5 / 31
女神の箱庭の夕暮れ
しおりを挟む
キアランが神殿の裏に出ると、愛しい少年はイチイの大木の下にしゃがみこみ、地面を見つめていた。神通力の高い少年のことだから、虫や草花から精霊の声を聞いているのかもしれない。
邪魔をすべきではない気もしたが、祈りと食事の時間が近いので、キアランは彼を呼んだ。
「フラン」
その名の通り、美しい赤い髪をもつ少年は、振り返り機敏な動きで立ち上がった。
「キアラン先生」
「何を見ていた? 精霊が話しかけてきたのかな?」
師の問いかけに、フランは少しもじもじとした。
「いえ、小さな花を見つけて……春が来るんだなと思ってました」
キアランはそうか、と応じる。先日の神事で、月の女神の神託が降らず、この子の「相手」は決まらなかった。それにほっとしている自分を、不埒だと思う。
神官の一人であり、次期大神官の候補に挙がっている身なのに、「捧げ物」の少年に肩入れしているなんて。このままではおそらく、女神の罰に打ち倒されるだろうという恐れがあるのに、キアランのフランに対する執着じみた気持ちは、大きくなるばかりである。
フランは利発で素直な可愛い子だ。気味の悪いことばかり口走ると言われて、家族から忌避され育ったとは思えない。精霊の姿を感じとる能力は、「捧げ物」の他の少年たちと比べてずば抜けており、最近はたまに女神の声まで聴いている節がある。
大神官は、フランを「捧げ物」とせず、神官として育てたほうが良いかもしれないとちらりと口にした。その時キアランは大神官の前で、嬉しさを抑え込むのに苦労した。もしそうなればフランは、まだしばらく自分を師として慕ってくれるだろう。
神殿への道すがら、フランは夕暮れの空を見上げて、雲が流れるのを目で追う。
「先生、ローマの軍隊が近づいてるって本当なんですか?」
弟子の直接的な問いかけに、キアランはやや戸惑う。この賢い子には、ごまかしは通じないだろう。
「私たちの部族を叩きに来るのではない……しかし我々を纏める大長がローマに対抗すると決めたならば、覚悟は必要だろう」
キアランの説明に、フランは綺麗な形の目をこちらに向ける。その緑色の瞳は、夕暮れの光が混じり、晩秋の枯葉の色のようになった。
「覚悟、とは?」
「私たちは剣を取って戦うことはできない、しかし私たちが滅ぼされると、女神や精霊の祝福と戒めを皆に伝える者がいなくなる」
フランはキアランの言葉に、唇を引き結んだ。その表情には、子どもっぽさは見られなかった。
「そうなれば、それが部族の本当の滅亡となる……この神殿を捨てることになったとしても、我々は生き延びねばならない」
冷たい風が吹いた。フランは細い肩をすくめる。
「僕はこの神殿から離れたくないです」
ああ、そうだろうとも。キアランだってそうだからだ。全てが美しく設えられた、大いなる女神の奇跡の箱庭。しかし時に気紛れな月の女神は、彼女にとっては箱庭でしかないこの神殿と豊かな森を、自分たちから無慈悲に取り上げるかもしれない。
「そうならないように祈ろう、私たちにできることはそれしか無い」
キアランは上着を脱ぎ、フランの肩にかけてやった。彼はありがとうございます、と微笑した。寒く感じたのは冷えてきた風のせいだけではなく、見えない未来への畏れもあるのだろう。自分の温もりが少年を包み、慰めることができるなら、こんな嬉しいことはない。
無駄に死ぬな。いや、死なせはしない。
「フラン、ラテン語の勉強は進めたいか? 宮殿に頼めばもっと教えてくれる人がいる」
キアランが言うと、知的好奇心の旺盛なフランは、ぱっと笑顔になった。
「はい、お願いします」
ローマ人の言葉を学ぶことに否定的な者は、王族にも神官にもいる。しかし言葉は武器になる筈だと、キアランは考えていた。
その時フランのやや冷えた指先が、キアランの左の手の甲に触れた。キアランはその細い指を、掌に包み込んでやる。
「怖くなったのか? フランはいつまでも子どもだな」
「……怖いんじゃないです」
フランの拗ねたような声さえ愛おしい。春が近づく日暮れの光は、師弟に優しかった。このひとときこそがキアランにとって、女神と精霊の大きな祝福だった。
フラン、キアラン まだタイトルがついていない、古代ローマもののキャラクターです。主人公アウルス(攻め)はローマの軍人、フラン(受け)はケルトの月の女神アリアンロッド(厳密にはウェールズの女神ですが)の神殿に仕える身で、部族の王族と交わることで神の力を分け与える「捧げもの」候補です。アウルスは皇帝の命に従い、フランの部族を攻撃し……えっ? 誰や、こんな無駄に壮大なプロット考えたんは(汗)……。
BLワンライに参加した作家様が、皆難しいと苦戦したお題です。今読み返しても、ちょっと我ながら苦しいですが、ファンタジックな雰囲気のせいか、沢山の人にいいねしてもらった一作です。
*初出 2023.3.4 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「執着」「箱庭」
邪魔をすべきではない気もしたが、祈りと食事の時間が近いので、キアランは彼を呼んだ。
「フラン」
その名の通り、美しい赤い髪をもつ少年は、振り返り機敏な動きで立ち上がった。
「キアラン先生」
「何を見ていた? 精霊が話しかけてきたのかな?」
師の問いかけに、フランは少しもじもじとした。
「いえ、小さな花を見つけて……春が来るんだなと思ってました」
キアランはそうか、と応じる。先日の神事で、月の女神の神託が降らず、この子の「相手」は決まらなかった。それにほっとしている自分を、不埒だと思う。
神官の一人であり、次期大神官の候補に挙がっている身なのに、「捧げ物」の少年に肩入れしているなんて。このままではおそらく、女神の罰に打ち倒されるだろうという恐れがあるのに、キアランのフランに対する執着じみた気持ちは、大きくなるばかりである。
フランは利発で素直な可愛い子だ。気味の悪いことばかり口走ると言われて、家族から忌避され育ったとは思えない。精霊の姿を感じとる能力は、「捧げ物」の他の少年たちと比べてずば抜けており、最近はたまに女神の声まで聴いている節がある。
大神官は、フランを「捧げ物」とせず、神官として育てたほうが良いかもしれないとちらりと口にした。その時キアランは大神官の前で、嬉しさを抑え込むのに苦労した。もしそうなればフランは、まだしばらく自分を師として慕ってくれるだろう。
神殿への道すがら、フランは夕暮れの空を見上げて、雲が流れるのを目で追う。
「先生、ローマの軍隊が近づいてるって本当なんですか?」
弟子の直接的な問いかけに、キアランはやや戸惑う。この賢い子には、ごまかしは通じないだろう。
「私たちの部族を叩きに来るのではない……しかし我々を纏める大長がローマに対抗すると決めたならば、覚悟は必要だろう」
キアランの説明に、フランは綺麗な形の目をこちらに向ける。その緑色の瞳は、夕暮れの光が混じり、晩秋の枯葉の色のようになった。
「覚悟、とは?」
「私たちは剣を取って戦うことはできない、しかし私たちが滅ぼされると、女神や精霊の祝福と戒めを皆に伝える者がいなくなる」
フランはキアランの言葉に、唇を引き結んだ。その表情には、子どもっぽさは見られなかった。
「そうなれば、それが部族の本当の滅亡となる……この神殿を捨てることになったとしても、我々は生き延びねばならない」
冷たい風が吹いた。フランは細い肩をすくめる。
「僕はこの神殿から離れたくないです」
ああ、そうだろうとも。キアランだってそうだからだ。全てが美しく設えられた、大いなる女神の奇跡の箱庭。しかし時に気紛れな月の女神は、彼女にとっては箱庭でしかないこの神殿と豊かな森を、自分たちから無慈悲に取り上げるかもしれない。
「そうならないように祈ろう、私たちにできることはそれしか無い」
キアランは上着を脱ぎ、フランの肩にかけてやった。彼はありがとうございます、と微笑した。寒く感じたのは冷えてきた風のせいだけではなく、見えない未来への畏れもあるのだろう。自分の温もりが少年を包み、慰めることができるなら、こんな嬉しいことはない。
無駄に死ぬな。いや、死なせはしない。
「フラン、ラテン語の勉強は進めたいか? 宮殿に頼めばもっと教えてくれる人がいる」
キアランが言うと、知的好奇心の旺盛なフランは、ぱっと笑顔になった。
「はい、お願いします」
ローマ人の言葉を学ぶことに否定的な者は、王族にも神官にもいる。しかし言葉は武器になる筈だと、キアランは考えていた。
その時フランのやや冷えた指先が、キアランの左の手の甲に触れた。キアランはその細い指を、掌に包み込んでやる。
「怖くなったのか? フランはいつまでも子どもだな」
「……怖いんじゃないです」
フランの拗ねたような声さえ愛おしい。春が近づく日暮れの光は、師弟に優しかった。このひとときこそがキアランにとって、女神と精霊の大きな祝福だった。
フラン、キアラン まだタイトルがついていない、古代ローマもののキャラクターです。主人公アウルス(攻め)はローマの軍人、フラン(受け)はケルトの月の女神アリアンロッド(厳密にはウェールズの女神ですが)の神殿に仕える身で、部族の王族と交わることで神の力を分け与える「捧げもの」候補です。アウルスは皇帝の命に従い、フランの部族を攻撃し……えっ? 誰や、こんな無駄に壮大なプロット考えたんは(汗)……。
BLワンライに参加した作家様が、皆難しいと苦戦したお題です。今読み返しても、ちょっと我ながら苦しいですが、ファンタジックな雰囲気のせいか、沢山の人にいいねしてもらった一作です。
*初出 2023.3.4 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「執着」「箱庭」
20
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
僕の選んだバレンタインチョコレートはその当日に二つに増えた
光城 朱純
BL
毎年大量にバレンタインチョコレートをもらってくる彼に、今年こそ僕もチョコレートを渡そう。
バレンタイン当日、熱出して寝込んでしまった僕は、やはり今年も渡すのを諦めようと思う。
僕を心配して枕元に座り込んだ彼から渡されたのはーーー。
エブリスタでも公開中です。
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる