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東の国から来た歌い手
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「やめろ、先生にも言われてたじゃないか」
俺は彼のいつになく強い口調に、煙草を箱から探り出す指を止めた。いつも明るく柔和な陽一郎(彼の名前には太陽の意味が含まれているらしい)が、精一杯の難しい顔をしてこちらを見ている。
陽一郎が真面目だから俺をたしなめるのではなく、歌い手が煙草を吸わないのは至極当たり前のことだ。芳しい煙は確実に声帯を痛めつけ、老化させる。
しかし俺は16の時から吸い始めた煙草を、声楽を専攻する身になっても、やめられない。最初に個人指導を受けていた先生からは、これが理由で破門された。破門なんて大げさな言葉だが、煙草を吸うような歌い手に教えることは無い、と言われたと記憶する。
現在大学で俺を指導してくれているメルケン先生も、もちろん歌手が煙草を吸うことをよく思っていない。今日も匂いをつけたまま授業に出ると、嫌味を言われてしまった。
授業が終わり、喫煙できる食堂の隅で一服していると、何故かいつも、日本からやってきたこの生真面目なバリトンに見つかってしまう。彼もメルケンゼミのメンバーで、ドイツ語を喋るのがまだ不自由な時もあるくせに、歌う時の発音はやたらにきれいなので、先生も一目置いていた。
「おまえの喉じゃないんだから、いいだろう?」
俺は傍らに立つ陽一郎を座ったまま見上げる。彼はむすっとした。
「一緒に勉強してたきみが、20年後に喉を壊して歌えなくなったなんて話を聞きたくない」
「それはどこからくる気持ちなんだよ、勘違いするからやめてくれないか?」
俺が男を好きな人間だと知る陽一郎は、こんな風にからかうといつも少し警戒する。それがまた、可愛らしくて面白いのだが。
陽一郎がコーヒーを買ってきてくれた。彼を向かいに座らせ、俺は話題を変える。
「次のコンクールは? 出るのか?」
「うん、これで結果を出して帰国したい」
彼が故郷に帰るつもりでいると知り、胸の中に冷たい風が吹いた。彼は東の遠い国からドイツにやってきてもうすぐ4年だ。いつ帰ってもおかしくないのに。
「日本には歌う場所が無いって言ってたじゃないか」
俺が言うと、苦々し気に陽一郎は頷いた。
「でも、誰かが歌って日本人にもっと歌曲を知ってもらわないといけない、僕の後輩が日本でもっと歌えるようにしたいんだ」
ちょっと陽一郎が眩しくて、清々しいのが8割、妬ましいのが2割の気分だった。俺は彼に、賭けをもちかけることにした。
「今度のコンクールで順位を競おう、順位が上だったほうが、下の奴にひとつお願いをする」
案の定、陽一郎は少し表情を曇らせた。俺はテノールで彼はバリトン、歌う歌も違うのだから、順位を競うことになどあまり意味は無い。単なる遊びだが、生真面目な彼にはやや不愉快なのだろう。
しかし陽一郎は、俺の目を見てきっぱり言った。
「わかった、僕が上だったらレオンには煙草をやめてもらう……きみは僕に何をしてほしいんだ?」
俺は驚いて、咄嗟に返事ができなかった。
「よし、考えとく」
「僕は貧乏だから、金のかかることはパスだよ」
俺は承知した。金など一銭もかからない。一回真剣にキスさせろ。そう言ってやるつもりだった。
「レオン、こっちだ」
学生時代からの友人であるゲオルクが、俺を見つけて手を振った。彼はメルケン先生ほどではないが、バリトン歌手として高い評価を受けて、現在母校で後進の指導にもあたっている。
「久しぶりだな、忙しそうじゃないか」
「ゲオルクほどじゃないさ、これからコンサートシーズンだから大変だろう?」
俺はもう歌っておらず、小さな音楽雑誌の出版社で記者の真似事をしているが、メルケン門下生の者たちは変わらず飲みに誘ってくれる。
30数年前の陽一郎との賭けに、俺は負けた。陽一郎は銀賞に輝き、その声楽コンクールでの日本人の最高順位記録を更新した。それで俺は約束通り煙草をやめたのだが、歌もやめてしまったのは何たる皮肉か。
ゲオルクが俺に話したかったのは、半年前に彼の許にやってきた、日本人の留学生のことらしかった。
「陽一郎の直弟子なんだ、声質は彼より軽いんだが、歌い方や発音がきれいなところが似てる……陽一郎からかなり厳しく仕込まれたみたいで、ボディバランスもいい」
陽一郎のことは、世界中のクラシック音楽の情報を集めている身なので、把握していた。地道に歌い続けて日本のトップバリトンと言われるほどになり、家庭を持ち、現在は東京ではなく故郷の北海道を活動拠点にしている。
しかし、弟子を育てているというのは初耳だった。こうして近しい人から直接彼にまつわる話を聞くと、胸の中に一気に温かいものが広がる。
「その子の歌が聴いてみたいな」
「そろそろ舞台で歌わせてやりたいから、その時は教えるよ」
「ああ、頼む」
俺はゲオルクに向かってジョッキを掲げ、キスしそびれた日本人の同期とその弟子に乾杯した。その日のビールは、ここ最近で文句無しに一番美味しかった。
*初出 2024.10.3 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「煙草」「指」
三喜雄の師匠、藤巻陽一郎先生の若い頃の話です。師弟共々ゲイモテするみたいで(笑)。三喜雄が留学先のドイツでついていた先生が、藤巻さんの同期(兄弟子)だという設定は、『レターレ・カンターレ』で出していたのではないかと。『あいみるのときはなかろう』を書いたときに、藤巻先生が三喜雄のお父さんの古くからの友人だという設定にしたのは、いろんな面を鑑みて、我ながらグッジョブだったと思うんですよ。
藤巻先生が三喜雄に教えていることは、私の無駄に長い声楽人生の中で、複数の先生から教えていただいたことがベースになっています。ならば私も、三喜雄くらい歌えたらいいのですが、そういう訳にもいかないようです。
俺は彼のいつになく強い口調に、煙草を箱から探り出す指を止めた。いつも明るく柔和な陽一郎(彼の名前には太陽の意味が含まれているらしい)が、精一杯の難しい顔をしてこちらを見ている。
陽一郎が真面目だから俺をたしなめるのではなく、歌い手が煙草を吸わないのは至極当たり前のことだ。芳しい煙は確実に声帯を痛めつけ、老化させる。
しかし俺は16の時から吸い始めた煙草を、声楽を専攻する身になっても、やめられない。最初に個人指導を受けていた先生からは、これが理由で破門された。破門なんて大げさな言葉だが、煙草を吸うような歌い手に教えることは無い、と言われたと記憶する。
現在大学で俺を指導してくれているメルケン先生も、もちろん歌手が煙草を吸うことをよく思っていない。今日も匂いをつけたまま授業に出ると、嫌味を言われてしまった。
授業が終わり、喫煙できる食堂の隅で一服していると、何故かいつも、日本からやってきたこの生真面目なバリトンに見つかってしまう。彼もメルケンゼミのメンバーで、ドイツ語を喋るのがまだ不自由な時もあるくせに、歌う時の発音はやたらにきれいなので、先生も一目置いていた。
「おまえの喉じゃないんだから、いいだろう?」
俺は傍らに立つ陽一郎を座ったまま見上げる。彼はむすっとした。
「一緒に勉強してたきみが、20年後に喉を壊して歌えなくなったなんて話を聞きたくない」
「それはどこからくる気持ちなんだよ、勘違いするからやめてくれないか?」
俺が男を好きな人間だと知る陽一郎は、こんな風にからかうといつも少し警戒する。それがまた、可愛らしくて面白いのだが。
陽一郎がコーヒーを買ってきてくれた。彼を向かいに座らせ、俺は話題を変える。
「次のコンクールは? 出るのか?」
「うん、これで結果を出して帰国したい」
彼が故郷に帰るつもりでいると知り、胸の中に冷たい風が吹いた。彼は東の遠い国からドイツにやってきてもうすぐ4年だ。いつ帰ってもおかしくないのに。
「日本には歌う場所が無いって言ってたじゃないか」
俺が言うと、苦々し気に陽一郎は頷いた。
「でも、誰かが歌って日本人にもっと歌曲を知ってもらわないといけない、僕の後輩が日本でもっと歌えるようにしたいんだ」
ちょっと陽一郎が眩しくて、清々しいのが8割、妬ましいのが2割の気分だった。俺は彼に、賭けをもちかけることにした。
「今度のコンクールで順位を競おう、順位が上だったほうが、下の奴にひとつお願いをする」
案の定、陽一郎は少し表情を曇らせた。俺はテノールで彼はバリトン、歌う歌も違うのだから、順位を競うことになどあまり意味は無い。単なる遊びだが、生真面目な彼にはやや不愉快なのだろう。
しかし陽一郎は、俺の目を見てきっぱり言った。
「わかった、僕が上だったらレオンには煙草をやめてもらう……きみは僕に何をしてほしいんだ?」
俺は驚いて、咄嗟に返事ができなかった。
「よし、考えとく」
「僕は貧乏だから、金のかかることはパスだよ」
俺は承知した。金など一銭もかからない。一回真剣にキスさせろ。そう言ってやるつもりだった。
「レオン、こっちだ」
学生時代からの友人であるゲオルクが、俺を見つけて手を振った。彼はメルケン先生ほどではないが、バリトン歌手として高い評価を受けて、現在母校で後進の指導にもあたっている。
「久しぶりだな、忙しそうじゃないか」
「ゲオルクほどじゃないさ、これからコンサートシーズンだから大変だろう?」
俺はもう歌っておらず、小さな音楽雑誌の出版社で記者の真似事をしているが、メルケン門下生の者たちは変わらず飲みに誘ってくれる。
30数年前の陽一郎との賭けに、俺は負けた。陽一郎は銀賞に輝き、その声楽コンクールでの日本人の最高順位記録を更新した。それで俺は約束通り煙草をやめたのだが、歌もやめてしまったのは何たる皮肉か。
ゲオルクが俺に話したかったのは、半年前に彼の許にやってきた、日本人の留学生のことらしかった。
「陽一郎の直弟子なんだ、声質は彼より軽いんだが、歌い方や発音がきれいなところが似てる……陽一郎からかなり厳しく仕込まれたみたいで、ボディバランスもいい」
陽一郎のことは、世界中のクラシック音楽の情報を集めている身なので、把握していた。地道に歌い続けて日本のトップバリトンと言われるほどになり、家庭を持ち、現在は東京ではなく故郷の北海道を活動拠点にしている。
しかし、弟子を育てているというのは初耳だった。こうして近しい人から直接彼にまつわる話を聞くと、胸の中に一気に温かいものが広がる。
「その子の歌が聴いてみたいな」
「そろそろ舞台で歌わせてやりたいから、その時は教えるよ」
「ああ、頼む」
俺はゲオルクに向かってジョッキを掲げ、キスしそびれた日本人の同期とその弟子に乾杯した。その日のビールは、ここ最近で文句無しに一番美味しかった。
*初出 2024.10.3 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「煙草」「指」
三喜雄の師匠、藤巻陽一郎先生の若い頃の話です。師弟共々ゲイモテするみたいで(笑)。三喜雄が留学先のドイツでついていた先生が、藤巻さんの同期(兄弟子)だという設定は、『レターレ・カンターレ』で出していたのではないかと。『あいみるのときはなかろう』を書いたときに、藤巻先生が三喜雄のお父さんの古くからの友人だという設定にしたのは、いろんな面を鑑みて、我ながらグッジョブだったと思うんですよ。
藤巻先生が三喜雄に教えていることは、私の無駄に長い声楽人生の中で、複数の先生から教えていただいたことがベースになっています。ならば私も、三喜雄くらい歌えたらいいのですが、そういう訳にもいかないようです。
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