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初めての出張のご褒美

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 今日は晟一せいいちにとって、社会人になって初めての出張だった。と言っても、体調を崩してしまった先輩のピンチヒッターである。
 部長と課長と3人で出張とかありえへん、と同期からは言われたが、晟一は二つ返事で引き受け、今日一日とてもハッピーだった。何故なら、晟一は課長を尊敬しているし、部長は密かに恋する相手だからである。
 広報部長の石野いしの宏一ひろかずが営業課の自分たちに同行するのは異例で、この出張の重要度が高いことくらいは、2年目の平社員である晟一にも容易に察することができた。現に、新規の取引先候補である会社の担当者たちとの会議は濃密だった。晟一は課長が作ったパワーポイントの資料を課長の説明に合わせて操作し、部長の意見をその場の人間に言葉にして伝えた。
 石野部長は話せない人である。耳は聞こえるので、相手と筆談することが多い。晟一は手話の心得があり(高校時代に出会った石野と話したいから手話を始めた、という事実は周囲には話していない)、この会議では晟一が石野の手話を皆に通訳した。

「懇親会を言い出さん辺り、まだ気ぃ許してくれてへん感じですかねぇ」

 夕刻、先方の会社のビルを出て、JR名古屋駅まで戻ってくると、カフェで振り返りミーティングが始まってしまった。石野はふわりと笑みを浮かべ、常時携帯しているメモと細身のボールペンを取り出す。

『感触は悪くなかったと思いますよ、明日ランチに誘ってくれたらいいですね』

 メモに走る字を目で追いつつ、晟一はこっそり、いい字書かはるなぁ、などと思っている。鼻筋の通った横顔が凛々しい反面、目元に微かにできる笑い皺が、年上のひとに対して失礼かもしれないが、可愛らしい。
 石野が怒っているところを、晟一は見たことが無い。部署が違うので晟一が知らないだけかもしれないが。今日も先方に、結構シビアな質問を繰り出す人がいて、話せない石野に対する微かな差別混じりの不信感のようなものを醸し出してきた。晟一は密かにはらはらしたが、石野は柔和な表情を崩さなかった。
 営業課長は懇親会云々と言いながら、学生時代の友人と飲みに行く段取りができたと言って、先にカフェを出た。彼は関西人だが、愛知県の大学を卒業しているのだ。石野はそんな課長を苦笑気味で見送ったが、石野と2人になれた想定外のときめきに混乱気味の晟一は、チャンスをどう生かすべきか焦る。
 石野は普段、会社の人間とあまり飲み歩かないという噂だ。食事に誘ったら迷惑かもしれない。彼はちらっと腕時計を見てから、窓の外に目をやる。晟一もそれに倣うと、そこには暮れなずむ空が広がり、大阪の京橋や淀屋橋と同じように、帰宅を急ぐ人や待ち合わせに向かう人が行き交っている。
 どうしよう、このまま解散とか有り得へんし、そんなん一生の心残りになる。
 勇気の出ない晟一に向かって、石野が笑顔になり手を動かした。

「今日は木下きのしたくんが頑張ってくれてスムーズに進みました、何処かへ食事に行きましょうか?」

 晟一はびっくりして背筋を伸ばし、壊れた人形みたいに数回激しく頷く。顔が熱くなった。石野は手話を続ける。

「以前よく使った美味しい店があるのですが、かなり久しぶりなので調べます」

 石野はスマートフォンで検索を始めた。行きつけの店に連れて行ってくれるなんて、晟一の頭の中が、酒も入っていないのにふわふわする。
 店舗の情報が表示されたスマートフォンの画面を石野に見せられた晟一は、それをほとんど見ずに、はい、と答えた。石野と一緒に行けるなら、どんな離れた場所でも、何を出す店でも構わなかった。
 立ち上がり、連れ立ってカフェを出る。大好きな人について、地下鉄の乗り場に向かった。日が長くなったせいで、まだまだたっぷり石野と一緒に過ごせると勘違いしてしまいそうな晟一だった。


木下晟一&石野宏一(『トーク・サイレンス・スローリィ』)
おけいはん(京阪電車)の準急を通勤・通学に使う2人が出逢う物語です。本編では晟一は東海大仰星高校に入学したばかりの1年生、石野はパナソニックの本社に勤務している、という設定です。
*初出 2023.5.15 創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「暮れ泥む」「心残り」
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