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ともに迷って進む春
3月21日⑤
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1階に降りると、昼のピークを過ぎた食堂は混雑が収まっていた。窓際の空席に案内されて、暁斗は勝手知ったタッチパネルのメニューを開いた。
「奏人さんの誕生日の前祝いだから、ビール頼んで美味しいものを食べよう」
「うふふ、明日も祝ってくれるの? 今日は和食かな」
奏人は「春の限定メニュー」と表示されたページを覗き込む。
「きれいだね、菜の花にさわらの照り焼きにたけのこご飯かぁ」
春の懐石御膳なる料理を注文し、グラスビールも一緒に頼んだ。奏人は嬉しそうで、彼の晴れやかな顔を見るのは、出会った頃と変わらず暁斗の喜びである。
「大事なひとに誕生日を祝って貰えるのって、幸せだなと思うんだよね……」
そんな風に言われて、暁斗の背中がむずむずした。かつて高級デリヘルの人気スタッフだった奏人には、誕生日を祝ってくれる客が沢山いた。セレブな顧客が多かったようなので、こんなところで食事を奢る程度で喜ばれると、ちょっと気恥ずかしい。
ビールが来る前にと言って身軽に立ち上がった奏人は、お手洗いに向かった。暁斗は彼の背中を見送ってから、薄晴れた窓の外を見る。日が長くなってきたなと会社で話している間に、春分がやってきた。あと10日で今年度も終わりだ。
明日、経理や人事に出し忘れているものが無いか、部下たちに再度チェックさせよう。ぼんやり考えていると、軽い足音を立てて奏人が帰ってきた。暁斗は彼を見上げ、想定外の事態に、思わずえっ、と声を洩らした。そこに立っていたのは奏人ではなく、さっき脱衣所で目が合った男性だった。暁斗とそう変わらない背丈で、暁斗よりがっちりした身体なのに足音が軽いのは、スポーツをしているからだろうか……と、どうでもいいことを考える。
「先ほどはどうも、お連れ様はお身内ですか?」
目鼻立ちのはっきりした彼は、マスクの上の目に笑いを浮かべる。暁斗は本能的な危機感を覚えた。奏人に言われるまでも無く、明らかにこれは誘われている。
「いえ、彼は……私のパートナーです」
暁斗は密かに意を決して、はっきりと答えた。こう言えば、諦めて去ってくれるだろうと思ったからだった。ところが彼は、楽しそうに目を見開き、ほう、と言った。
「年の離れた弟さんだと思いました、韓国のアイドルみたいにきれいな人ですね」
その時、男性の店員がグラスビールを運んできた。暁斗はほっとしたが、グラスがテーブルに置かれても、男は一向に去る様子が無い。
「ええ、自慢のパートナーなので」
作り笑顔で暁斗は答えた。困った、奏人さん早く帰って来てくれないかな。同性に誘われるという初めての経験に、暁斗はやや弱気になっていた。どう撃退したらいいんだ、別に何もされてないのにあっちへ行けとも言いにくい。
「お近づきの印に、こちらに来てもよろしいですかね? 私、こういう人間です……ああ、あなたがたと同じくゲイです」
男は暁斗の都合も聞かず、作務衣のポケットから小さな財布を出し、その中から名刺を1枚引き抜いた。休日、こんな場所に名刺を持って来ている辺り、暁斗と同じく社畜だと思われる。
「あ、今私名刺持ってないんですが」
嘘だった。暁斗の作務衣のポケットには、名刺入れがしっかり入っていたが、どう考えても交換したくない。そんな暁斗の思いを男が察してくれるはずも無く(あるいは故意に無視しているのか)、正座した彼は名刺をきちんと両手で差し出して来た。小さな紙に書かれた社名に、暁斗の心臓がどくんと鳴った。
「アステュート株式会社ですか、……大会社にお勤めなんですね」
単純に驚くふりをするのに苦労する。男の会社は白物家電に強い大手メーカーで、今年に入ってから、暁斗の会社とのコラボレーション商品をつくる企画が進行していた。互いの商品開発部署はもう動き始めており、できれば4月に入ってすぐに、何らかの形でプレスリリースをしたいと上層部が言っている。
「奏人さんの誕生日の前祝いだから、ビール頼んで美味しいものを食べよう」
「うふふ、明日も祝ってくれるの? 今日は和食かな」
奏人は「春の限定メニュー」と表示されたページを覗き込む。
「きれいだね、菜の花にさわらの照り焼きにたけのこご飯かぁ」
春の懐石御膳なる料理を注文し、グラスビールも一緒に頼んだ。奏人は嬉しそうで、彼の晴れやかな顔を見るのは、出会った頃と変わらず暁斗の喜びである。
「大事なひとに誕生日を祝って貰えるのって、幸せだなと思うんだよね……」
そんな風に言われて、暁斗の背中がむずむずした。かつて高級デリヘルの人気スタッフだった奏人には、誕生日を祝ってくれる客が沢山いた。セレブな顧客が多かったようなので、こんなところで食事を奢る程度で喜ばれると、ちょっと気恥ずかしい。
ビールが来る前にと言って身軽に立ち上がった奏人は、お手洗いに向かった。暁斗は彼の背中を見送ってから、薄晴れた窓の外を見る。日が長くなってきたなと会社で話している間に、春分がやってきた。あと10日で今年度も終わりだ。
明日、経理や人事に出し忘れているものが無いか、部下たちに再度チェックさせよう。ぼんやり考えていると、軽い足音を立てて奏人が帰ってきた。暁斗は彼を見上げ、想定外の事態に、思わずえっ、と声を洩らした。そこに立っていたのは奏人ではなく、さっき脱衣所で目が合った男性だった。暁斗とそう変わらない背丈で、暁斗よりがっちりした身体なのに足音が軽いのは、スポーツをしているからだろうか……と、どうでもいいことを考える。
「先ほどはどうも、お連れ様はお身内ですか?」
目鼻立ちのはっきりした彼は、マスクの上の目に笑いを浮かべる。暁斗は本能的な危機感を覚えた。奏人に言われるまでも無く、明らかにこれは誘われている。
「いえ、彼は……私のパートナーです」
暁斗は密かに意を決して、はっきりと答えた。こう言えば、諦めて去ってくれるだろうと思ったからだった。ところが彼は、楽しそうに目を見開き、ほう、と言った。
「年の離れた弟さんだと思いました、韓国のアイドルみたいにきれいな人ですね」
その時、男性の店員がグラスビールを運んできた。暁斗はほっとしたが、グラスがテーブルに置かれても、男は一向に去る様子が無い。
「ええ、自慢のパートナーなので」
作り笑顔で暁斗は答えた。困った、奏人さん早く帰って来てくれないかな。同性に誘われるという初めての経験に、暁斗はやや弱気になっていた。どう撃退したらいいんだ、別に何もされてないのにあっちへ行けとも言いにくい。
「お近づきの印に、こちらに来てもよろしいですかね? 私、こういう人間です……ああ、あなたがたと同じくゲイです」
男は暁斗の都合も聞かず、作務衣のポケットから小さな財布を出し、その中から名刺を1枚引き抜いた。休日、こんな場所に名刺を持って来ている辺り、暁斗と同じく社畜だと思われる。
「あ、今私名刺持ってないんですが」
嘘だった。暁斗の作務衣のポケットには、名刺入れがしっかり入っていたが、どう考えても交換したくない。そんな暁斗の思いを男が察してくれるはずも無く(あるいは故意に無視しているのか)、正座した彼は名刺をきちんと両手で差し出して来た。小さな紙に書かれた社名に、暁斗の心臓がどくんと鳴った。
「アステュート株式会社ですか、……大会社にお勤めなんですね」
単純に驚くふりをするのに苦労する。男の会社は白物家電に強い大手メーカーで、今年に入ってから、暁斗の会社とのコラボレーション商品をつくる企画が進行していた。互いの商品開発部署はもう動き始めており、できれば4月に入ってすぐに、何らかの形でプレスリリースをしたいと上層部が言っている。
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