今宵貴方と見る月は ～あきとかなnext 〜 《あきとかな後日談集》

小さな春の嵐

その3 ②

「出させてほしいと言ってるなら、話を聞いてみてもいいんじゃないか？　もし出版のために大金を出せって言われたら、詐欺だろうから断ればいいと思う」

　暁斗は少し心配そうな奏人に話したが、かつて品の無い客からの脅しめいた言葉にも平然と言い返し、暁斗を守るために株式会社エリカワの専務たちを追い詰めるような行動を取ったことがある奏人が、こんなことでためらうのが微妙に可笑しい。
　暁斗は会社の「相談室」を通じて、これまでいろいろな仕事をしている人と知り合ったが、中にはインターネットの海で新しい才能を探している、スカウトのような人がいる。奏人のように日々絵をアップしたり、動画サイトで演奏を披露したりすることで、そういった人たちのアンテナに引っかかることがあるのだ。
　イラストレーターKanatoのアカウントには、現在世界中に1万人近いフォロワーがいる。人気のある絵には数十万のいいねがつき、困ったことにモデルの「Akito」までちょっとした有名人だ。昨年はクラシックのコンサートのフライヤーを数件、有償でデザインした。また、毎週金曜日に奏人が教えに行っている大学の文芸部が、彼の絵を挿絵にして文集をつくり、所謂同人誌即売会のような場所で1刷分が完売するほど評判になった。出版社から画集を出さないかと奏人にお声がかかっても、全然不思議ではない。
　その辺りを説明すると、奏人はようやく納得したようだった。

「うん、じゃあ1回会ってみようかな」
「心配だったらついて行くよ、奏人さんが打ち合わせしてるテーブルの後ろで張りこんでもいいし」

　暁斗は冗談を言ったつもりは無かったが、奏人はくすっと笑った。

「もしかしたら頼むかも」

　奏人はノートパソコンを持って、また部屋に戻った。大したものだなと、暁斗はしみじみと感心する。こういう話はきちんと固まるまで、周囲に漏らしてはいけない場合が多いというが、家族でも駄目なのだろうか。奏人の絵の一番弟子である、施設で暮らす少女、杏菜あんなや、彼の高校時代の先輩のバリトン歌手、片山も驚くことだろう。
　暁斗はパートナーのこんな話を聞いてようやく、自分も人事から声をかけられたことを思い出した。戻ってきてソファに腰を下ろした奏人に、話しかける。

「今日、総務人事の部長の西山さんと久しぶりに会議で顔を合わせたんだけど」
「西山さん？　ああ、あの明るい、プチパリピなおじさん」

　奏人の返しに暁斗は苦笑した。2人で一緒に出席した結婚式で、奏人が西山と会った時、まさしくそんな感じだったからだ。

「そうそう、あの西山さんが、俺に6月に辞令が出るかもしれないって言ってきた」

　奏人は目をぱちくりさせる。

「えっ！　まさか、転勤？」
「いや、西山さんの口ぶりだと、昇進じゃないかな」
「そうなの？　でも暁斗さん、何だか他人事っぽい」

　突っ込まれた暁斗は、そんなことはないぞ、と答えてみたものの、昇進して忙しくなるのは正直嫌だなと思った。課長と呼ばれる時間が長くなり過ぎて、上へ行くことへの欲望が褪せてしまったかもしれない。

「でも西山さんは部長とはっきり言わなかったし、営業課の再編の必要性も取り沙汰されてるから……何か変なポストかもしれない」
「変なポストって？」
「何というか、中途半端な……あっ、部長補とかかな？　今営業には無いから」

　暁斗の会社は、ポストに社員をすぐにつけられない時に、ナントカ補をつくって対応する傾向がある。昨年4月に人事課長補になった柴田は、中途採用者で初めて役職付きになった栄えある優秀な人材だが、課長にしてやればいいのに、まだエリカワに転職してからの年数が足りないとでも判断されたのか、新しくできたポストを与えられたのだ（役職名通り、彼は今や人事課長の右腕である）。

「でも山中さんも、企画部長補になってから結構すぐに部長に上がらなかった？　そういうことなんでしょ？」

　奏人はにこやかに言ってくる。暁斗の昇進に興味があるとは、意外だった。

「まあ、そういうことなのかな……俺も早く上に退いて、デキる営業女子が初の女性課長補になれるように場所を空けたいんだけど」