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貴方の声に心は開く
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薄晴れの天気の中、電車が荒川を渡る。暁斗は普段目にしない広々とした水面が珍しく、子どものように窓の外を眺めた。右に座る奏人がくすっと笑う声がした。
「暁斗さん、楽しそうだね」
「え、実は電車で埼玉に入るの初めてかも」
暁斗の返事に、奏人はそうなの? と大きな目を更に見開いた。
「営業とか工場に行くときは車使うから‥‥‥今プライベートでこっち方面に用事が無いのもあるかな」
「そっか、免許持ってる人は車で行くよね」
奏人は普通自動車免許を持っていない。そんな北海道民もなかなかいないけど、とたまに自虐するが、東京の大学に入学以来、日本にいる時はずっと23区内で生活してきた奏人に、免許など必要無かったのだった。彼は故郷の帯広をつい最近まで忌避していたので、自分のことを北海道民などと呼ぶのを聞いた暁斗は、何となく温かな気分になった。
今日は奏人の伯母夫婦、彼の母の姉とその夫に会う予定である。暁斗は奏人がアメリカに留学に行く直前まで知らなかったのだが、親戚筋と断絶している奏人は、母方のこの親族とだけは辛うじて関係を繋いでいた。
3連休に暇なら遊びに来ないかと唐突に声がかかり、伯母に会うのは10年振りだという奏人は喜んだが、暁斗は初対面なのでもちろん緊張している。しかも奏人の話から察するに、この家族はかなりセレブのようである。夫は開業医、妻は国際的に知られたピアニスト。息子は都内の大学の体育系学部で教員兼フィジカルトレーナーを務め、娘も都内の大学病院の勤務医だという。会社の取引先ならともかく、暁斗の個人的な知人には存在しない人種だ。
東川口駅で電車を降りた。奏人がふうん、と辺りを見回す。
「こんなすぐに来れるんだね、どうして遊びに来ないんだって言われるはずだよ」
「え、奏人さん川口ってどこだと思ってたの?」
「うん、もっと遠いと思ってた‥‥‥お客様に川口にお住まいの人がいて、遠いところから会いに来てくれてるんだなって」
その人はきっと、会社帰りに奏人に会い、川口の自宅に帰っていたのだろう。奏人の言う「お客様」とは、彼の以前の副業のゲイ専デリヘルの常連のことだ。暁斗も元「お客様」なので、奏人は割にフランクにいろいろな人の話を口にする(もちろん客の面が割れない程度に)のだが、暁斗はその度にちょっと複雑な気分になってしまう。
「あっ奏人さん、伯母さまはディレット・マルティールのこと知らないよな?」
暁斗は思わずデリヘルの名を出し、奏人に確認せずにはいられなかった。どこでお知り合いになったの? と、絶対に訊かれるではないか。奏人はえ? と言い、のんびりと答える。
「学費のために水商売バイトをしてたって風にはたぶん話したよ」
「水商売、ってことで話を合わせておけばいい?」
「うーん、別に風俗バイトって正直に言っても全然いいんだけど‥‥‥」
「ゲイ専デリヘルで知り合ったって伯母さまに言うのか! 俺が無理‥‥‥」
口裏合わせを打ち合わせる時間は無かった。2人で駅舎の庇がつくる陰の中に立っていると、白い車がこちらを目指して来たからである。その国産車を運転していたのは女性で、滑らかに車を停めるなり運転席のドアを開けた。
「かなちゃん! 暑いのに待たせたわね、ごめんなさい」
「伯母さん、ありがとう‥‥‥今着いたところだよ」
確かにきょうだいだ、と暁斗は思った。その女性は、昨年末に帯広で会った奏人の母親と同じ声をしていた。現役のピアニストらしく、年齢不詳で華やかな人である。
「そちらが桂山さんね? はじめまして、奏人の伯母の濱涼子です」
「はじめまして、桂山暁斗です」
名刺を出さず、肩書きを述べずに初対面の人と挨拶をするのは、実はすこしやりにくい。そんな暁斗に気づいたのかどうか、濱涼子は暁斗を見上げ、マスクの上の目を笑いの形にした。
「まあ、かなちゃんは随分ハンサムなお婿さんを見つけたのねぇ、10こ上でしたっけ?」
「あ、はい、私のほうが奏人さんに頼ってる面も多々ありますが」
「あのね伯母さん、どちらかと言うと暁斗さんは僕のお嫁さんなんだけど」
奏人の声に、涼子はあら、と言い、にやりと笑う。この人はお義母さんよりかなりオープンだな、と暁斗は思った。姉妹で同じ音楽家でも、扱う楽器が違うためなのか、持つ雰囲気が違う。
「男性同士の事情はあまりよくわからないけど、そういうことなのね‥‥‥まあ桂山さんはかなちゃんのことをよくわかってらっしゃるということよね、良かったわ」
涼子が何の話をしているのかをようやく悟った暁斗は、赤面を禁じ得なかった。いやまあ最近は確かに、俺が専ら受け身ですが‥‥‥奏人さん何言ってんだ‥‥‥。
「とにかく行きましょう、かなちゃんの顔をちゃんと見るのも10年くらい振り? まあ相変わらず童顔ね」
「それいつまで言われるのかなぁ、僕30過ぎたんだけど」
「暁斗さん、楽しそうだね」
「え、実は電車で埼玉に入るの初めてかも」
暁斗の返事に、奏人はそうなの? と大きな目を更に見開いた。
「営業とか工場に行くときは車使うから‥‥‥今プライベートでこっち方面に用事が無いのもあるかな」
「そっか、免許持ってる人は車で行くよね」
奏人は普通自動車免許を持っていない。そんな北海道民もなかなかいないけど、とたまに自虐するが、東京の大学に入学以来、日本にいる時はずっと23区内で生活してきた奏人に、免許など必要無かったのだった。彼は故郷の帯広をつい最近まで忌避していたので、自分のことを北海道民などと呼ぶのを聞いた暁斗は、何となく温かな気分になった。
今日は奏人の伯母夫婦、彼の母の姉とその夫に会う予定である。暁斗は奏人がアメリカに留学に行く直前まで知らなかったのだが、親戚筋と断絶している奏人は、母方のこの親族とだけは辛うじて関係を繋いでいた。
3連休に暇なら遊びに来ないかと唐突に声がかかり、伯母に会うのは10年振りだという奏人は喜んだが、暁斗は初対面なのでもちろん緊張している。しかも奏人の話から察するに、この家族はかなりセレブのようである。夫は開業医、妻は国際的に知られたピアニスト。息子は都内の大学の体育系学部で教員兼フィジカルトレーナーを務め、娘も都内の大学病院の勤務医だという。会社の取引先ならともかく、暁斗の個人的な知人には存在しない人種だ。
東川口駅で電車を降りた。奏人がふうん、と辺りを見回す。
「こんなすぐに来れるんだね、どうして遊びに来ないんだって言われるはずだよ」
「え、奏人さん川口ってどこだと思ってたの?」
「うん、もっと遠いと思ってた‥‥‥お客様に川口にお住まいの人がいて、遠いところから会いに来てくれてるんだなって」
その人はきっと、会社帰りに奏人に会い、川口の自宅に帰っていたのだろう。奏人の言う「お客様」とは、彼の以前の副業のゲイ専デリヘルの常連のことだ。暁斗も元「お客様」なので、奏人は割にフランクにいろいろな人の話を口にする(もちろん客の面が割れない程度に)のだが、暁斗はその度にちょっと複雑な気分になってしまう。
「あっ奏人さん、伯母さまはディレット・マルティールのこと知らないよな?」
暁斗は思わずデリヘルの名を出し、奏人に確認せずにはいられなかった。どこでお知り合いになったの? と、絶対に訊かれるではないか。奏人はえ? と言い、のんびりと答える。
「学費のために水商売バイトをしてたって風にはたぶん話したよ」
「水商売、ってことで話を合わせておけばいい?」
「うーん、別に風俗バイトって正直に言っても全然いいんだけど‥‥‥」
「ゲイ専デリヘルで知り合ったって伯母さまに言うのか! 俺が無理‥‥‥」
口裏合わせを打ち合わせる時間は無かった。2人で駅舎の庇がつくる陰の中に立っていると、白い車がこちらを目指して来たからである。その国産車を運転していたのは女性で、滑らかに車を停めるなり運転席のドアを開けた。
「かなちゃん! 暑いのに待たせたわね、ごめんなさい」
「伯母さん、ありがとう‥‥‥今着いたところだよ」
確かにきょうだいだ、と暁斗は思った。その女性は、昨年末に帯広で会った奏人の母親と同じ声をしていた。現役のピアニストらしく、年齢不詳で華やかな人である。
「そちらが桂山さんね? はじめまして、奏人の伯母の濱涼子です」
「はじめまして、桂山暁斗です」
名刺を出さず、肩書きを述べずに初対面の人と挨拶をするのは、実はすこしやりにくい。そんな暁斗に気づいたのかどうか、濱涼子は暁斗を見上げ、マスクの上の目を笑いの形にした。
「まあ、かなちゃんは随分ハンサムなお婿さんを見つけたのねぇ、10こ上でしたっけ?」
「あ、はい、私のほうが奏人さんに頼ってる面も多々ありますが」
「あのね伯母さん、どちらかと言うと暁斗さんは僕のお嫁さんなんだけど」
奏人の声に、涼子はあら、と言い、にやりと笑う。この人はお義母さんよりかなりオープンだな、と暁斗は思った。姉妹で同じ音楽家でも、扱う楽器が違うためなのか、持つ雰囲気が違う。
「男性同士の事情はあまりよくわからないけど、そういうことなのね‥‥‥まあ桂山さんはかなちゃんのことをよくわかってらっしゃるということよね、良かったわ」
涼子が何の話をしているのかをようやく悟った暁斗は、赤面を禁じ得なかった。いやまあ最近は確かに、俺が専ら受け身ですが‥‥‥奏人さん何言ってんだ‥‥‥。
「とにかく行きましょう、かなちゃんの顔をちゃんと見るのも10年くらい振り? まあ相変わらず童顔ね」
「それいつまで言われるのかなぁ、僕30過ぎたんだけど」
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