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拝啓、北の国から
12月28日 17:00③
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レモングラスのハーブティを選んだ草野のために、三喜雄はカップを用意する。
「本番前は食べないんでしたっけ?」
三喜雄はさりげなく尋ねた。18時半開演で、今日は途中で休憩が入るので、2時間の長丁場になる。演目が大曲でもあり、今何か口にしないと前半さえ持たないだろう。
草野は学生時代と変わらない、さばさばした口調で答えた。
「うーん、そんなことない……今食べたくないの」
「舞台で倒れますよ」
自分のためにルイボスティを淹れ、三喜雄は2つのプラスチックのカップを手にする。そして片方を草野の前に置き、ソファに腰を下ろした。彼女は微笑する。
「調子も悪くはないんだけど」
「それはゲネ聴いててわかりました」
「ホールに助けられてるのも大きいかな……ま、緊張してるんだろうね」
草野はカップに口をつけた。どんな言葉をかけても、他人が本番前の音楽家の気持ちを解すことはできないと、三喜雄は知っている。ただ、傍にいるだけだ。
美味しい、と草野は呟く。
「片山くんはどう思ってるの? 前評判、いろいろ聞いてるでしょ?」
三喜雄は苦笑した。実は三喜雄も、今回のソロは荷が重いと言われているからだ。
「先輩は大丈夫ですよ、元々ロマン派の曲も得意だし、ヴェルディも演ってるでしょう?」
「まあね……片山くんもしかして、ヴェルディ初めてなのかな」
はい、と三喜雄が茶化す笑顔で答えたので、草野は笑った。
「俺はしみったれたドイツ歌曲歌いですから、しょぼいと思われても仕方ないです」
「ドイツでオペラデビューしたんだよね? パパゲーノだっけ?」
「代役ですけどね、つかモーツァルトだし」
大丈夫だよぉ、と彼女は上半身を三喜雄のほうに傾けた。
「片山くんは本番オバケだもん……」
「何なんですかそれ」
そんな風に言われているとは知らなかった三喜雄は、軽く驚く。どちらかというと、褒められているようだが。
「でもちょっとテノールがイケイケすぎて、隣でやりにくいかな」
草野の言葉が的を得すぎていて、笑えた。
「大丈夫です、あいつの通常運転なんで」
「さすが、嫁は落ち着いてるね」
「……それNGワードに設定していいですか?」
草野は三喜雄が真顔で言うのを見て、からからと笑った。
「あーあ、面白い片山くん健在で癒されたわ」
学生時代から今まで、自分が面白いと言われることに納得していないのだが、先輩の表情が少し柔らかくなったので良しとした。三喜雄はルイボスティを飲み干し、言った。
「俺にできることなら手伝うんで、言ってくださいね……まだ1時間あるからパン1個だけでも食べて、飛び出したがるイケイケテノールに手綱をつけてやりましょう」
草野が笑いながら頷くのを見て、三喜雄は彼女に向かって親指を立ててから、その場を辞した。廊下に出ると、ちょうど速水が片手に袋を持って戻ってきたので、彼女にも頷いておく。
「たぶんちょっと浮上しました」
「ありがと片山くん、お互い上を支えるのが大変な曲だけど頑張ろう、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
その時三喜雄は、経験豊富な速水でも、大曲のソロを前に緊張感を覚えていることを、その表情から察した。それを打ち消すためか、彼女は軽口を叩く。
「片山くんが癒し系だって噂が本物だと本日確認したわ」
「その噂、俺は初耳なんですけど」
「若い女の子たちから結構聞くわよ? よかったら私の嫁にもなって」
「前向きに検討します」
お互い笑い合い、楽屋に戻る。もうこの際、嫁にしたい男No. 1を目指そう。三喜雄は苦笑した。塚山がお疲れ、と手を挙げてねぎらってくれた。
ガーメントバッグからタキシードを出すべく、パイプハンガーに向かう。とりあえずこれから、俺がピアノの前でドイツ語でちんまり歌うのが精一杯だとか書き込んだ奴には、思い知らせてやる。そんなことを考える自分は、常に攻撃的な塚山の悪影響を受けているかもしれないと三喜雄は思った。
「本番前は食べないんでしたっけ?」
三喜雄はさりげなく尋ねた。18時半開演で、今日は途中で休憩が入るので、2時間の長丁場になる。演目が大曲でもあり、今何か口にしないと前半さえ持たないだろう。
草野は学生時代と変わらない、さばさばした口調で答えた。
「うーん、そんなことない……今食べたくないの」
「舞台で倒れますよ」
自分のためにルイボスティを淹れ、三喜雄は2つのプラスチックのカップを手にする。そして片方を草野の前に置き、ソファに腰を下ろした。彼女は微笑する。
「調子も悪くはないんだけど」
「それはゲネ聴いててわかりました」
「ホールに助けられてるのも大きいかな……ま、緊張してるんだろうね」
草野はカップに口をつけた。どんな言葉をかけても、他人が本番前の音楽家の気持ちを解すことはできないと、三喜雄は知っている。ただ、傍にいるだけだ。
美味しい、と草野は呟く。
「片山くんはどう思ってるの? 前評判、いろいろ聞いてるでしょ?」
三喜雄は苦笑した。実は三喜雄も、今回のソロは荷が重いと言われているからだ。
「先輩は大丈夫ですよ、元々ロマン派の曲も得意だし、ヴェルディも演ってるでしょう?」
「まあね……片山くんもしかして、ヴェルディ初めてなのかな」
はい、と三喜雄が茶化す笑顔で答えたので、草野は笑った。
「俺はしみったれたドイツ歌曲歌いですから、しょぼいと思われても仕方ないです」
「ドイツでオペラデビューしたんだよね? パパゲーノだっけ?」
「代役ですけどね、つかモーツァルトだし」
大丈夫だよぉ、と彼女は上半身を三喜雄のほうに傾けた。
「片山くんは本番オバケだもん……」
「何なんですかそれ」
そんな風に言われているとは知らなかった三喜雄は、軽く驚く。どちらかというと、褒められているようだが。
「でもちょっとテノールがイケイケすぎて、隣でやりにくいかな」
草野の言葉が的を得すぎていて、笑えた。
「大丈夫です、あいつの通常運転なんで」
「さすが、嫁は落ち着いてるね」
「……それNGワードに設定していいですか?」
草野は三喜雄が真顔で言うのを見て、からからと笑った。
「あーあ、面白い片山くん健在で癒されたわ」
学生時代から今まで、自分が面白いと言われることに納得していないのだが、先輩の表情が少し柔らかくなったので良しとした。三喜雄はルイボスティを飲み干し、言った。
「俺にできることなら手伝うんで、言ってくださいね……まだ1時間あるからパン1個だけでも食べて、飛び出したがるイケイケテノールに手綱をつけてやりましょう」
草野が笑いながら頷くのを見て、三喜雄は彼女に向かって親指を立ててから、その場を辞した。廊下に出ると、ちょうど速水が片手に袋を持って戻ってきたので、彼女にも頷いておく。
「たぶんちょっと浮上しました」
「ありがと片山くん、お互い上を支えるのが大変な曲だけど頑張ろう、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
その時三喜雄は、経験豊富な速水でも、大曲のソロを前に緊張感を覚えていることを、その表情から察した。それを打ち消すためか、彼女は軽口を叩く。
「片山くんが癒し系だって噂が本物だと本日確認したわ」
「その噂、俺は初耳なんですけど」
「若い女の子たちから結構聞くわよ? よかったら私の嫁にもなって」
「前向きに検討します」
お互い笑い合い、楽屋に戻る。もうこの際、嫁にしたい男No. 1を目指そう。三喜雄は苦笑した。塚山がお疲れ、と手を挙げてねぎらってくれた。
ガーメントバッグからタキシードを出すべく、パイプハンガーに向かう。とりあえずこれから、俺がピアノの前でドイツ語でちんまり歌うのが精一杯だとか書き込んだ奴には、思い知らせてやる。そんなことを考える自分は、常に攻撃的な塚山の悪影響を受けているかもしれないと三喜雄は思った。
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