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痛みも悲しみも分かち合えるなら
6月18日 16:10①
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第2部が始まり、涼子は先ほどと同じく黒のドレスで登場したが、第1部より腕の露出が少なくなっていた。
「後半はゲストが男性ばかりなので、もしかしたらお客様の入れ替わりがありましたか? 男性が減って女性が増えたとか」
涼子の言葉に客は笑ったが、彼女は真面目に言う。
「関西にね、ドレスアップした女性の演奏家を見るのが好きだっていうおじ様がいらっしゃるんですよ……クラシックはお好きなんでしょうね、最初から最後までちゃんと聴いてくださるんです、会場が許可していたら写真も撮るらしくて」
暁斗は胸の中でええっ、と言ってしまったが、演奏家たちは強かった。
「でも彼女らは『また来てはるわぁ』くらいで気持ち悪いとか言いません、大らかですよ……まあ万が一、おかしな行動をお客様が取ったら、迷わず殴ると思いますけど」
こんな話のあとで紹介されたチェリストは、苦笑しながら登場するしかないようだった。タキシード姿の彼は、拍手に応えてからスタンバイする。チェロを生で聴くのが初めての暁斗は、椅子に浅めに腰掛け、脚の間に大きな楽器を置くチェリストを見て、かっこいいなと思う。
ラフマニノフのチェロソナタは、前半の2曲より音楽の起伏が激しく、低い弦の音が歌うのに独特の色気があった。ピアノの見せ場が多いのは、作曲家自身がピアニストだったからだという。
30分を超える難曲を弾き切った若いチェリストに、喝采が贈られた。涼子は彼と握手してから、冗談めかして言う。
「またでっかい曲仕上げて来たねぇ、コンクール終わってから忙しかったのに」
「すみません、これずっと演りたかったんですけど、受賞記念のコンサートで企画がボツ続きで」
涼子は大げさにのけぞってみせた。
「えーっ、そうだったんだ、あなたがバッハ弾きっぽいイメージだからかしら?」
「たぶんそれはありますね、あとはここだけの話ですけど、どのピアニストからも渋い顔されちゃいまして……」
暁斗は2人の会話を聞きながら、音楽家も自分たちサラリーマンと似た部分があるのだなと思う。暁斗の会社で、営業と広報の方針が反対を向いたり、企画と製造が予算と技術面で折り合わずに対立したりするのと、チェリストの話は似ていないだろうか。
チェリストが楽器を抱えて、にこにこしながら拍手の中去ると、涼子はふう、と本気のひと息をついた。
「はい、ここからは伴奏に徹しますよ」
観客は笑った。ピアニストは続ける。
「たまたまなんですけれど、今日のプログラムはクラシック世界一周みたいになりまして、フランス、ドイツ、ロシアときて、次の2人が日本、イタリア、アメリカの曲を持ってきてくれました……まずバリトンの片山三喜雄くんでーす」
彼の演奏を楽しみにしている客が多いのか、ひときわ大きな拍手が起き、その歌い手は袖から笑顔で登場した。彼はタキシードではなく、藍色のスーツに、奏人が今日着ているようなボトルネックの白いカットソーを合わせている。
片山はぺこりと頭を下げてピアノの前にスタンバイすると、楽譜を広げる涼子をちらっと見た。重く静かな伴奏が始まり、暗い色の髪の、中肉中背で容姿に派手さも無い彼の口から、よく響く耳に心地良い声が渾々と湧き出した。
声自体も魅力的だが、片山が日本語を話しているとはっきりわかるのが快い。クラシックやミュージカルの歌手は、何語でも言葉が聞き取りにくいか、でなければわざとらしいという暁斗の印象を覆していく。
少し不安感のある重い曲が、流れるような、子守唄の詩を持つ曲に変わった。今の季節とは逆だが、雪に閉ざされた冬の静けさの中で、子どもたちが暖を取りながらクリスマスを迎える光景が目に浮かぶようだった。
静かに日本の曲が終わり、続けてロマンチックなイタリア歌曲が始まる。プログラムに、歌詞の対訳が掲載されているのはありがたかった。
やはり明瞭なイタリア語で、片山は恋人との幸せな日々を、立ち止まり振り返る歌を歌った。彼の危なげない高音が、いい歌だなと自然に思わせてくれる。
演奏時間は3曲で10分と少しだったが、片山はすっかり観客の心を掴んだようだった。拍手が切れないので、涼子が進行を待たなくてはいけなかった。
「後半はゲストが男性ばかりなので、もしかしたらお客様の入れ替わりがありましたか? 男性が減って女性が増えたとか」
涼子の言葉に客は笑ったが、彼女は真面目に言う。
「関西にね、ドレスアップした女性の演奏家を見るのが好きだっていうおじ様がいらっしゃるんですよ……クラシックはお好きなんでしょうね、最初から最後までちゃんと聴いてくださるんです、会場が許可していたら写真も撮るらしくて」
暁斗は胸の中でええっ、と言ってしまったが、演奏家たちは強かった。
「でも彼女らは『また来てはるわぁ』くらいで気持ち悪いとか言いません、大らかですよ……まあ万が一、おかしな行動をお客様が取ったら、迷わず殴ると思いますけど」
こんな話のあとで紹介されたチェリストは、苦笑しながら登場するしかないようだった。タキシード姿の彼は、拍手に応えてからスタンバイする。チェロを生で聴くのが初めての暁斗は、椅子に浅めに腰掛け、脚の間に大きな楽器を置くチェリストを見て、かっこいいなと思う。
ラフマニノフのチェロソナタは、前半の2曲より音楽の起伏が激しく、低い弦の音が歌うのに独特の色気があった。ピアノの見せ場が多いのは、作曲家自身がピアニストだったからだという。
30分を超える難曲を弾き切った若いチェリストに、喝采が贈られた。涼子は彼と握手してから、冗談めかして言う。
「またでっかい曲仕上げて来たねぇ、コンクール終わってから忙しかったのに」
「すみません、これずっと演りたかったんですけど、受賞記念のコンサートで企画がボツ続きで」
涼子は大げさにのけぞってみせた。
「えーっ、そうだったんだ、あなたがバッハ弾きっぽいイメージだからかしら?」
「たぶんそれはありますね、あとはここだけの話ですけど、どのピアニストからも渋い顔されちゃいまして……」
暁斗は2人の会話を聞きながら、音楽家も自分たちサラリーマンと似た部分があるのだなと思う。暁斗の会社で、営業と広報の方針が反対を向いたり、企画と製造が予算と技術面で折り合わずに対立したりするのと、チェリストの話は似ていないだろうか。
チェリストが楽器を抱えて、にこにこしながら拍手の中去ると、涼子はふう、と本気のひと息をついた。
「はい、ここからは伴奏に徹しますよ」
観客は笑った。ピアニストは続ける。
「たまたまなんですけれど、今日のプログラムはクラシック世界一周みたいになりまして、フランス、ドイツ、ロシアときて、次の2人が日本、イタリア、アメリカの曲を持ってきてくれました……まずバリトンの片山三喜雄くんでーす」
彼の演奏を楽しみにしている客が多いのか、ひときわ大きな拍手が起き、その歌い手は袖から笑顔で登場した。彼はタキシードではなく、藍色のスーツに、奏人が今日着ているようなボトルネックの白いカットソーを合わせている。
片山はぺこりと頭を下げてピアノの前にスタンバイすると、楽譜を広げる涼子をちらっと見た。重く静かな伴奏が始まり、暗い色の髪の、中肉中背で容姿に派手さも無い彼の口から、よく響く耳に心地良い声が渾々と湧き出した。
声自体も魅力的だが、片山が日本語を話しているとはっきりわかるのが快い。クラシックやミュージカルの歌手は、何語でも言葉が聞き取りにくいか、でなければわざとらしいという暁斗の印象を覆していく。
少し不安感のある重い曲が、流れるような、子守唄の詩を持つ曲に変わった。今の季節とは逆だが、雪に閉ざされた冬の静けさの中で、子どもたちが暖を取りながらクリスマスを迎える光景が目に浮かぶようだった。
静かに日本の曲が終わり、続けてロマンチックなイタリア歌曲が始まる。プログラムに、歌詞の対訳が掲載されているのはありがたかった。
やはり明瞭なイタリア語で、片山は恋人との幸せな日々を、立ち止まり振り返る歌を歌った。彼の危なげない高音が、いい歌だなと自然に思わせてくれる。
演奏時間は3曲で10分と少しだったが、片山はすっかり観客の心を掴んだようだった。拍手が切れないので、涼子が進行を待たなくてはいけなかった。
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