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とある中等科男子のバレンタイン
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男子校においてバレンタインデーは、本来スルーされるべきイベントだ。少なくとも駿のクラスでは、家族以外の女性、たとえば他の学校の女の子や、初等科で一緒のクラスだった女の子からチョコレートを受け取ったといった話をする者は、これまでいなかった。
しかし今年、中等科男子3年周辺には、バレンタインデーを前に密やかに不穏な空気が流れている。一部の者が、週に1回だけ顔を見る男性教員に何やら気を取られているのだ。その教員は音楽を担当しており、現役の歌手だ。名を、片山という。
駿の学校は世間的には「いい学校」で、駿を含めて、小学生の時から個人的にピアノを習っている児童・生徒も多いからか、音楽教育に熱心なようである。一昨年、女性の教員と入れ替わりにやってきた片山は、いつもムスッとしていたその女の先生と違っていつもにこにこしているのが、まず生徒の警戒心と不信感を解いた。たまにちょっと天然ボケっぽいのだが、ピアノの前に座るとぴしっとなるギャップも面白い。
何よりも、片山はとてもいい声だ。前の先生が大きな声で歌うと耳にキンときて、いつも駿はうるさいと思ったのだが、片山の声は(もちろん大きいのだが)まろやかで、ほわっとしている。それに、片山は授業が終わると、自分たちの雑談に割とつき合ってくれて、子ども扱いしない。そんな訳で、片山の存在が「じわる」感じがする者が多いようで、遂に先月末、とある男子がおかしなことを言い出した。
「俺、片山先生にバレンタインのチョコ渡そうかな~」
それを聞いて、ええっ! という声が出た。他の男子が突っ込む。
「誰からももらえないからって、あげるほうに回るのかよ」
教室内に笑いが広がったが、駿は少しムカついた。あげるほうに回って何が悪い、それに抜け駆けはさせないぞ。
昨年末、駿は片山が北海道の大きなホールで歌っている動画を見た。タキシードを着てオーケストラの前で堂々と歌う片山があまりにカッコ良かったので、自分もこんな風になりたいと家族に口走ってしまった。駿は音楽が好きだが、ピアノ教室に通いながら、たぶんこれ以上上手くはならないだろうと思っている。授業で片山と一緒に歌うのが楽しいので、合唱などをやってみようかなとぼんやり考えていた矢先のことだった。
年明け、動画を見たことは伏せて、歌手になるにはどうしたらいいんだと片山に尋ねてみた。片山はピアノの鍵盤を拭きながら答えてくれた。
「今から高校の音楽科を受験するのは難しいぞ」
駿はどきっとして、思わず返す。
「おっ、俺がなりたいんじゃないよ、例えばの話だよ」
「え、そうなのか? まあ高校に入ってからピアノと声楽を習っても音大芸大には行けるぞ、大学を卒業しても頑張れば多少歌わせてもらえる」
音大を出ても必ずしも歌手になれるわけではないという。聞けば片山は、高校2年生から受験の準備を始め、大学を卒業後に大学院に行き、ドイツに留学していたらしい。すごい、と駿は素直に思った。
とにかく駿にとっても、現在片山は気になる存在なので、誰かがチョコレートを片山に渡して特別親しくなるのはちょっと気に入らない。駿は意を決して、一人で学校の最寄り駅近くにあるケーキ店に立ち寄り、店員に言い訳するように相談した。
「3月で卒業なので、お世話になった先生にひと足先にお礼を渡したい……と思って」
店員は駿の予算を聞き、いくつかのチョコレートギフトを見せてくれた。赤やピンクの可愛らしい箱に入ったそれらを見て、駿は気恥ずかしくなり、自分の行動を後悔してしまった。
水曜日、バレンタインデー当日。4限の音楽の授業が終わると、本当に片山にチョコレートを持って行く者がいて、駿は焦った。どうも既に別のクラスの授業の後にも、片山はチョコレートを受け取っていたらしく、笑いながら言う。
「史上最高にチョコもらってるんだけど、モテ期来たのかな」
「でも先生、男ばっかりじゃん」
「男からのチョコも歓迎だよ」
「何でもありかよ~」
歓談が一段落つくと、クラスメイトたちはぞろぞろと音楽室を出て行く。昼休みが始まり、廊下が賑やかになった。駿は鞄にゆっくりと教科書を片づけて、代わりに小さな紙袋を出した。そしてピアノの屋根を閉めている片山に近づく。
「先生、あの、これ……」
「え?」
片山は目を丸くしたが、紙袋と駿の顔を順番に見て、にっこり笑った。
「ありがとう、高校に上がって落ち着いたら、ご家族に相談して歌の先生探せよ……ピアノも辞めるな、先生に芸術系受験したいって話したら、これから何を弾けばいいか教えてくれる」
言われて駿は、いや、その、と視線を床に落とす。何でバレてるんだよ。片山は続ける。
「不安とか疑問があるなら相談に乗るから」
「あ……うん、まだ決めてないし」
駿は紙袋を片山に押しつけ、鞄を手に教室から出ようとした。顔が熱い。ドアのそばで立ち止まり、振り返って言葉をぶつける。
「また来週な、バイバイ」
片山は笑顔の横で右手を振っていた。左手には、駿が渡した淡いピンク色の紙袋がぶら下がっていた。
*初出 2024.2.15 ごめんなさい、何のために書いたのか記録が無い……あまりに暑いので、逆の季節のものを持ってきてしまいました。
三喜雄は大学院を卒業後、ドイツ留学を経て、フリーランスで歌いつつ、東京都内の某私立学校法人で小中学生に教えています。学校のモデルは学習院です。初等科と中等科での音楽教育が丁寧なのだそうです。
しかし今年、中等科男子3年周辺には、バレンタインデーを前に密やかに不穏な空気が流れている。一部の者が、週に1回だけ顔を見る男性教員に何やら気を取られているのだ。その教員は音楽を担当しており、現役の歌手だ。名を、片山という。
駿の学校は世間的には「いい学校」で、駿を含めて、小学生の時から個人的にピアノを習っている児童・生徒も多いからか、音楽教育に熱心なようである。一昨年、女性の教員と入れ替わりにやってきた片山は、いつもムスッとしていたその女の先生と違っていつもにこにこしているのが、まず生徒の警戒心と不信感を解いた。たまにちょっと天然ボケっぽいのだが、ピアノの前に座るとぴしっとなるギャップも面白い。
何よりも、片山はとてもいい声だ。前の先生が大きな声で歌うと耳にキンときて、いつも駿はうるさいと思ったのだが、片山の声は(もちろん大きいのだが)まろやかで、ほわっとしている。それに、片山は授業が終わると、自分たちの雑談に割とつき合ってくれて、子ども扱いしない。そんな訳で、片山の存在が「じわる」感じがする者が多いようで、遂に先月末、とある男子がおかしなことを言い出した。
「俺、片山先生にバレンタインのチョコ渡そうかな~」
それを聞いて、ええっ! という声が出た。他の男子が突っ込む。
「誰からももらえないからって、あげるほうに回るのかよ」
教室内に笑いが広がったが、駿は少しムカついた。あげるほうに回って何が悪い、それに抜け駆けはさせないぞ。
昨年末、駿は片山が北海道の大きなホールで歌っている動画を見た。タキシードを着てオーケストラの前で堂々と歌う片山があまりにカッコ良かったので、自分もこんな風になりたいと家族に口走ってしまった。駿は音楽が好きだが、ピアノ教室に通いながら、たぶんこれ以上上手くはならないだろうと思っている。授業で片山と一緒に歌うのが楽しいので、合唱などをやってみようかなとぼんやり考えていた矢先のことだった。
年明け、動画を見たことは伏せて、歌手になるにはどうしたらいいんだと片山に尋ねてみた。片山はピアノの鍵盤を拭きながら答えてくれた。
「今から高校の音楽科を受験するのは難しいぞ」
駿はどきっとして、思わず返す。
「おっ、俺がなりたいんじゃないよ、例えばの話だよ」
「え、そうなのか? まあ高校に入ってからピアノと声楽を習っても音大芸大には行けるぞ、大学を卒業しても頑張れば多少歌わせてもらえる」
音大を出ても必ずしも歌手になれるわけではないという。聞けば片山は、高校2年生から受験の準備を始め、大学を卒業後に大学院に行き、ドイツに留学していたらしい。すごい、と駿は素直に思った。
とにかく駿にとっても、現在片山は気になる存在なので、誰かがチョコレートを片山に渡して特別親しくなるのはちょっと気に入らない。駿は意を決して、一人で学校の最寄り駅近くにあるケーキ店に立ち寄り、店員に言い訳するように相談した。
「3月で卒業なので、お世話になった先生にひと足先にお礼を渡したい……と思って」
店員は駿の予算を聞き、いくつかのチョコレートギフトを見せてくれた。赤やピンクの可愛らしい箱に入ったそれらを見て、駿は気恥ずかしくなり、自分の行動を後悔してしまった。
水曜日、バレンタインデー当日。4限の音楽の授業が終わると、本当に片山にチョコレートを持って行く者がいて、駿は焦った。どうも既に別のクラスの授業の後にも、片山はチョコレートを受け取っていたらしく、笑いながら言う。
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「でも先生、男ばっかりじゃん」
「男からのチョコも歓迎だよ」
「何でもありかよ~」
歓談が一段落つくと、クラスメイトたちはぞろぞろと音楽室を出て行く。昼休みが始まり、廊下が賑やかになった。駿は鞄にゆっくりと教科書を片づけて、代わりに小さな紙袋を出した。そしてピアノの屋根を閉めている片山に近づく。
「先生、あの、これ……」
「え?」
片山は目を丸くしたが、紙袋と駿の顔を順番に見て、にっこり笑った。
「ありがとう、高校に上がって落ち着いたら、ご家族に相談して歌の先生探せよ……ピアノも辞めるな、先生に芸術系受験したいって話したら、これから何を弾けばいいか教えてくれる」
言われて駿は、いや、その、と視線を床に落とす。何でバレてるんだよ。片山は続ける。
「不安とか疑問があるなら相談に乗るから」
「あ……うん、まだ決めてないし」
駿は紙袋を片山に押しつけ、鞄を手に教室から出ようとした。顔が熱い。ドアのそばで立ち止まり、振り返って言葉をぶつける。
「また来週な、バイバイ」
片山は笑顔の横で右手を振っていた。左手には、駿が渡した淡いピンク色の紙袋がぶら下がっていた。
*初出 2024.2.15 ごめんなさい、何のために書いたのか記録が無い……あまりに暑いので、逆の季節のものを持ってきてしまいました。
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