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それは、摩天楼では見つからないもの
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雪に閉ざされた故郷から出てきて、独りでこの大都会で暮らし始めて2年経った時、父親が死んだ。それは奏人にとって、高崎家のほとんど因習めいた、長男という名の軛から自由になる最大最高のチャンスだった。
残る2年分の学費も生活費も、要らない。奏人は父方の親戚にそう言い、実質絶縁を突きつけた。そしてこれまでのカフェでのアルバイトに加え、風俗で稼ぎ始めた。
ゲイ専門の高級デリバリーヘルス。「元締め」の女性が客を厳選してくれるため、安心して働くことができた。この完全会員制クラブは、男性が好きなハイクラス男性のための秘密のオアシス。そのことを忘れないでと、いつも彼女は奏人たちスタッフに言い続けた。
学生時代に2年間、留学から戻りSEになってから約3年半、奏人はデリヘルのスタッフとして働いた。3回以上指名してくれた顧客は100人を越え、自覚は無かったのだが結構な売れっ子だった。接客で嫌な思いをしたことはほとんど無く、得意客は皆、上品でいい人ばかりだった。たまに、何でも金で自分の好きにできると信じている、少し困った人はいたけれど。
奏人は2度アメリカに留学に行ったが、ニューヨークは知らない。だから奏人にとっては、昔も今も港区のビル群がよく知る摩天楼だ。ここに日々勤める人たちの中にも得意客がたくさんいたので、この辺りにSEとして外回りに来ると、誰かに会わないかなと少し期待してしまう奏人である。
梅雨明けの太陽がぎらつく中、今日も奏人は新しい会社のパソコンの設置を終えて、摩天楼の中を歩いていた。一緒に仕事をした同僚はこれから渋谷でもうひと仕事あると言って、先に駅に向かった。現在パートタイマー勤務の奏人は直帰の許可が出ていたので、ケーキでも食べて帰ろうと考える。
その時、背後からそっと声を掛けられた。
「……かなと」
振り返るとそこには、確か5回ほど指名してくれて、その後中国に赴任したかつての得意客が立っていた。
「あっ、成瀬さん……?」
奏人の記憶にある姿より少し太っていたが、その上品な色合わせのシャツとネクタイや、何気に高級ブランドの銀縁眼鏡は紛れもなく、六本木のとある商社の経営本部長だった成瀬だった。
「覚えててくれたんだ」
「もちろんです、帰国してらしたんですね」
懐かしさに、奏人は顔がほころんだのを自覚した。成瀬は屈託ない奏人に、逆に戸惑ったようだった。こういう反応をする元得意客は多い。まあ、自分の性器の形まで知っているデリヘルボーイに昼間に会えば、そうなるのも致し方なかった。
「感染症で帰国せざるを得なかったんだよ、きみの『卒業』に立ち会えなくて済まなかったね」
奏人はデリヘルを辞める時、主だった得意客にその旨を報告した。その頃成瀬は蘇州に居たのだが、まだ会員として籍を残していたため、奏人は一応連絡したのだった。
「いえ、気になさらないでください」
「……ほんとにSEだったから驚いたよ」
成瀬の苦笑も無理はない。奏人はデリヘルスタッフ時代、普段の自分についてほぼ隠していなかった。源氏名も本名だったし、昼間はコンピュータを触っていると、訊かれれば答えた。しかし顧客の多くが信じていなかっただろうと、今になって思う。
「何か飲まないか? 時間的にコーヒーくらいしか無理なんだけど」
成瀬はすぐ傍のビルに迷わず入り、16階の奥まった場所にある喫茶店に奏人を連れて行った。穴場感の高いコーヒー専門店は、落ち着いた雰囲気で、大きな窓からは周囲のビルと空がよく見えた。
さっき奏人が配線をいじっていた事務所は、成瀬の勤務する商社の関連会社で、成瀬は現在ああいった小さな会社を統括する立場にあるらしかった。
「正直、野心があったからね……中国から急に戻されるようなことが無ければと、しばらく思ってたんだよ」
奏人は昔と同様、成瀬の話に黙って頷く。感染症のせいで人生設計が狂った人は、本当にたくさんいた。
「港区の摩天楼のてっぺんのほうで、どっかり座る夢……わかる?」
「わかりますよ、成瀬さんは夜のきらきらしたこの周辺が似合う人ですから」
奏人が言うと、成瀬はふっと笑った。ホットコーヒーと、上品なチョコレートケーキがやってくる。成瀬は奏人がチョコレートに目が無いことを覚えていたようだ。
「でも子会社の面倒を見るのも悪くなくてさ、社員一人一人に家族や守るべき生活があるって当たり前のことがよくわかるし……」
そういうのも成瀬らしいと奏人は思った。彼は続ける。
「私は男が好きだから家庭は持てない、でもそういう人間だからわかることもある、と思わない?」
「そうですね……でも成瀬さん、妻子だけが家庭の姿じゃないんで、まだ諦めるのは早いんじゃないですか?」
奏人が10歳年上のサラリーマンと暮らしていると話すと、成瀬は驚いた。
「これは、私にもチャンスがあったかな?」
「どうでしょう」
「かなとはお金が欲しいんじゃなかったんだね」
そう、金などどちらでもよかった。ただ、夜の摩天楼やネオン街で、男たちをけむに巻きながら泳ぎ回る自分の、ちょっと柔らかい部分をそっと受け止めてくれる人が欲しかった。
そこまで元顧客に語るつもりは無い。でも奏人にとって、自分を何度となく指名してくれた男性たちは、皆大切な人なのだ。ましてや、こうして「一般人」になった自分にも、気兼ねなく話しかけてくれる人は。
「成瀬さんに心休まる場所を与えてくれる人が現れることを祈ってます」
「かなとは相変わらず優しいね……名刺ってもらえる?」
奏人はSEとしての名刺を成瀬に手渡した。窓の外では、天を摩する建物の窓が、夕方の光を浴びてきらきら輝いていた。その煌びやかさよりもずっと素晴らしいものが、いつか成瀬の手に入ればいいと奏人は思った。
*初出 2024.7.20 #文披31題 Day20「摩天楼」
残る2年分の学費も生活費も、要らない。奏人は父方の親戚にそう言い、実質絶縁を突きつけた。そしてこれまでのカフェでのアルバイトに加え、風俗で稼ぎ始めた。
ゲイ専門の高級デリバリーヘルス。「元締め」の女性が客を厳選してくれるため、安心して働くことができた。この完全会員制クラブは、男性が好きなハイクラス男性のための秘密のオアシス。そのことを忘れないでと、いつも彼女は奏人たちスタッフに言い続けた。
学生時代に2年間、留学から戻りSEになってから約3年半、奏人はデリヘルのスタッフとして働いた。3回以上指名してくれた顧客は100人を越え、自覚は無かったのだが結構な売れっ子だった。接客で嫌な思いをしたことはほとんど無く、得意客は皆、上品でいい人ばかりだった。たまに、何でも金で自分の好きにできると信じている、少し困った人はいたけれど。
奏人は2度アメリカに留学に行ったが、ニューヨークは知らない。だから奏人にとっては、昔も今も港区のビル群がよく知る摩天楼だ。ここに日々勤める人たちの中にも得意客がたくさんいたので、この辺りにSEとして外回りに来ると、誰かに会わないかなと少し期待してしまう奏人である。
梅雨明けの太陽がぎらつく中、今日も奏人は新しい会社のパソコンの設置を終えて、摩天楼の中を歩いていた。一緒に仕事をした同僚はこれから渋谷でもうひと仕事あると言って、先に駅に向かった。現在パートタイマー勤務の奏人は直帰の許可が出ていたので、ケーキでも食べて帰ろうと考える。
その時、背後からそっと声を掛けられた。
「……かなと」
振り返るとそこには、確か5回ほど指名してくれて、その後中国に赴任したかつての得意客が立っていた。
「あっ、成瀬さん……?」
奏人の記憶にある姿より少し太っていたが、その上品な色合わせのシャツとネクタイや、何気に高級ブランドの銀縁眼鏡は紛れもなく、六本木のとある商社の経営本部長だった成瀬だった。
「覚えててくれたんだ」
「もちろんです、帰国してらしたんですね」
懐かしさに、奏人は顔がほころんだのを自覚した。成瀬は屈託ない奏人に、逆に戸惑ったようだった。こういう反応をする元得意客は多い。まあ、自分の性器の形まで知っているデリヘルボーイに昼間に会えば、そうなるのも致し方なかった。
「感染症で帰国せざるを得なかったんだよ、きみの『卒業』に立ち会えなくて済まなかったね」
奏人はデリヘルを辞める時、主だった得意客にその旨を報告した。その頃成瀬は蘇州に居たのだが、まだ会員として籍を残していたため、奏人は一応連絡したのだった。
「いえ、気になさらないでください」
「……ほんとにSEだったから驚いたよ」
成瀬の苦笑も無理はない。奏人はデリヘルスタッフ時代、普段の自分についてほぼ隠していなかった。源氏名も本名だったし、昼間はコンピュータを触っていると、訊かれれば答えた。しかし顧客の多くが信じていなかっただろうと、今になって思う。
「何か飲まないか? 時間的にコーヒーくらいしか無理なんだけど」
成瀬はすぐ傍のビルに迷わず入り、16階の奥まった場所にある喫茶店に奏人を連れて行った。穴場感の高いコーヒー専門店は、落ち着いた雰囲気で、大きな窓からは周囲のビルと空がよく見えた。
さっき奏人が配線をいじっていた事務所は、成瀬の勤務する商社の関連会社で、成瀬は現在ああいった小さな会社を統括する立場にあるらしかった。
「正直、野心があったからね……中国から急に戻されるようなことが無ければと、しばらく思ってたんだよ」
奏人は昔と同様、成瀬の話に黙って頷く。感染症のせいで人生設計が狂った人は、本当にたくさんいた。
「港区の摩天楼のてっぺんのほうで、どっかり座る夢……わかる?」
「わかりますよ、成瀬さんは夜のきらきらしたこの周辺が似合う人ですから」
奏人が言うと、成瀬はふっと笑った。ホットコーヒーと、上品なチョコレートケーキがやってくる。成瀬は奏人がチョコレートに目が無いことを覚えていたようだ。
「でも子会社の面倒を見るのも悪くなくてさ、社員一人一人に家族や守るべき生活があるって当たり前のことがよくわかるし……」
そういうのも成瀬らしいと奏人は思った。彼は続ける。
「私は男が好きだから家庭は持てない、でもそういう人間だからわかることもある、と思わない?」
「そうですね……でも成瀬さん、妻子だけが家庭の姿じゃないんで、まだ諦めるのは早いんじゃないですか?」
奏人が10歳年上のサラリーマンと暮らしていると話すと、成瀬は驚いた。
「これは、私にもチャンスがあったかな?」
「どうでしょう」
「かなとはお金が欲しいんじゃなかったんだね」
そう、金などどちらでもよかった。ただ、夜の摩天楼やネオン街で、男たちをけむに巻きながら泳ぎ回る自分の、ちょっと柔らかい部分をそっと受け止めてくれる人が欲しかった。
そこまで元顧客に語るつもりは無い。でも奏人にとって、自分を何度となく指名してくれた男性たちは、皆大切な人なのだ。ましてや、こうして「一般人」になった自分にも、気兼ねなく話しかけてくれる人は。
「成瀬さんに心休まる場所を与えてくれる人が現れることを祈ってます」
「かなとは相変わらず優しいね……名刺ってもらえる?」
奏人はSEとしての名刺を成瀬に手渡した。窓の外では、天を摩する建物の窓が、夕方の光を浴びてきらきら輝いていた。その煌びやかさよりもずっと素晴らしいものが、いつか成瀬の手に入ればいいと奏人は思った。
*初出 2024.7.20 #文披31題 Day20「摩天楼」
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