…。」
「何が?」
「いえ、なんでもないです。」
夏希は鏡の前に案内されると、結んでいた髪を美容師はほどいた。
「どうする?」
「たくさん切ってください。」
「これくらい?」
美容師は肩に手をあてた。
「もっと。」
「じゃあこれくらい?」
今度は顎に手をあてた。
「もう少し。」
美容師は耳に手をあてる。
「もっと。」
「もう、それなら坊主になっちゃうよ。」
美容師はそう言って笑った。
「髪の毛って、1日どれくらい伸びるんですか?」
「人にもよるけど、1ヵ月で1センチは伸びるって言われてる。」
「じゃあ、3年分切ってください。」
「3年分?」
「そうです。坊主になってもいいです。3年分切ってください。」
「変わった子だなあ。わかったよ。いらない思い出の分、みんな切ってあげるから。」
美容師はそう言って、髪を切り始めた。
「この町の子?」
「そうです。」
「何年生?」
「高3です。」
「じゃあ、高校の思い出、みんな切ってしまうんだ。」
夏希は鏡の中の美容師と目が合った。
「いい思い出だけ、残してあげようか。」
「いい思い出なんてないです。ひとつ嫌な事があると、全部嫌な思い出に変わる。いい思い出がいくつあっても、ひとつの嫌な思い出が、全部黒く塗り変える。」
「ずいぶん、素敵な事言うね。歌にしたいよ。」
夏希は恥ずかしくなって下を向いた。
美容師は夏希の顔を前に向けた。
サラサラと流れるようにハサミを使っている手が止まり、美容師が時々鏡を見ると、切れ長のキレイな目をした、今まで見たこともない、凛とした顔が鏡に映った。
「美容師さんは、どこからきたんですか?」
「俺は東京から。」
「こんな田舎に、どうして?」
「こういう町に住んでみたかったから。」
「何にもないですよ。ここ。」
「何にもないって思うけど、案外たくさんあるもんだよ。空気ひとつでも、他にはないくらい澄んでるし。」
「そうかなぁ。」
「さっき停まったバスも、映画に出てくるみたいで、ここにいると、大切な人を待つ、主人公になったみたいだよ。シャンプーするからこっちに来て。」
夏希は席を移る時、床に落ちている自分の髪を見て、少し驚いた。
再び鏡の前に戻り、丁寧にドライヤーで髪をセットきてもらうと、どう?と美容師は夏希と一緒に鏡を覗いた。
「ありがとうございます。すごく軽くなりました。」
山になって捨てられていく自分の髪を見ていると、夏希は急に胸が痛くなった。
「はい、どうぞ。」
夏希の髪を結んでいたゴムを手渡されると、今度は喉の奥が熱くなって、涙がポロポロ溢れてきた。
「もしかして、切り過ぎた?」
夏希は首を振った。
「思い出はみんなゴミになりました。ありがとうございます。」
「それはよかった。忘れたくないものは、精一杯残したからね。」
美容師はそう言って笑った。
「名前、なんていうの?」
「城田夏希です。」
「俺は岡嶋潤。《おかじまじゅん》嫌な事があったら、またおいで。」
「ありがとう。」
夕暮れの道を早足で歩いていた。
家までは帰る間に、空は太陽から月に変わり、薄暗くなった。
風が夏希の肩を通り抜けると、押さえつけられていたものが、やっとなくなった様な気持ちがした。
夜遅くに激しく降り出した雨は、目を貫くのような光りと、地面が揺れるような音を響かせた。
布団に潜って、雷が通り過ぎるのを待っていると、春香が夏希の布団を叩いた。
「夏希、携帯なってるよ。」
布団の中から手だけ伸ばして、春香から携帯を受け取ると、電話の相手は七海だった。
「夏希、寝てた?」
「ううん。布団の中にいた。すごい雷だね。」
「そっちはそんなにひどいの?」
「すごい、雷がすごく近い。この感じなら、きっとどこかに落ちたね。」
「夏希、優芽から聞いたよ。」
「優芽、足の事なんて言ってた?」
「足首にヒビが入ってたって。」
「やっぱり。すごい腫れてたから、ヤバいと思ったんだよね。ヒビならけっこう時間かかるね。」
「そうだね。手術にならなかっただけ良かったって。」
「休みなしで試合したからさ、故障したんだよ。」
「夏希、原田とモメたんだって?」
「そう。ちょっと頭にきてさ。」
「夏希が反抗するの、珍しいね。」
「砂田さん達の事も、すごく腹が立ってね。」
「廣岡くんにも、なんか言ったんだって?」
「そうだよ。私、もう部活やめるから、もうどうでもいい。」
「あと少しなのに。だって県大会も決まったんでしょう?」
「優芽も七海もいないなら、恥をさらしに行くようなもんだよ。」
「夏希は最後に、大きな花火上げたね。」
「もう、止められなくなっちゃってさ。」
「夏希、いつもノートどうもありがとう。」
「これから部活がなくなったら、毎日七海に届けるから。」
「ありがとう。島田先生がね、保健室で勉強しないかった言ってくれてね。行ってみようと思うの。いつからとは、まだ言えないけど。」
「本当に?」
「優芽のお父さん、また校長に文句つけたみたいで、何とか卒業できるように配慮してくれるって。」
「相変わらず熱いね、聡さん。原田のやり方に、相当に頭に来てるんだね。聡さんは少年団の練習でも、すごく厳しいんだよ。挨拶しない子には、練習させないし。」
「本当に?親はそれに対して何にも言わないの?」
「みんな聡さんを信頼してるから。少しでもだらしない態度の子がいるとね、自分だけの力で、ラケットが握っていると思うな!って、そう言うの。礼儀とか感謝とか、すごく大切にしてる。砂田さん達に聞かせてやりたいよ。」
「夏希、私も行ってみたいな。やっぱりバトミントン、やりたいんだよね。」
「いいよ。聡さんに頼んでみるから。七海なら、きっと大歓迎だと思うよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「ねえ、夏希。」
「何?」
「夏希、廣岡くんの事、好きだったでしょう?」
「何言ってんの、好きじゃないよ。大嫌い。」
「そう?」
「そうだよ。あんなプライドの塊みたいな人、超苦手。」
「私の勘違いか。」
「私ね、野球部のキャッチャーやってる、なんて言うんだっけ、あの人がタイプ。」
「あぁ、兼田くん。」
「兼田っていうの、あの人。」
「名前も知らなかったの。」
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「へぇ、意外。夏希はヒョロヒョロが好きだと思ってた。残念、兼田くん、彼女いるよ。2年のマネージャー。」
「うそ~、がっかり。」
その夜、七海と夏希はしばらく話していた。
さっきまで近くでなっていた雷は、いつも間にか数えるのも忘れるくらい、遠くに行ってしまったようだ。
月曜日。
七海は来なかった。
火曜日も七海は来なかった。
水曜日。
七海の家にノートを届けようと尋ねると、玄関に忌中と書かれた紙が貼られていた。
木曜日。
七海が死んだと、朝のホームルームで担任が言った。
詳しい事は言えないが、お通夜が今晩あるから、後から詳しい内容はメールで流すと、担任は言った。
優芽と一緒に七海のお通夜に行った夏希は、笑顔の七海の遺影を見ても、いなくなった事がまだ信じられなかった。
原田と有紗達が、七海の母の前で何かを言いながら泣いている。有紗の後ろに並ぶ廣岡と目が合うと、夏希はすぐに目を反らした。
七海にお線香をあげた優芽と夏希は、七海の両親の前で頭を下げた。
「2人共、ちょっと時間ある?」
七海の母がそう言って、優芽と夏希を人の少ない場所に呼んだ。
「ねぇ、七海のラケット、もらってくれない?見ると辛くってね。」
七海の母は、泣きながら2人にラケットを渡した。
「七海がどうして学校へ行けなくなったのかも、私はみんな知ってるのよ。当の本人達は、全然わかってないみたいだけど。真面目やってる人がバカを見る世の中って、本当に嫌ね。あなた達も辛い立場にいるんでしょう?
月曜日、七海は学校へ行ったのよ。そしたら、七海の靴が下駄箱になくてね。代わりに死ねって手紙が入っていたらしいの。月曜日のあの時間に学校へ行く事は、誰にも内緒にしてほしいって先生にお願いしたのに、誰かがあの子達に言ってしまったのね。」
「そんな!」
優芽は夏希と顔を合わせた。
「きっとバトミントン部の顧問の先生が、七海をいじめた子達に言ったのよ。さっき、あの中の1人の子が、そんな話しをしてたから。」
「ひどい。」
優芽は七海のラケットを握った。
「悲しいけれど、もう七海は戻ってこないの。2人と一緒に練習するって楽しみにしてたのに、残念ね。」
夏希と優芽は、七海の母が震えているのを見て、悔しくて涙が止まらなかった。
「ほら、家はここから遠いんでしょう?誰か迎えに来るの?明日も学校だから、早く帰って休んで。時々、七海の事、思い出してくれたら、それでいいから。」
聡が2人を迎えにきた。
「2人共、お腹空いただろう。母さんが蒸しパン作ったから、食べな。」
「お父さん、これたくさんある?」
「あるよ。」
優芽はそれを持って車から出ていった。松葉杖をつく優芽の後を夏希が追うと、
「七海、蒸しパン食べてね。」
そう言って、祭壇に蒸しパンをあげていた。
優芽は車に戻ると、
「私ね、これ嫌いなの。それなのにお母さん、たくさん作り過ぎるから、いつも七海にあげてた。」
そう言って、泣きながら蒸しパンを食べた。
金曜日。
原田が職員室に夏希を呼んだ。
「県大会の事なんだけど、団体戦で出場が決まった。梨田があれじゃあ出られないから、シングルスはおまえでいく。ダブルスの方は、砂田と組んでくれ。今回は特例で、予選と違う選手で登録し直してもいいって、協会が県大会の出場を認めてくれたんだ。」
夏希は聡が協会を説得した事を知っていた。
「原田先生、私は試合には出ません。部活もやめます。」
「理由もないのに、そんな事は許されないぞ。お前が出ないと、他の皆も出られなくなる。せっかくここまで練習してきて、それはないだろう。砂田だって、他の3年生だって、これが最後になるんだぞ。」
「じゃあ、私も怪我をした事にして、他の人を入れ換えればいいじゃないですか。」
「城田、いい加減にしろよ。」
原田は机を叩いた。周りの教師達が一斉に夏希を見た。
「城田さん、原田先生の言う通り。先生達だって、忙しい中、部活動を指導してるのよ。それなのにわがままばかり言われると、こっちだってやってられないわよ。」
隣りの席の女教師がそう言った。
「内申に響くぞ。城田は学校推薦で大学に行く予定だったよな。共通テストなんて無理なんだし、原田先生のいう事聞いて、最後の部活、精一杯やれよ。」
担任の島田がそう言った。
「練習は明日からでいいから。」
夏希は原田から、県大会の予定の書いてあるプリントを渡されて、職員室を出た。
教室に戻ると、優芽が待っていた。
「夏希、帰ろう。今日はお母さんが迎えに来るから。」
「優芽のお母さん、病院終わって来るんでしょう?私はバスで帰るからいいよ。」
優芽の母は3人目の子を妊娠していた。
「ねえ、優芽はどっちがいいの、弟?妹?」
「私はね、弟がいい。妹も弟がいいって言ってる。」
「いいなぁ。」
なんでもない話しなのに、夏希は急に泣き出した。
優芽は夏希の持っているプリントを手に取ると、
「有紗と組めって事か。」
そう言って夏希の肩に手を置いた。
「七海にも、申し訳なくって。」
「夏希が責任を感じる事はないよ。こうなったら、とことん原田の思い出作りに付き合ってやろうよ。私の足が治ったら、少年団の練習に参加して、本当の思い出を作ろう。」
優芽と玄関で別れると、夏希はバス停に向かって歩いていた。
「城田。」
青田が追ってきた。
「廣岡、ショックだったみたいだぞ。」
「何が?」
「澤山の事。」
「そうなんだ。」
夏希はそっけない返事をした。
「お前、澤山が学校に来なくなったのは、廣岡のせいだって言っただろう。」
「そんな事、言ったかな?」
「言っただろう、試合の日に。廣岡だって、中学の頃からずっと澤山が好きで、やっと告白したのに、お前にそんな事言われて、これじゃあ、まるで廣岡が全部悪いみたいじゃないか。」
「じゃあ、誰が悪いの?原因を作ったのは廣岡くんでしょう?それに、七海がイジメられてるの知ってて、見て見ないふりして。」
「お前だって、砂田に注意しなかったんだし、皆、同罪だろう。しかも、何事もなかったかのように、これから砂田とダブルスを組むって、どういう事だよ。俺、前から思ってたけど、ああいう女子がいると、本当に迷惑なんだよ。どうせ、廣岡目当てに県大会についてくるんだろう。お前から、2年の佐藤と組みたいって原田に言えよ。佐藤の方が経験あるし、砂田とは比べ物にならないしさ。」
「青田くんが佐藤さんを好きなんでしょう?もうそんなゴタゴタに巻き込まないで。」
夏希は走ってバス停に向かった。
梅雨なのか、スッキリ晴れない日が続いている。小雨の中、濡れた前髪を気にしているとバスがきた。
違う高校の制服を着た女の子が、夏希の隣りに座った。
「久しぶりだね。」
「久しぶり?」
「夏希、ずいぶん髪伸びたね。」
「そうなの。そろそろ切ろうと思って。」
「新しい美容室できたの知ってる?」
「ううん。どこにあるの?」
「駅前。バス停降りたらすぐだから。」
「前、やってた所、また復活したの?」
「違うよ。今度は違う人。若い人だって聞いた。」
「じゃあ、行ってみようかな。」
「そうしなよ。私、ここで降りるから、またね。」
ところであの子誰だっけ?
いつものバス停ではなく、駅前で降りると、運転手が忘れ物は?と声を掛けた。
「あっ、傘。」
夏希は席まで取りに行った。
「気をつけてよ。」
運転手は笑った。
母はお弁当箱を忘れない様に、ジャージを入れる袋の中に一緒に入れるようになった。
バス停を降りて、すっかり様子が変わった美容室の扉を開けると、中から男性の美容師が出てきた。
若いって言うから、若い女の人かと思ったら、男の人だなんて、間違えたって言って帰ろうかな。
「学生さん?」
「はい。予約なんてしてないから、無理ですね。」
夏希はそのまま帰ろうとした。
「いいよ。こっち。」
「私、間違えて…。」
「何が?」
「いえ、なんでもないです。」
夏希は鏡の前に案内されると、結んでいた髪を美容師はほどいた。
「どうする?」
「たくさん切ってください。」
「これくらい?」
美容師は肩に手をあてた。
「もっと。」
「じゃあこれくらい?」
今度は顎に手をあてた。
「もう少し。」
美容師は耳に手をあてる。
「もっと。」
「もう、それなら坊主になっちゃうよ。」
美容師はそう言って笑った。
「髪の毛って、1日どれくらい伸びるんですか?」
「人にもよるけど、1ヵ月で1センチは伸びるって言われてる。」
「じゃあ、3年分切ってください。」
「3年分?」
「そうです。坊主になってもいいです。3年分切ってください。」
「変わった子だなあ。わかったよ。いらない思い出の分、みんな切ってあげるから。」
美容師はそう言って、髪を切り始めた。
「この町の子?」
「そうです。」
「何年生?」
「高3です。」
「じゃあ、高校の思い出、みんな切ってしまうんだ。」
夏希は鏡の中の美容師と目が合った。
「いい思い出だけ、残してあげようか。」
「いい思い出なんてないです。ひとつ嫌な事があると、全部嫌な思い出に変わる。いい思い出がいくつあっても、ひとつの嫌な思い出が、全部黒く塗り変える。」
「ずいぶん、素敵な事言うね。歌にしたいよ。」
夏希は恥ずかしくなって下を向いた。
美容師は夏希の顔を前に向けた。
サラサラと流れるようにハサミを使っている手が止まり、美容師が時々鏡を見ると、切れ長のキレイな目をした、今まで見たこともない、凛とした顔が鏡に映った。
「美容師さんは、どこからきたんですか?」
「俺は東京から。」
「こんな田舎に、どうして?」
「こういう町に住んでみたかったから。」
「何にもないですよ。ここ。」
「何にもないって思うけど、案外たくさんあるもんだよ。空気ひとつでも、他にはないくらい澄んでるし。」
「そうかなぁ。」
「さっき停まったバスも、映画に出てくるみたいで、ここにいると、大切な人を待つ、主人公になったみたいだよ。シャンプーするからこっちに来て。」
夏希は席を移る時、床に落ちている自分の髪を見て、少し驚いた。
再び鏡の前に戻り、丁寧にドライヤーで髪をセットきてもらうと、どう?と美容師は夏希と一緒に鏡を覗いた。
「ありがとうございます。すごく軽くなりました。」
山になって捨てられていく自分の髪を見ていると、夏希は急に胸が痛くなった。
「はい、どうぞ。」
夏希の髪を結んでいたゴムを手渡されると、今度は喉の奥が熱くなって、涙がポロポロ溢れてきた。
「もしかして、切り過ぎた?」
夏希は首を振った。
「思い出はみんなゴミになりました。ありがとうございます。」
「それはよかった。忘れたくないものは、精一杯残したからね。」
美容師はそう言って笑った。
「名前、なんていうの?」
「城田夏希です。」
「俺は岡嶋潤。《おかじまじゅん》嫌な事があったら、またおいで。」
「ありがとう。」
夕暮れの道を早足で歩いていた。
家までは帰る間に、空は太陽から月に変わり、薄暗くなった。
風が夏希の肩を通り抜けると、押さえつけられていたものが、やっとなくなった様な気持ちがした。
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