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痛みも悲しみも分かち合えるなら
6月12日 21:00
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暁斗は淡いオレンジ色をしたフルカラーのフライヤーを、感心してしみじみと見つめていた。それは奏人の母方の伯母である濱涼子が出演する、クラシックのコンサートの案内だった。彼女が演奏家としてデビューし、今年の夏で35年になる記念のイベントらしい。
濱涼子はピアニストだが、ソロではあまり演奏しない。そのコンサートには、彼女がよく共演するソリスト数人がゲストとして呼ばれており、フルートやらチェロやら歌やら、奏人に言わせると「コンセプト無しで何でもあり」のプログラムだ。
奏人は伯母に頼まれて、コンサートのフライヤーとプログラムの表紙のために絵を描いた。どちらもピアノに寄りかかる涼子の立ち姿だが、奏人曰く、顔の角度と周りの色を少し変えているという。さらっと描かれた、ラフスケッチに少し色がついただけのような絵だが、涼子の上品な社交性や静かな気の強さが滲み出ている。それに暁斗はしばし見惚れていたのだった。
「プログラムは当日のお楽しみってことで……僕はもう印刷確認したけどね」
奏人は楽しそうに言う。涼子は甥に、絵の使用料を渡している。暁斗の知る限り、彼が依頼を受け、描いた絵の対価を受け取ったのは初めてだ。
このコンサートは目黒の小さなホールで開催され、客は出演者たちが声をかけた友人知人がほとんどだという。暁斗は涼子から奏人と一緒に招待されている。コンサートの日は暁斗の誕生日で、お祝いになるかどうかわからないけど、と言いながら、涼子は随分良い席を用意してくれたのだった。
「いいチラシだな、でもこの『濱涼子と割と愉快な仲間たち』って題はどうなの?」
シックな絵に堅めの明朝体で書かれた文字が、逆に笑いを誘う。だいたい、「割と」とはどういうニュアンスなのだろうか。
暁斗が疑問を口にすると、奏人はくすくす笑った。
「伯母が最近関西の音楽家と演るのが続いてるみたいでね、関西人が『割と好き』って言ったら東京の人より割とに愛を感じるって話したのが、めちゃくちゃ合点がいって面白かったんだ」
「ああ、奏人さんが教えてる大学生もそんな言い方するんだ」
「うん、割とって関西のほうが大いに足し算というか、肯定感高いみたいだよ」
奏人は笑いながら、暁斗が畳んだ洗濯物を寝室に片づけに行く。朗らかに笑うようになってくれたなと、こういう時に暁斗は思う。
コンサートは15時からで、終演後の食事のために、奏人がホール周辺の美味しい店を探してくれている。そこで暁斗は、またひとつおじさんになるのを祝ってもらうのだ。
離婚した年からしばらく、暁斗の誕生日を祝ってくれる人はほとんどいなかった。妹の晴夏からLINEが来るくらいで、その他は会社の誰かからおめでとうと言われる訳でもなく、いつも通りに帰宅して適当にその日を終えてきた。
それが奏人と出会ってから、6月18日は特別な日扱いされるようになった。昨年は奏人が発熱し、急遽2人して検査を受けに行く事態に陥ったが、熱が下がった奏人と1日遅れでケーキを選びに行った。祝ってもらい喜ぶ年齢でもないのに、やはり奏人が何か用意してくれるのが嬉しい。
奏人はリビングに戻ってくると、ソファにちょこんと尻を乗せ、フライヤーを手に取った。そしてそれを、しみじみと見つめる。その時その大きな黒い瞳に、僅かに憂いのようなものがよぎったのを、暁斗は見逃さなかった。
「奏人さん、どうかした? 何か気になることでもある?」
暁斗の問いに奏人は目を上げ、ううん、と微笑する。気のせいかと暁斗は思い直したものの、少し引っかかる。
奏人の手がフライヤーから文庫本に伸びたので、暁斗はその紙を再度手に取った。クラシックの演奏家は全然知らないが、もしかすると奏人が気になるような知り合いが出演するのだろうか。
フルート、チェロ、ヴァイオリン、歌手はテノールとバリトン。奏人の古い知人(しかも子供心に好意を抱いていたらしい)に男性フルーティストがいるが、コンサートに出るのは女性である。
何となく気になるのに、奏人に突っ込んで尋ねることを遠慮する自分がいる。暁斗はふっと自嘲の笑いを洩らした。新商品の営業が、どうも思ったより上手くいかないものだから、気にしなくても良いことが神経に引っかかるのかもしれなかった。
濱涼子はピアニストだが、ソロではあまり演奏しない。そのコンサートには、彼女がよく共演するソリスト数人がゲストとして呼ばれており、フルートやらチェロやら歌やら、奏人に言わせると「コンセプト無しで何でもあり」のプログラムだ。
奏人は伯母に頼まれて、コンサートのフライヤーとプログラムの表紙のために絵を描いた。どちらもピアノに寄りかかる涼子の立ち姿だが、奏人曰く、顔の角度と周りの色を少し変えているという。さらっと描かれた、ラフスケッチに少し色がついただけのような絵だが、涼子の上品な社交性や静かな気の強さが滲み出ている。それに暁斗はしばし見惚れていたのだった。
「プログラムは当日のお楽しみってことで……僕はもう印刷確認したけどね」
奏人は楽しそうに言う。涼子は甥に、絵の使用料を渡している。暁斗の知る限り、彼が依頼を受け、描いた絵の対価を受け取ったのは初めてだ。
このコンサートは目黒の小さなホールで開催され、客は出演者たちが声をかけた友人知人がほとんどだという。暁斗は涼子から奏人と一緒に招待されている。コンサートの日は暁斗の誕生日で、お祝いになるかどうかわからないけど、と言いながら、涼子は随分良い席を用意してくれたのだった。
「いいチラシだな、でもこの『濱涼子と割と愉快な仲間たち』って題はどうなの?」
シックな絵に堅めの明朝体で書かれた文字が、逆に笑いを誘う。だいたい、「割と」とはどういうニュアンスなのだろうか。
暁斗が疑問を口にすると、奏人はくすくす笑った。
「伯母が最近関西の音楽家と演るのが続いてるみたいでね、関西人が『割と好き』って言ったら東京の人より割とに愛を感じるって話したのが、めちゃくちゃ合点がいって面白かったんだ」
「ああ、奏人さんが教えてる大学生もそんな言い方するんだ」
「うん、割とって関西のほうが大いに足し算というか、肯定感高いみたいだよ」
奏人は笑いながら、暁斗が畳んだ洗濯物を寝室に片づけに行く。朗らかに笑うようになってくれたなと、こういう時に暁斗は思う。
コンサートは15時からで、終演後の食事のために、奏人がホール周辺の美味しい店を探してくれている。そこで暁斗は、またひとつおじさんになるのを祝ってもらうのだ。
離婚した年からしばらく、暁斗の誕生日を祝ってくれる人はほとんどいなかった。妹の晴夏からLINEが来るくらいで、その他は会社の誰かからおめでとうと言われる訳でもなく、いつも通りに帰宅して適当にその日を終えてきた。
それが奏人と出会ってから、6月18日は特別な日扱いされるようになった。昨年は奏人が発熱し、急遽2人して検査を受けに行く事態に陥ったが、熱が下がった奏人と1日遅れでケーキを選びに行った。祝ってもらい喜ぶ年齢でもないのに、やはり奏人が何か用意してくれるのが嬉しい。
奏人はリビングに戻ってくると、ソファにちょこんと尻を乗せ、フライヤーを手に取った。そしてそれを、しみじみと見つめる。その時その大きな黒い瞳に、僅かに憂いのようなものがよぎったのを、暁斗は見逃さなかった。
「奏人さん、どうかした? 何か気になることでもある?」
暁斗の問いに奏人は目を上げ、ううん、と微笑する。気のせいかと暁斗は思い直したものの、少し引っかかる。
奏人の手がフライヤーから文庫本に伸びたので、暁斗はその紙を再度手に取った。クラシックの演奏家は全然知らないが、もしかすると奏人が気になるような知り合いが出演するのだろうか。
フルート、チェロ、ヴァイオリン、歌手はテノールとバリトン。奏人の古い知人(しかも子供心に好意を抱いていたらしい)に男性フルーティストがいるが、コンサートに出るのは女性である。
何となく気になるのに、奏人に突っ込んで尋ねることを遠慮する自分がいる。暁斗はふっと自嘲の笑いを洩らした。新商品の営業が、どうも思ったより上手くいかないものだから、気にしなくても良いことが神経に引っかかるのかもしれなかった。
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