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拝啓、北の国から

12月28日 19:50①

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 このホールの客席が独特な形をしているせいかもしれないが、暁斗はここを不思議な空間だと思う。2000人近い人間が、何らかのきっかけを持ってこの場所に集い、ホールの中心に立つ芸術家たちの演奏に耳を傾ける。
 観衆の視線を一身に浴びる人々が、押し黙った観衆の聴覚に快い音楽を提供し、彼らの脳をカタルシスのような状態に陥らせる。この点が、サッカースタジアムや野球場で起きることとは少し違う。もちろんコンサートは視覚的にも面白いが、普段目から見える情報を一番の拠り所としている暁斗にとって、鼓膜を絶え間なく叩かれる感覚は、奏人と出会って知ったものに、少し似ているような気がする。触れられたことの無い場所に刺激を与えられ、それまで知らなかった快感に震える体験。
 ホールの中に戻ると、多くの人が席についていた。連れと話したり、パンフレットを眺めたりしている。奏人は暁斗の先に立ち、席に向かうために緩やかな階段を降りて行った。
 演奏は至極真面目だが、学生たちが編集したパンフレットはなかなか笑えた。パート毎のメンバー紹介、2度の合宿の写真、おそらく学生たちが会社や店舗に依頼して掲載した、てんでばらばらの業種の広告。
 ドリンクコーナーで喋っていた女の子たちの話の通り、合宿の写真の中には、Tシャツにジーンズ姿の片山の姿があった。男子学生たちの前で、楽譜を見ながら何か指示している。「バスパートの不埒者どもは、めちゃくちゃなフーガで片山さんを悩ませたあげく、彼女を満足させるHow to sexといった野卑な相談までしたという。地獄の罰を受けよ」とコメントがついていて、暁斗は思わず笑った。
 暁斗が開いているパンフレットを覗きこんできた奏人が、その写真を見て、溜め息混じりに言った。

「高校のグリークラブもちょっとこういう雰囲気あったけど、音楽系部活って、暁斗さんのテニス部とは違った意味で野蛮だよね……」
「何で俺の部活を引き合いに出すんだよ」

 暁斗は思わず言い返す。コメントが事実だとして、この年齢の男の子たちはセックスしたい盛りなのだから、むしろ健全だ。まあ、指導に来てくれたソリストに相談することではないような気もするが。

「……片山さん何て返したのかな」
「そこを気にする暁斗さんも野蛮……片山先輩も話しやすい人だから、仕方ないけどね」

 奏人は本気で呆れている様子だ。こういう時、育ちの違いを感じる暁斗だが、片山はおそらく、何かと感覚的に暁斗と近い。ソリストだからといって偉そうに振る舞うタイプではなさそうなので、学生のどぎつい質問にも目くじらを立てずに対応したように思える。
 開演5分前のベルが鳴った。それと同時に、オーケストラのメンバーが舞台に出てくる。下の階に、急いで席に戻ってくる人たちが見えた。奏人は舞台が人で埋まっていくのを見つめながら言った。

「西澤先生はこのレクイエムがあまり好きじゃなかったんだけど、次のソリストの四重唱は美しいって言ってた」

 奏人の口調には、懐かしさが刷かれている。彼は、祖父ほども年齢の離れた、師であり恋人でもあったフランス文学の研究者の話を基本的にしない。しかしこんな言葉が出るほどには、今日という日に心が解かれているのかもしれなかった。

「いいソリストが歌えば、それだけで元が取れる部分だって河島も言ってたな」

 暁斗は、舞台に出てきた合唱団がひな壇に上がるのを見ながら言った。そうだね、と奏人も同意する。

「合唱曲のソリストって、基本リハでしか合わせないんだよね……4人のソリストががっつり歌うから、個々の技術とセンスが問われるんじゃないかなぁ」
「ちょっとジャズのセッションみたいな感じかな」
「アドリブは無いけど、ヴェルディだとテンポも揺れるし、タイミングとかは指揮と共演の呼吸を見て測るんだと思うよ」

 複数人で演奏するというのは、それだけで大変なのだ。テニスも、ダブルスには独特の難しさがある。会社の仕事だって、自分一人で動けたらどれだけ楽だろうと思うこともある。
 再度ベルが鳴り、舞台と客席の明かりが反転した。チューニングが始まると、ホールの中が一気に音に満たされる。やがて音が止み、下手から片山を先頭にソリストたちが登場した。拍手は期待感に溢れて、最初よりもかなり大きいように暁斗には感じられた。
 指揮者が客席に背を向け右手を挙げると、合唱団が全員座った。少し遅れて、ソリストのうち、ソプラノとバスが座る。メゾソプラノとテノールは、立ったまま楽譜を椅子に置いた。後ろから、外すのか、とこそっと声がする。
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