ほさちのBL小品詰め合わせ

穂祥 舞

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魔王は低く囁きかける

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 私がリビングの扉を開くと、彼はもう起き出して、うっすらエアコンの風がくるキッチンのテーブルに着いていた。耳にイヤホンを入れている。視線を落としているのは、楽譜らしい。
 彼の邪魔をしないよう、足音を立てないようにしてキッチンに回りこもうとした時、その唇からドイツ語がこぼれ出した。

「『坊や、坊や、私にはちゃんと見えている、あれは灰色になった古い柳の木だ』」

 シューベルトの「魔王」だ。少し声が掠れている。私は心配になって彼に近づき、目を伏せた横顔に話しかけようとした。すると彼がぱっとこちらを見た。

「あ、おはようございます」

 日本語の挨拶だった。あまりに真っ直ぐな目で見てくるので、どきりとさせられる。私はややどぎまぎとなるのを隠しつつ、おはよう、と返した。
 彼はスマートフォンで音楽を聴いていたらしく、画面を軽くタップして、両耳からワイヤレスのイヤホンをゆっくり外した。まだ眠いのか、動作が少し気怠げである。

「起こしてすみません」
「三喜雄に起こされた訳じゃないですよ」
「朝ごはんの用意を始めるつもりだったんですけど、つい」

 立ち上がろうとする彼を私は制した。
 諸事情で彼が私の部屋に居候することになって1ヶ月と少し経つ。こちらに気ばかり遣うので当初困惑したが、日本人らしい彼の性格で、自分の家のように過ごしたらいいとむやみに声をかけると、逆に彼にとってストレスになるようだとようやく理解し始めた。彼が過ごしやすいように心を砕くのも、最近の私の楽しみになりつつあるが、新居を見つけたから出て行くと言われる日を先延ばししたい思いがあるのは否定できない。
 私はケトルに水を汲み、パン切り包丁を出す。それを見て彼は、椅子を引いて食器棚に向かい、ふたつのマグカップに手を伸ばした。
 パンが焼け湯が沸くのを待つ間、誰の演奏を聴いているのか彼に訊いてみた。彼は決まり悪そうに答える。

「……俺です、昨日ピアニストと合わせたので」
「ああ、そうでしたね……聴きたいな」

 彼は少し迷ってから、イヤホンの片方をスウェットの袖口で拭き(汚いなんて思わないのに)、私に手渡した。それを私が左耳に入れるのを確認して、自分も右耳に片割れを入れる。音楽の続きが始まった。軽やかだが丁寧なピアノの三連符に、雑味の無いバリトンがすっと乗ってきた。

「『私はおまえが大好きだ、おまえの美しい姿に胸が熱くなる』」

 流れてきた彼の声に、内容も相まってぞくぞくした。彼はたまに、ノアさんはハンサムだからと半ば冗談で私に言うが、こんな風に思っていてくれたら、どれだけ嬉しいだろうか。そんなことをちらっと考える。
 優しく誘う歌声は、突然脅しに豹変した。私は彼の演技力にも驚く。

「『おまえにそのつもりが無くても、力尽くで連れて行くぞ!』」

 すると、あっ、と彼の素の声がした。ピアノの伴奏が止まり、私の知らない声が入る。

『どないした?』

 彼の半笑いの苦情が続いた。

『伴奏フォルテになるの早いよぉ』
『えっ? 123小節目までクレッシェンド無しやった?』
『楽譜上はそう』
『魔王凄んでるし叩きたい~、あかん?』

 2人の明るい笑い声に、私の胸の深いところがチリッと焼けた。真剣でいて楽しそうな、音楽家同士のやり取りは、私と彼とでは叶わない。
 そこで音が途切れた。彼を見ると、楽譜に手を置いたまま、すみません、と謝ってきた。

「馬鹿なこと言ってますけど、ちゃんと練習してるんで……」

 旧友とのざっくばらんな会話を聞かれて、彼は恥ずかしそうだった。こういう彼の反応がよく理解できないのだが、可愛らしいのでまあいいか、と済ませがちだ。
 共演するピアニストは、彼の学生時代からの友人だ。昨日神戸から出てきてすぐに練習に入ったはずだった。

「三喜雄がサボってるなんて思いませんよ、でも声が掠れるほど歌うのは良くない」
「あ、練習のせいじゃなくて、たぶんこの後松本と飲んで喋り過ぎて」

 トースターがチンと鳴り、湯の沸くしゅんしゅんという音が大きくなってきた。私は苦笑しつつイヤホンを外して、キッチンに向かう。

「紅茶と一緒に蜂蜜レモンを出しますね、今日は歌わずにゆっくり過ごしなさい」
「……すみません」

 彼は顔に似合わずよく飲む。私が声楽家でないからというのもあるだろうが、正直に話してくれるのが呆れるような嬉しいような、複雑な気分だった。とにかく、彼の喉をいたわるのが、今日の私のミッションらしい。
 この曲に彼が苦労していることが窺えた。何かネイティブとして、クラシックを聴いてきた数だけは誰にも負けない身として、アドバイスできることが無いか探そうと思いつつ、私は考える。
 私は魔王のように、狙った獲物を強引に連れて行くような真似はしない。甘やかして、籠絡する。彼のほうから、あなたについて行きたいと口にするまで、待つ。
 彼は私の不埒な思いも知らず、ティーバッグをマグカップに用意していた。


ノア・カレンバウアー×片山三喜雄 『恋する鳥刺し』(仮)
『彼はオタサーの姫』のバリトン歌手・三喜雄に、音楽家でない恋人を持たせてやりたい(やっぱり男だった……)と考え、只今絶賛下書き中です! 日本語ペラペラドイツ人ハイクラス男性のノアが、自称「しょぼいバリトン」三喜雄の理解者兼パトロン(?)として、三喜雄の成長を支える、という話になる予定です。
ここに登場しているピアニストは、『オタサーの姫』の松本咲真です。大学院卒業後も、三喜雄と共演しています。
*初出 2023.12.16 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題:イヤホン、掠れた声
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