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最終章
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貨物に紛れて2日も列車に揺られただろうか、明らかに大きな街の駅に着いた。
間違いなく豊原だ。
だが、ここで油断してはならない、夜になるまで貨物の中にいるのだ。
夜中に貨物から這い出て、日本人を探そう。
街の建物は明らかに日本の家屋だが、掲げられている看板にはロシア文字が書かれている。
これが征服なのか。
食料を求めて忍び込んだ民家の物置で思わず息をのんだ。
味噌樽と漬物樽がある。
日本人がいることを確信した次の瞬間、物置の引き戸が勢いよく開いた。
明らかに東洋人と思しき顔が私を見ているのである。
「そこで何をしている。」
「食べ物を、腹が減って。」
それ以上の言葉が出なかった。
何年ぶりであろうか、日本語を聞いたのは…。
「見ない顔だな、どこから来た。」
もはや観念するしかないと思い、日本人であること、北から逃げて来たことを話した。
しかし、欧州から流れて来たことは話さずにいた。
話したところで、同情を引くことがあるはずもなく、すぐに当局へ引き渡されることは目に見えている。
「どうしたの、誰かいるの。」
そう女性の声が聞こえたが、この家の主人の妻のようだった。
「とりあえず入りなさい。」
私の風体がよほど惨めだったのか、それとも私のような者がこれまでにもここへ来たことがあるのか、そう思わせる言葉だった。
懐かしい日本語に接して、すっかり気が緩んでしまったのだろう、もうどうとでもなれという気にもなっていた。
主人は朝鮮人で妻は日本人であるとのことだった。
やはり日本人が残っていたのだ。
「北海道へ密航しようと思ってここまで来た。」
「前にもそんなのがいたよ。樺太に残ると決めながらも、気が変わって日本に帰りたいって言いだして。どうなったかは知らんけど。」
主人は吐き捨てるように言い、さらに続けた。
「俺たちには、お前ら日本人を助ける義理はない。だが、女房が日本人だからな。明日の朝までにはここを出て行ってくれ。それとな、俺はこの国で生きていくしかないんだ。だからあんたのことを当局に報告しなければならない。まあ、物置に誰かが忍び込んだことに気づいたのは、昼になってからってことになるだろうがな。」
「すまない。」
せめてもの慈悲に、ただ頭を下げるしかなかった。
夜明け前の出発間際に、主人の妻が少しではあるが食べ物を持たせてくれた。
これ以上かかわりたくないのか、当局を恐れてか、主人が顔を出すことはなく、妻だけが見送ってくれた。
「元気でね。北海道への密航がまだいるって噂もあるから。」
「ありがとう。それと、ヤマシロ、私の名はヤマシロです。」
なぜか、そんな言葉が出た。
主人も妻も私の名前を尋ねることはなかったにもかかわらず。
多分、生きた証を残したかったのだろうか、それとも、生きた証を残す最後の機会だと感じ取ったのだろうか。
とりあえず大泊まで行こう。
昼にはソ連当局に知らせが入ることであろうから、それまでに行けるところまで行かなければ。
いや、ラーゲリからの脱走が発覚した時点で手配されているのかもしれない。
夜中の豊原駅で再び貨物列車に忍び込むのだが、機関車の連結方向で南へ向かう列車を探す。
パリを引き払うときに列車に乗ってから、いくつめの列車だろうか、そして、これから先、いくつの列車に乗ることができるのだろうか。
ここ何年かは貨物列車ばかりだ、最後に客車に乗ったのはいつだったろう。
多分、大泊では当局が警戒しているはずだ。
大泊の手前で列車から飛び降りて、海岸を目指して歩くしかない。
列車は一路南下し、海が見え始めた、今だ、今しかない。
速度の出ない貨物列車から飛び降りることは、そう難しいことではなく、なによりも宗谷海峡の海がすべての恐怖を取り去ってくれたのだ。
海岸沿いを歩くと漁船が目についた。
明らかにペンキで塗りつぶした跡に、ロシア文字で船名を書いたような船がいくつか並んでいた。
そうか、日本の漁船を分捕ってそのまま使っているのだな。
これを奪って宗谷海峡を越えれば日本だ、この海の向こうが日本だ!
「ストーイ(止まれ、ロシア語)!!」
しかし、背後に人の気配がするとともに、かすかな希望すら見事に破壊してしまうような声が聞こえた。
父親が子どもを一喝する声とは明らかに違う、殺意と憎悪に満ちた声だ。
声のした方へ振り返ると、ソ連兵が銃をこちらへ向けているのが見えた。
慈悲など持ち合わせてはいない、これまで見てきた、世界中のどこにでも、いつの時代にも存在する、国家の囚人の目だ。
その目を見た瞬間、すべてを諦めたのか、それとも、もう抵抗する気力すら残っていなかったのか、彼らに背を向けるとゆっくりと海の方へ歩き始めた。
ソ連兵が何かを叫んでいるが、そんなことはもうどうでもよかった。
私の目には海の向こうの日本しか見えていなかった。
捕らえられたところでラーゲリに戻されるわけではないだろうし、ましてや、釈放されることなど、スターリンが千回くらい死ななければあり得ない話だ。
相変わらずの私が、そんなことを考えながら、そして、かすかな笑みを浮かべながら歩いていたのだと思う。
不思議と穏やかな気持ちでもあった。
「愚かで、呆れたロマンチストか…。」
「それでも、ここまで来ることができたんだ。」
「ここまで…。」
それから40年あまりの月日が流れた。
ソ連という国もなくなり、ポーランドをはじめとした東欧諸国にも民主化の波が押し寄せた。
そして、戦後もサハリンに残留していた日本人にも帰国が許されるようになった。
サハリンからの帰国訪問団の記事が新聞紙面をにぎわせていたのだが、隅の小さな記事に目をとめる者はほとんどいなかった。
ポーランド政府が一人の日本人を探している、との記事に。
そのような中、サハリンから帰国した一人の老婦人が奇妙な話をしていたらしいが、帰国の歓迎の中ですぐにかき消されてしまった。
「昔、北海道へ密航しようと、北から逃げてきた日本人がいた。確か、ヤマシロという名前だった…。」
「完」
よろしければ、あとがきへおすすみください。
間違いなく豊原だ。
だが、ここで油断してはならない、夜になるまで貨物の中にいるのだ。
夜中に貨物から這い出て、日本人を探そう。
街の建物は明らかに日本の家屋だが、掲げられている看板にはロシア文字が書かれている。
これが征服なのか。
食料を求めて忍び込んだ民家の物置で思わず息をのんだ。
味噌樽と漬物樽がある。
日本人がいることを確信した次の瞬間、物置の引き戸が勢いよく開いた。
明らかに東洋人と思しき顔が私を見ているのである。
「そこで何をしている。」
「食べ物を、腹が減って。」
それ以上の言葉が出なかった。
何年ぶりであろうか、日本語を聞いたのは…。
「見ない顔だな、どこから来た。」
もはや観念するしかないと思い、日本人であること、北から逃げて来たことを話した。
しかし、欧州から流れて来たことは話さずにいた。
話したところで、同情を引くことがあるはずもなく、すぐに当局へ引き渡されることは目に見えている。
「どうしたの、誰かいるの。」
そう女性の声が聞こえたが、この家の主人の妻のようだった。
「とりあえず入りなさい。」
私の風体がよほど惨めだったのか、それとも私のような者がこれまでにもここへ来たことがあるのか、そう思わせる言葉だった。
懐かしい日本語に接して、すっかり気が緩んでしまったのだろう、もうどうとでもなれという気にもなっていた。
主人は朝鮮人で妻は日本人であるとのことだった。
やはり日本人が残っていたのだ。
「北海道へ密航しようと思ってここまで来た。」
「前にもそんなのがいたよ。樺太に残ると決めながらも、気が変わって日本に帰りたいって言いだして。どうなったかは知らんけど。」
主人は吐き捨てるように言い、さらに続けた。
「俺たちには、お前ら日本人を助ける義理はない。だが、女房が日本人だからな。明日の朝までにはここを出て行ってくれ。それとな、俺はこの国で生きていくしかないんだ。だからあんたのことを当局に報告しなければならない。まあ、物置に誰かが忍び込んだことに気づいたのは、昼になってからってことになるだろうがな。」
「すまない。」
せめてもの慈悲に、ただ頭を下げるしかなかった。
夜明け前の出発間際に、主人の妻が少しではあるが食べ物を持たせてくれた。
これ以上かかわりたくないのか、当局を恐れてか、主人が顔を出すことはなく、妻だけが見送ってくれた。
「元気でね。北海道への密航がまだいるって噂もあるから。」
「ありがとう。それと、ヤマシロ、私の名はヤマシロです。」
なぜか、そんな言葉が出た。
主人も妻も私の名前を尋ねることはなかったにもかかわらず。
多分、生きた証を残したかったのだろうか、それとも、生きた証を残す最後の機会だと感じ取ったのだろうか。
とりあえず大泊まで行こう。
昼にはソ連当局に知らせが入ることであろうから、それまでに行けるところまで行かなければ。
いや、ラーゲリからの脱走が発覚した時点で手配されているのかもしれない。
夜中の豊原駅で再び貨物列車に忍び込むのだが、機関車の連結方向で南へ向かう列車を探す。
パリを引き払うときに列車に乗ってから、いくつめの列車だろうか、そして、これから先、いくつの列車に乗ることができるのだろうか。
ここ何年かは貨物列車ばかりだ、最後に客車に乗ったのはいつだったろう。
多分、大泊では当局が警戒しているはずだ。
大泊の手前で列車から飛び降りて、海岸を目指して歩くしかない。
列車は一路南下し、海が見え始めた、今だ、今しかない。
速度の出ない貨物列車から飛び降りることは、そう難しいことではなく、なによりも宗谷海峡の海がすべての恐怖を取り去ってくれたのだ。
海岸沿いを歩くと漁船が目についた。
明らかにペンキで塗りつぶした跡に、ロシア文字で船名を書いたような船がいくつか並んでいた。
そうか、日本の漁船を分捕ってそのまま使っているのだな。
これを奪って宗谷海峡を越えれば日本だ、この海の向こうが日本だ!
「ストーイ(止まれ、ロシア語)!!」
しかし、背後に人の気配がするとともに、かすかな希望すら見事に破壊してしまうような声が聞こえた。
父親が子どもを一喝する声とは明らかに違う、殺意と憎悪に満ちた声だ。
声のした方へ振り返ると、ソ連兵が銃をこちらへ向けているのが見えた。
慈悲など持ち合わせてはいない、これまで見てきた、世界中のどこにでも、いつの時代にも存在する、国家の囚人の目だ。
その目を見た瞬間、すべてを諦めたのか、それとも、もう抵抗する気力すら残っていなかったのか、彼らに背を向けるとゆっくりと海の方へ歩き始めた。
ソ連兵が何かを叫んでいるが、そんなことはもうどうでもよかった。
私の目には海の向こうの日本しか見えていなかった。
捕らえられたところでラーゲリに戻されるわけではないだろうし、ましてや、釈放されることなど、スターリンが千回くらい死ななければあり得ない話だ。
相変わらずの私が、そんなことを考えながら、そして、かすかな笑みを浮かべながら歩いていたのだと思う。
不思議と穏やかな気持ちでもあった。
「愚かで、呆れたロマンチストか…。」
「それでも、ここまで来ることができたんだ。」
「ここまで…。」
それから40年あまりの月日が流れた。
ソ連という国もなくなり、ポーランドをはじめとした東欧諸国にも民主化の波が押し寄せた。
そして、戦後もサハリンに残留していた日本人にも帰国が許されるようになった。
サハリンからの帰国訪問団の記事が新聞紙面をにぎわせていたのだが、隅の小さな記事に目をとめる者はほとんどいなかった。
ポーランド政府が一人の日本人を探している、との記事に。
そのような中、サハリンから帰国した一人の老婦人が奇妙な話をしていたらしいが、帰国の歓迎の中ですぐにかき消されてしまった。
「昔、北海道へ密航しようと、北から逃げてきた日本人がいた。確か、ヤマシロという名前だった…。」
「完」
よろしければ、あとがきへおすすみください。
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