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ひそかなねぎらい
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久しぶりに朔とゆっくりできる夜だというのに、朝から生憎の天気である。一緒に花見もしたいと思っていたが、今年の桜もこれで完全に終わりだった。
互いに社畜なので、致し方ない。そんなことを言いながら、晃嗣は朔と並んで歩いていた。傘をさす分だけ、互いの距離が少し遠い。
二人とも4月から少しだけ生活が変わったので、今夜はお互いをねぎらう会を計画していた。朔が予約してくれている、地鶏メニューの美味しい居酒屋に、ズボンの裾を濡らしながら向かった。店の前の道には、桜の木が並んでいたが、花はほぼ落ちてしまっていた。
外は雨と風のせいでかなり気温が下がったので、店の中が暖かくてほっとする。ビールが運ばれてくると、マスクを取った朔が笑顔になった。
「晃嗣さん、課長補昇進おめでとう」
グラスを軽くぶつけ合う。晃嗣はやや照れくさかった。4月1日付けで辞令が出たものの、自分の業務には特に変化はない。
「大げさだよ、今まで通りだ」
「そう? 新人の研修を絶賛実施中って聞いたよ」
「まあ研修ノートに上長サインはするようになったけど」
晃嗣は人事課に所属している。会社は中途採用の社員をあまり役職につけない傾向があるが、この春は晃嗣を含む数人が昇進した。課長補なんて、新卒採用され転職していない連中に比べると、かなり遅い昇進だ。何なら5歳年下の朔だって、所属している営業課で課長補になっていてもおかしくない。
研修もさることながら、新人の書類の処理も大変である。朔と花見ができなかったのは、晃嗣が忙しいからだった。
「はあぁ、俺も晃嗣さんに仕事手取り足取り教えてほしい……」
朔はビールを半分飲み、意味のわからないことを言った。焼き鳥とサラダがやってきたので、晃嗣は取り皿に分けてやる。
「教えなきゃいけない立場だろうに、何言ってんだ……朔さんだって入社した時は、手取り足取り教えてもらっただろ?」
営業課には課長を筆頭に、優秀な社員が沢山いる。上がつかえて昇進できないくらいである。
「もちろんだよ……でも何かさ、晃嗣さんにさ、『ほらここ間違ってるぞ、これはここのフォルダに入ってるからこれで出すんだ、うんよくできた』とか言ってほしい」
何だその妄想プレイは。晃嗣は思わず笑ったが、朔はビールのせいでなく、彼にしては力の無い目になっていた。焼き鳥を勧めると、いつものようにもぐもぐと、美味しそうに口を動かした。
「朔さん……もしかして、副業辞めたのが寂しいのか?」
晃嗣の言葉に、朔はぱっと目を上げた。
「あ……」
珍しく朔の目が少し泳ぐ。彼は言葉を選びながら話し始めた。
「いや、自分で決めたことだから後悔はしてないよ……ただ何となく、水曜の夜とか手持ち無沙汰……かもしれない」
朔は3月の末まで、ゲイ専デリヘルで週2日だけ働いていた。晃嗣は彼の同僚である前に、彼の客だった。
人気スタッフだった朔がデリヘルを離れた理由は、晃嗣と交際を始めたからだけではない。朔を取り巻く環境が少しずつ変わり、潮時だと判断したのだ。
晃嗣は朔の決定に反対しなかったが、両手を上げて賛成した訳でもなかった。長く続けた副業は、大っぴらにできるものではなかったとは言え、朔をいろいろな角度から支えていたと思うからだ。
「じゃあ水曜の夜は……一緒に食事をするようにしよう」
晃嗣は提案してみた。朔は焼き鳥の串を持ったまま、瞬いた。
「毎週? いいの?」
「100パーセントは無理だろうけど」
晃嗣は真面目に答えているのに、朔はああっ、と芝居がかってテーブルに突っ伏した。
「こうちゃんが俺のために……」
「本当に大げさだな」
2杯目のビールと鶏コロッケが来たので、朔は顔を上げた。ふと晃嗣は思う。たまには甘えたいのかな。
「晃嗣さん、見て」
朔は窓の外を指差した。強い雨がアスファルトに水溜りをつくり、道路脇の桜から落ちた花びらがその表面を埋めていた。
「花筏だ」
「こんなとこでもきれいなものだな」
「晃嗣さんと見れて良かった」
嬉しそうな朔は、可愛らしく見えた。今夜は彼の家に泊まるつもりでいるが、ちょっと頑張って、甘えさせてやろうと晃嗣は思う。密かに新しい生活を始めている朔に、エールを送るために。
朔×晃嗣(『出来心、あるいは、必然。』)
同じ会社の違う部署に勤める、サラリーマン同士。年下攻めです。実はこの2人、タチ同士のため、未だ「結ばれていない」関係です。このお話は、本編完結の4か月後という設定ですね!
*初出 2023.4.1 創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「桜流しの雨」「新生活」
互いに社畜なので、致し方ない。そんなことを言いながら、晃嗣は朔と並んで歩いていた。傘をさす分だけ、互いの距離が少し遠い。
二人とも4月から少しだけ生活が変わったので、今夜はお互いをねぎらう会を計画していた。朔が予約してくれている、地鶏メニューの美味しい居酒屋に、ズボンの裾を濡らしながら向かった。店の前の道には、桜の木が並んでいたが、花はほぼ落ちてしまっていた。
外は雨と風のせいでかなり気温が下がったので、店の中が暖かくてほっとする。ビールが運ばれてくると、マスクを取った朔が笑顔になった。
「晃嗣さん、課長補昇進おめでとう」
グラスを軽くぶつけ合う。晃嗣はやや照れくさかった。4月1日付けで辞令が出たものの、自分の業務には特に変化はない。
「大げさだよ、今まで通りだ」
「そう? 新人の研修を絶賛実施中って聞いたよ」
「まあ研修ノートに上長サインはするようになったけど」
晃嗣は人事課に所属している。会社は中途採用の社員をあまり役職につけない傾向があるが、この春は晃嗣を含む数人が昇進した。課長補なんて、新卒採用され転職していない連中に比べると、かなり遅い昇進だ。何なら5歳年下の朔だって、所属している営業課で課長補になっていてもおかしくない。
研修もさることながら、新人の書類の処理も大変である。朔と花見ができなかったのは、晃嗣が忙しいからだった。
「はあぁ、俺も晃嗣さんに仕事手取り足取り教えてほしい……」
朔はビールを半分飲み、意味のわからないことを言った。焼き鳥とサラダがやってきたので、晃嗣は取り皿に分けてやる。
「教えなきゃいけない立場だろうに、何言ってんだ……朔さんだって入社した時は、手取り足取り教えてもらっただろ?」
営業課には課長を筆頭に、優秀な社員が沢山いる。上がつかえて昇進できないくらいである。
「もちろんだよ……でも何かさ、晃嗣さんにさ、『ほらここ間違ってるぞ、これはここのフォルダに入ってるからこれで出すんだ、うんよくできた』とか言ってほしい」
何だその妄想プレイは。晃嗣は思わず笑ったが、朔はビールのせいでなく、彼にしては力の無い目になっていた。焼き鳥を勧めると、いつものようにもぐもぐと、美味しそうに口を動かした。
「朔さん……もしかして、副業辞めたのが寂しいのか?」
晃嗣の言葉に、朔はぱっと目を上げた。
「あ……」
珍しく朔の目が少し泳ぐ。彼は言葉を選びながら話し始めた。
「いや、自分で決めたことだから後悔はしてないよ……ただ何となく、水曜の夜とか手持ち無沙汰……かもしれない」
朔は3月の末まで、ゲイ専デリヘルで週2日だけ働いていた。晃嗣は彼の同僚である前に、彼の客だった。
人気スタッフだった朔がデリヘルを離れた理由は、晃嗣と交際を始めたからだけではない。朔を取り巻く環境が少しずつ変わり、潮時だと判断したのだ。
晃嗣は朔の決定に反対しなかったが、両手を上げて賛成した訳でもなかった。長く続けた副業は、大っぴらにできるものではなかったとは言え、朔をいろいろな角度から支えていたと思うからだ。
「じゃあ水曜の夜は……一緒に食事をするようにしよう」
晃嗣は提案してみた。朔は焼き鳥の串を持ったまま、瞬いた。
「毎週? いいの?」
「100パーセントは無理だろうけど」
晃嗣は真面目に答えているのに、朔はああっ、と芝居がかってテーブルに突っ伏した。
「こうちゃんが俺のために……」
「本当に大げさだな」
2杯目のビールと鶏コロッケが来たので、朔は顔を上げた。ふと晃嗣は思う。たまには甘えたいのかな。
「晃嗣さん、見て」
朔は窓の外を指差した。強い雨がアスファルトに水溜りをつくり、道路脇の桜から落ちた花びらがその表面を埋めていた。
「花筏だ」
「こんなとこでもきれいなものだな」
「晃嗣さんと見れて良かった」
嬉しそうな朔は、可愛らしく見えた。今夜は彼の家に泊まるつもりでいるが、ちょっと頑張って、甘えさせてやろうと晃嗣は思う。密かに新しい生活を始めている朔に、エールを送るために。
朔×晃嗣(『出来心、あるいは、必然。』)
同じ会社の違う部署に勤める、サラリーマン同士。年下攻めです。実はこの2人、タチ同士のため、未だ「結ばれていない」関係です。このお話は、本編完結の4か月後という設定ですね!
*初出 2023.4.1 創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「桜流しの雨」「新生活」
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