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拝啓、北の国から
12月28日 17:00①
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ゲネプロが終わり、ソリストは先に楽屋に戻る予定になっていたので、片山三喜雄は指揮者とコンサートマスター、それに大学生約90人で構成される合唱団に軽く挨拶して、舞台の上手から下手の袖に向かった。若者たちの拍手を受けるのは、少し照れくさい。
袖に入る前に、関係者がぽつぽつとしか座っていない広い客席を振り返った。初めてこの舞台に立ったのは18歳の時だから、15年ぶりということになる。あれからいろいろな国内外の舞台に立ったが、ここは本当に美しいホールだと三喜雄は思う。今夜は地元の友人知人だけでなく、東京から観に来てくれる人もいるので、本番が楽しみだ。
三喜雄はテノールの塚山天音と同じ楽屋を割り当てられていた。札幌市が誇るこのホールがオープンして20年、バックヤードもまだまだきれいで快適である。今日のように15時楽屋入りの長丁場では、楽屋の居心地がいいことは大切だ。しかし塚山が荷物を広げるので、2人で使うには広いはずなのに、悪い意味でちょうどいいくらいになっていた。
「片山、何飲む?」
このテノール歌手と三喜雄とのつき合いは長いが、同じ舞台に立つのは、プロとしては初めてである。故郷で職業音楽家として迎える最初の本番が、このホールでこの共演者だということは、素直に嬉しいし安心感があった。
「お茶……てか、何でそんないろいろ持って来てるんだよ」
思わず三喜雄が突っ込むと、紅茶にコーヒーにほうじ茶に緑茶、ルイボスティにハーブティまでテーブルに広げていた塚山は、え? と言った。
「せっかくおまえと一緒の楽屋だからさぁ」
「ピクニックじゃないぞ」
三喜雄は鞄から2個のおにぎりを出しながら言った。塚山はサンドウィッチを持参していて、ドリップバッグのコーヒーと緑茶のティーバッグに、ポットの湯を注ぐ。匂いが充満しそうなので、三喜雄は楽屋の扉を開け放した。塚山と一緒の舞台に上がるのは、楽しみであり安心でもあるが、ゲネプロや今の様子を見るに、ちょっとテンションが高いようなので、ややこしいかもしれない。
この人気者だが常に軽率気味なテノールのおかげで、三喜雄はこの10日間、謂れなき嘲笑をそこかしこで受けていた。塚山が全国放送の人気音楽番組で、結婚するなら片山だなどと馬鹿げたことを口にしたせいで、職場の小学校や指導を受けている先生、学生時代の友人たちからもいろいろ言われている。
酷いのは、今回の演奏会の合唱を指導している、自身もテノール歌手である深井だ。彼は三喜雄の母校である札幌北星高校のグリークラブのトレーナーでもあり、三喜雄にとっては今でも「深井先生」なのだが、それをいいことに彼はかなり言いたい放題である。
一昨日のオケ合わせの際、早めに会場に着いた三喜雄は、合唱が先に始めていた全体練習を覗きに行った。すると前に立っていた深井が三喜雄に気づき、学生たちに言い放った。
「あっ、嫁にしたい男が来たから、バスソロ入ってもらおうか」
三喜雄はあ然とした。学生たちが振り返り、一斉に笑ったので、深井は調子に乗って続けた。
「片山、だんなのパートも歌えるよな? 合唱と絡むとこヘルプしてやって」
三喜雄は顔が引きつりそうになるのを堪えた。嫁とかだんなとか、マジで勘弁してくれ。暴れたいくらいだったが、ソリストの矜持を保ちつつ前に行き、笑いを堪えるピアニストとにやにやしている学生たちに挨拶して、深井の横に立った。そして、テノールとバスのソロを適時歌いながら、合唱の練習を手伝ったのだった。
塚山と2人で早めの軽い夕飯を腹に収めていると、メゾソプラノの速水梢枝が開いたドアから顔を覗かせた。今夜の演奏会は、ソリストが全員北海道出身であることも売りで、彼女は函館の高校を出て、東京の音大と大学院を卒業後、国内で活躍している。
袖に入る前に、関係者がぽつぽつとしか座っていない広い客席を振り返った。初めてこの舞台に立ったのは18歳の時だから、15年ぶりということになる。あれからいろいろな国内外の舞台に立ったが、ここは本当に美しいホールだと三喜雄は思う。今夜は地元の友人知人だけでなく、東京から観に来てくれる人もいるので、本番が楽しみだ。
三喜雄はテノールの塚山天音と同じ楽屋を割り当てられていた。札幌市が誇るこのホールがオープンして20年、バックヤードもまだまだきれいで快適である。今日のように15時楽屋入りの長丁場では、楽屋の居心地がいいことは大切だ。しかし塚山が荷物を広げるので、2人で使うには広いはずなのに、悪い意味でちょうどいいくらいになっていた。
「片山、何飲む?」
このテノール歌手と三喜雄とのつき合いは長いが、同じ舞台に立つのは、プロとしては初めてである。故郷で職業音楽家として迎える最初の本番が、このホールでこの共演者だということは、素直に嬉しいし安心感があった。
「お茶……てか、何でそんないろいろ持って来てるんだよ」
思わず三喜雄が突っ込むと、紅茶にコーヒーにほうじ茶に緑茶、ルイボスティにハーブティまでテーブルに広げていた塚山は、え? と言った。
「せっかくおまえと一緒の楽屋だからさぁ」
「ピクニックじゃないぞ」
三喜雄は鞄から2個のおにぎりを出しながら言った。塚山はサンドウィッチを持参していて、ドリップバッグのコーヒーと緑茶のティーバッグに、ポットの湯を注ぐ。匂いが充満しそうなので、三喜雄は楽屋の扉を開け放した。塚山と一緒の舞台に上がるのは、楽しみであり安心でもあるが、ゲネプロや今の様子を見るに、ちょっとテンションが高いようなので、ややこしいかもしれない。
この人気者だが常に軽率気味なテノールのおかげで、三喜雄はこの10日間、謂れなき嘲笑をそこかしこで受けていた。塚山が全国放送の人気音楽番組で、結婚するなら片山だなどと馬鹿げたことを口にしたせいで、職場の小学校や指導を受けている先生、学生時代の友人たちからもいろいろ言われている。
酷いのは、今回の演奏会の合唱を指導している、自身もテノール歌手である深井だ。彼は三喜雄の母校である札幌北星高校のグリークラブのトレーナーでもあり、三喜雄にとっては今でも「深井先生」なのだが、それをいいことに彼はかなり言いたい放題である。
一昨日のオケ合わせの際、早めに会場に着いた三喜雄は、合唱が先に始めていた全体練習を覗きに行った。すると前に立っていた深井が三喜雄に気づき、学生たちに言い放った。
「あっ、嫁にしたい男が来たから、バスソロ入ってもらおうか」
三喜雄はあ然とした。学生たちが振り返り、一斉に笑ったので、深井は調子に乗って続けた。
「片山、だんなのパートも歌えるよな? 合唱と絡むとこヘルプしてやって」
三喜雄は顔が引きつりそうになるのを堪えた。嫁とかだんなとか、マジで勘弁してくれ。暴れたいくらいだったが、ソリストの矜持を保ちつつ前に行き、笑いを堪えるピアニストとにやにやしている学生たちに挨拶して、深井の横に立った。そして、テノールとバスのソロを適時歌いながら、合唱の練習を手伝ったのだった。
塚山と2人で早めの軽い夕飯を腹に収めていると、メゾソプラノの速水梢枝が開いたドアから顔を覗かせた。今夜の演奏会は、ソリストが全員北海道出身であることも売りで、彼女は函館の高校を出て、東京の音大と大学院を卒業後、国内で活躍している。
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