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初めての老眼鏡
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「老眼です。あとは少しドライアイがありますけれど、大きな異常は無いですよ」
眼科医のにこやかな宣告を脳内で反芻しながら、江藤は眼鏡処方箋を手に、ショッピングモールの中の眼鏡店を目指していた。
確かに老眼が出てきても、おかしくない年齢だ。しかし、これまで眼科にはほとんど世話になったことが無いことや、肉体の明らかな老化を自覚していなかったことが、江藤を軽く打ちのめしていた。
老眼鏡は量販店でも作ってもらえるのだろうか。やはり、きちんとした眼鏡店に行くべきなのか。江藤にはそんな判断もつかない。フロアマップの前でぐずぐずしていると、背後から声を掛けられた。
「江藤さん?」
驚いて振り返ると、広報課の部下の山端が立っていた。彼の銀縁眼鏡の奥の目が、冷ややかに自分を見ている気がして、江藤の声が上擦る。
「ああ、山端? 買い物か? 家はこの近所だったか?」
もうすぐ広報課長になると期待されている山端は、優秀な部下の一人だ。江藤が課長になった時に新卒で入社してきた彼には、沢山のことを教えた。しかしここのところ、妻子に逃げられ、部長補で足踏みをしている江藤は、山端たちの世代に小馬鹿にされている。
気まずいことに、山端は独りのようだ。仕事も良くできてイケメンなのに、休日に一緒に出掛ける彼女はいないのだろうか。
「はい、ちょっと家電を見に……江藤さんは何を?」
山端に訊かれて、江藤は迷ったが、正直に答えた。山端はかなり強度の近眼で、眼鏡を手放せない。眼鏡店をよく利用しているはずだ。
「……老眼鏡を作るんだ、どこに頼めばいいか悩んでる」
銀縁眼鏡の部下は小首を傾げた。
「老眼? 早くないですか?」
「早くはないよ、目医者で処方箋も出てる」
はっきり言うと、と山端は前置きする。
「老眼は進むので、高いフレームでなくていいと思いますよ」
「あ、なるほど」
では俺はここで、と言うかと思いきや、山端は意外な行動に出た。
「江藤さん、眼鏡買ったことないんですよね? つき合います」
「えっ?」
山端はエスカレーターに向かって歩き始める。慌ててそのしゃんと伸びた背中を追うと、彼は3階の量販店に向かった。
眼鏡店は老若男女問わず、多くの客で賑わっていた。普段この店に近づかない江藤は、不思議な光景を見ている気分になる。
「眼鏡が必要な人って、多いんだなぁ」
「俺に言わせたら、裸眼で生きてる人が沢山いるほうが不思議ですけど」
山端は普段からさりげなくお洒落なことで有名だが、フレームの並ぶ棚に近づくと、すぐに江藤のために吟味し始めた。
「予算はどれくらいですか?」
印刷物の発注をするかのような口調で訊かれ、江藤はおろおろした。
「あ、いや、思ったより安いんだな……あまり安っぽくないほうが」
「そうですよね、この辺りで探しますか」
1万5千円コーナーでも小洒落たフレームが並んでいるので、江藤は驚く。山端が今日かけているような銀縁のオーバル型に手を伸ばすと、彼は駄目です、と冷ややかに言った。
「優しいフレームを選んだら、ますます周りから舐められますよ」
意味がわからず、江藤は部下の顔を見る。山端はその無表情から、予想できない言葉を繰り出した。
「俺に任せてもらえませんか?」
「は? え……」
「江藤さんの印象を眼鏡で変えると言ってます」
江藤は言われるがまま、山端が選ぶフレームを次々に試した。男性店員もその様子を眺め始める。そして、山端と店員の意見が一致した。
「あ、これ凄く似合う」
「いいですね、きりっとして知性が際立ちます」
言われて鏡を覗きこむと、青いチタンのスクエアフレームをかけた顔は、10年前、娘が産まれて課長に昇進し、希望に満ちて張り切っていた頃の自分を思い出させた。江藤は少し切なくなったが、確かに似合っているように思えたので、それを買うことに決めた。
処方箋を渡すと、混んでいると言われたが、それでも2時間半でレンズが入るという。江藤は山端にコーヒーを奢ることにした。
「ありがとう、老眼鏡かけ始めたって会社で笑われる率が、多少下がるかな」
その時初めて、山端は口許を緩めた。
「笑われたりしませんよ、若い連中が江藤さんのことを、本当はデキる人だと知るんです」
江藤はぽかんとしてしまう。山端は小さく笑った。
「俺は最初に仕事を教えてくれた江藤さんのことが、ずっと目標なんですけどね……ミスひとつしないし、ほとんどの奴が江藤さんにフォローされてるのに、江藤さんもみんなもわかってなさ過ぎる」
優秀な部下からそんな風に言われて、江藤の顔が熱くなった。山端は眼鏡の奥の目を少し細めて、何か呟いた。可愛い、と聞こえたように思えたが、聞き違いだろうと思った。
江藤は気に入っている喫茶店に、部下を連れて行くべく、先に立って歩く。眼鏡が出来上がるのが、楽しみだった。
*初出 2024.4.20 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「眼鏡」「意外」
冒頭の3文目まで、私が初めて老眼鏡をつくった時の体験そのまんまです。ところで、どこから湧いて出たリーマンたちでしょう! この頃少しワンライ(1時間で1作書く企画)で、既存キャラでない人々をその時々に生む努力をしていましたね。でも雰囲気から、この2人は株式会社エリカワの社員のような気がします。
眼科医のにこやかな宣告を脳内で反芻しながら、江藤は眼鏡処方箋を手に、ショッピングモールの中の眼鏡店を目指していた。
確かに老眼が出てきても、おかしくない年齢だ。しかし、これまで眼科にはほとんど世話になったことが無いことや、肉体の明らかな老化を自覚していなかったことが、江藤を軽く打ちのめしていた。
老眼鏡は量販店でも作ってもらえるのだろうか。やはり、きちんとした眼鏡店に行くべきなのか。江藤にはそんな判断もつかない。フロアマップの前でぐずぐずしていると、背後から声を掛けられた。
「江藤さん?」
驚いて振り返ると、広報課の部下の山端が立っていた。彼の銀縁眼鏡の奥の目が、冷ややかに自分を見ている気がして、江藤の声が上擦る。
「ああ、山端? 買い物か? 家はこの近所だったか?」
もうすぐ広報課長になると期待されている山端は、優秀な部下の一人だ。江藤が課長になった時に新卒で入社してきた彼には、沢山のことを教えた。しかしここのところ、妻子に逃げられ、部長補で足踏みをしている江藤は、山端たちの世代に小馬鹿にされている。
気まずいことに、山端は独りのようだ。仕事も良くできてイケメンなのに、休日に一緒に出掛ける彼女はいないのだろうか。
「はい、ちょっと家電を見に……江藤さんは何を?」
山端に訊かれて、江藤は迷ったが、正直に答えた。山端はかなり強度の近眼で、眼鏡を手放せない。眼鏡店をよく利用しているはずだ。
「……老眼鏡を作るんだ、どこに頼めばいいか悩んでる」
銀縁眼鏡の部下は小首を傾げた。
「老眼? 早くないですか?」
「早くはないよ、目医者で処方箋も出てる」
はっきり言うと、と山端は前置きする。
「老眼は進むので、高いフレームでなくていいと思いますよ」
「あ、なるほど」
では俺はここで、と言うかと思いきや、山端は意外な行動に出た。
「江藤さん、眼鏡買ったことないんですよね? つき合います」
「えっ?」
山端はエスカレーターに向かって歩き始める。慌ててそのしゃんと伸びた背中を追うと、彼は3階の量販店に向かった。
眼鏡店は老若男女問わず、多くの客で賑わっていた。普段この店に近づかない江藤は、不思議な光景を見ている気分になる。
「眼鏡が必要な人って、多いんだなぁ」
「俺に言わせたら、裸眼で生きてる人が沢山いるほうが不思議ですけど」
山端は普段からさりげなくお洒落なことで有名だが、フレームの並ぶ棚に近づくと、すぐに江藤のために吟味し始めた。
「予算はどれくらいですか?」
印刷物の発注をするかのような口調で訊かれ、江藤はおろおろした。
「あ、いや、思ったより安いんだな……あまり安っぽくないほうが」
「そうですよね、この辺りで探しますか」
1万5千円コーナーでも小洒落たフレームが並んでいるので、江藤は驚く。山端が今日かけているような銀縁のオーバル型に手を伸ばすと、彼は駄目です、と冷ややかに言った。
「優しいフレームを選んだら、ますます周りから舐められますよ」
意味がわからず、江藤は部下の顔を見る。山端はその無表情から、予想できない言葉を繰り出した。
「俺に任せてもらえませんか?」
「は? え……」
「江藤さんの印象を眼鏡で変えると言ってます」
江藤は言われるがまま、山端が選ぶフレームを次々に試した。男性店員もその様子を眺め始める。そして、山端と店員の意見が一致した。
「あ、これ凄く似合う」
「いいですね、きりっとして知性が際立ちます」
言われて鏡を覗きこむと、青いチタンのスクエアフレームをかけた顔は、10年前、娘が産まれて課長に昇進し、希望に満ちて張り切っていた頃の自分を思い出させた。江藤は少し切なくなったが、確かに似合っているように思えたので、それを買うことに決めた。
処方箋を渡すと、混んでいると言われたが、それでも2時間半でレンズが入るという。江藤は山端にコーヒーを奢ることにした。
「ありがとう、老眼鏡かけ始めたって会社で笑われる率が、多少下がるかな」
その時初めて、山端は口許を緩めた。
「笑われたりしませんよ、若い連中が江藤さんのことを、本当はデキる人だと知るんです」
江藤はぽかんとしてしまう。山端は小さく笑った。
「俺は最初に仕事を教えてくれた江藤さんのことが、ずっと目標なんですけどね……ミスひとつしないし、ほとんどの奴が江藤さんにフォローされてるのに、江藤さんもみんなもわかってなさ過ぎる」
優秀な部下からそんな風に言われて、江藤の顔が熱くなった。山端は眼鏡の奥の目を少し細めて、何か呟いた。可愛い、と聞こえたように思えたが、聞き違いだろうと思った。
江藤は気に入っている喫茶店に、部下を連れて行くべく、先に立って歩く。眼鏡が出来上がるのが、楽しみだった。
*初出 2024.4.20 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「眼鏡」「意外」
冒頭の3文目まで、私が初めて老眼鏡をつくった時の体験そのまんまです。ところで、どこから湧いて出たリーマンたちでしょう! この頃少しワンライ(1時間で1作書く企画)で、既存キャラでない人々をその時々に生む努力をしていましたね。でも雰囲気から、この2人は株式会社エリカワの社員のような気がします。
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