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ともに迷って進む春
3月22日③
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やはり暁斗が先に帰宅したので、米を洗って洗濯を取り込み、なるべく早くに食事が始められるよう準備した。冷蔵庫に入れた豚肉のミルフィーユ重ねとアボカドのサラダは、なかなか美味そうである。これはこともあろうに、幣原のおすすめに従い購入したものだった。
「奏人が誕生日だから、スーパー銭湯行ってたのか?」
山中はデリヘルの会員だったので、指名をしたことはないが奏人のことをよく知っている。彼のそんなひと言から、グルメらしい幣原が、東京駅周辺の持ち帰り可能な飲食店をいくつか紹介してくれたのだ。ただし、ひと言多かったが。
「今回はパートナーさんのおうちバースデーにお使いくださればいいですけど、次回は私との会食に……」
幣原、いい加減にしなさい、と大林の突っ込みが入ったので彼はそれ以上言わなかったが、半ば本気のようなので、暁斗はこっそりと溜め息をついた。
引っ越しの作業がスムーズに終わったらしく、奏人は機嫌よく帰ってきた。ご飯はもう蒸らしに入っていたので、暁斗はスープを温め、豚肉を皿に出した。
「あ、美味しそう……」
手を洗った奏人が、キッチンに入ってくるなり言った。会社で店を紹介してもらったことだけ、彼に話す。食べ物に罪は無い。
「東京駅の近くって、結構小洒落た店も増えたんだなと思ったよ」
「一度実店舗に行くのもいいね、僕なんか東京暮らしも結構長いのに、いいお店全然知らないよ」
「俺は居酒屋メインだしなぁ」
その居酒屋でさえ、感染症の拡大の煽りを受けて、開店時間を短くしたり、閉店してしまったりしている店もある。やたらと店を知っている幣原を見て、外食事情にすっかり疎くなってしまった自分に、暁斗は営業担当として軽い危機感を覚えたのだった。
夕食が始まると、少しだけビールを出して、再度奏人の誕生日を祝った。
「この2日間で暁斗さんに癒してもらって、何だかいろいろすっきりしたから、これからのことであまり深刻にならないようにしようと思って」
奏人は言って、ナイフを入れた肉のミルフィーユを頬張った。暁斗も肉とソースを味わいながら、あの男の舌は侮れないと思う。
「俺は奏人さんが携わる業界をあまり知らないから、適切なアドバイスとかはたぶんできないけど……まあ一緒に道を探すことくらいはできると思うから」
暁斗の言葉に、奏人はありがと、と小さく言った。そして思い出したように、眉間に皺を寄せる。
「昨日のあの自信満々なナンパ男、ちょっと調べたんだけど、実在したというか、なかなか優秀な営業マンみたいだよ」
暁斗はぎょっとする。そのナンパ男と、昼間に1時間半ほど打ち合わせをしたなどと、とてもではないが話せない。
「……そんな情報はどこで入手するの?」
「え? アステュートくらい大きな会社になったら、極秘にしてる社内情報以外は逆にいくらでも手に入るよ」
奏人が働いていたデリヘル「ディレット・マルティール」は、会員とスタッフの人権を守るために、代表の女性の多彩な人脈を駆使して、恐ろしいほどのインテリジェンス能力を保持していた。もしかしたら、SEである奏人も、彼女の情報収集を手伝っていたのではないか。初めて暁斗はそれに思い至った。
「……個人情報なんてあって無いようなものだとはわかってても、微妙だなぁ……俺ちょっと、ニューズレターにいつも顔写真載せるのやめようかなと思って」
幣原がはなから自分を「エリカワの営業課長の桂山」と知って接触してきたらしいことは、暁斗には少々ショックだった。会社の顔である営業担当、あるいは相談室のメンバーと認識されるのはいい。だが、性的好奇心をぶつけてこられるのは、微妙な気持ちである。
奏人は食事の手を止めて、やや心配そうな顔になっていた。
「そんなこと言うの初めてだね、何かあったの? 幣原のこと?」
勘の良い奏人に核心を突かれて、暁斗はナイフとフォークを置く。
「いや、アステュート側の企画担当が今日来てさ、ニューズレターを読んでくれてて、俺の顔見て生の桂山さんだって……同じように幣原さんに、俺の面が割れてたとしてもおかしくないだろ?」
なるほど、と奏人は頷く。彼はやけに強い視線を、暁斗に送ってきた。
「あの人のこと含めて、何か困ったことがあったら話して……僕のほうこそあまり暁斗さんの役に立てないと思う、でも僕は僕のやり方で、暁斗さんを煩わせるものは排除するって決めてるから」
暁斗は目を見開く。何と恐ろしく、頼もしい言葉だろう。
「……奏人さんには敵わないなあ」
「どうして? 暁斗さんにはなるべくストレスの少ない生活を送ってもらって、長生きしてほしいもん」
暁斗はその言葉に笑った。10歳年上の自分が奏人のために長生きするというのも、大切なミッションだ。
幣原のことも、折を見て奏人にきちんと話そうと暁斗は思う。それこそ、彼のこれからの態度次第だ。今からむやみに敵視することはない。
今夜も食器を2人で片づける。まだまだお互い知らないことも多いし、歩いていく道の先に霧がかかることもある。それでも、今は1人ではなく、2人だから。そんな風に思える自分が、ちょっといいなと思う暁斗である。奏人も同じように思っていてくれるなら、嬉しい。暁斗は、右に立って食器の泡を流す奏人の美しい横顔を、今夜も飽かず眺めるのだった。
《ともに迷って進む春 完》
「奏人が誕生日だから、スーパー銭湯行ってたのか?」
山中はデリヘルの会員だったので、指名をしたことはないが奏人のことをよく知っている。彼のそんなひと言から、グルメらしい幣原が、東京駅周辺の持ち帰り可能な飲食店をいくつか紹介してくれたのだ。ただし、ひと言多かったが。
「今回はパートナーさんのおうちバースデーにお使いくださればいいですけど、次回は私との会食に……」
幣原、いい加減にしなさい、と大林の突っ込みが入ったので彼はそれ以上言わなかったが、半ば本気のようなので、暁斗はこっそりと溜め息をついた。
引っ越しの作業がスムーズに終わったらしく、奏人は機嫌よく帰ってきた。ご飯はもう蒸らしに入っていたので、暁斗はスープを温め、豚肉を皿に出した。
「あ、美味しそう……」
手を洗った奏人が、キッチンに入ってくるなり言った。会社で店を紹介してもらったことだけ、彼に話す。食べ物に罪は無い。
「東京駅の近くって、結構小洒落た店も増えたんだなと思ったよ」
「一度実店舗に行くのもいいね、僕なんか東京暮らしも結構長いのに、いいお店全然知らないよ」
「俺は居酒屋メインだしなぁ」
その居酒屋でさえ、感染症の拡大の煽りを受けて、開店時間を短くしたり、閉店してしまったりしている店もある。やたらと店を知っている幣原を見て、外食事情にすっかり疎くなってしまった自分に、暁斗は営業担当として軽い危機感を覚えたのだった。
夕食が始まると、少しだけビールを出して、再度奏人の誕生日を祝った。
「この2日間で暁斗さんに癒してもらって、何だかいろいろすっきりしたから、これからのことであまり深刻にならないようにしようと思って」
奏人は言って、ナイフを入れた肉のミルフィーユを頬張った。暁斗も肉とソースを味わいながら、あの男の舌は侮れないと思う。
「俺は奏人さんが携わる業界をあまり知らないから、適切なアドバイスとかはたぶんできないけど……まあ一緒に道を探すことくらいはできると思うから」
暁斗の言葉に、奏人はありがと、と小さく言った。そして思い出したように、眉間に皺を寄せる。
「昨日のあの自信満々なナンパ男、ちょっと調べたんだけど、実在したというか、なかなか優秀な営業マンみたいだよ」
暁斗はぎょっとする。そのナンパ男と、昼間に1時間半ほど打ち合わせをしたなどと、とてもではないが話せない。
「……そんな情報はどこで入手するの?」
「え? アステュートくらい大きな会社になったら、極秘にしてる社内情報以外は逆にいくらでも手に入るよ」
奏人が働いていたデリヘル「ディレット・マルティール」は、会員とスタッフの人権を守るために、代表の女性の多彩な人脈を駆使して、恐ろしいほどのインテリジェンス能力を保持していた。もしかしたら、SEである奏人も、彼女の情報収集を手伝っていたのではないか。初めて暁斗はそれに思い至った。
「……個人情報なんてあって無いようなものだとはわかってても、微妙だなぁ……俺ちょっと、ニューズレターにいつも顔写真載せるのやめようかなと思って」
幣原がはなから自分を「エリカワの営業課長の桂山」と知って接触してきたらしいことは、暁斗には少々ショックだった。会社の顔である営業担当、あるいは相談室のメンバーと認識されるのはいい。だが、性的好奇心をぶつけてこられるのは、微妙な気持ちである。
奏人は食事の手を止めて、やや心配そうな顔になっていた。
「そんなこと言うの初めてだね、何かあったの? 幣原のこと?」
勘の良い奏人に核心を突かれて、暁斗はナイフとフォークを置く。
「いや、アステュート側の企画担当が今日来てさ、ニューズレターを読んでくれてて、俺の顔見て生の桂山さんだって……同じように幣原さんに、俺の面が割れてたとしてもおかしくないだろ?」
なるほど、と奏人は頷く。彼はやけに強い視線を、暁斗に送ってきた。
「あの人のこと含めて、何か困ったことがあったら話して……僕のほうこそあまり暁斗さんの役に立てないと思う、でも僕は僕のやり方で、暁斗さんを煩わせるものは排除するって決めてるから」
暁斗は目を見開く。何と恐ろしく、頼もしい言葉だろう。
「……奏人さんには敵わないなあ」
「どうして? 暁斗さんにはなるべくストレスの少ない生活を送ってもらって、長生きしてほしいもん」
暁斗はその言葉に笑った。10歳年上の自分が奏人のために長生きするというのも、大切なミッションだ。
幣原のことも、折を見て奏人にきちんと話そうと暁斗は思う。それこそ、彼のこれからの態度次第だ。今からむやみに敵視することはない。
今夜も食器を2人で片づける。まだまだお互い知らないことも多いし、歩いていく道の先に霧がかかることもある。それでも、今は1人ではなく、2人だから。そんな風に思える自分が、ちょっといいなと思う暁斗である。奏人も同じように思っていてくれるなら、嬉しい。暁斗は、右に立って食器の泡を流す奏人の美しい横顔を、今夜も飽かず眺めるのだった。
《ともに迷って進む春 完》
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