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スウィーツ・エキスパンド・アット・コーベ

17:30

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 日が少し傾いてきたとはいえ、日差しはまだ強かったし、海までの道のりはそこそこ長かった。しかし暁斗は、時間を気にせず奏人と他愛ない話を続けていいという状況そのものが嬉しくて、暑さも距離もそんなに気にならなかった。
 情緒があるとは言い難い、車の多い道を進んでいくと、潮の香りがはっきりと感じられた。風が無いので、海のすぐそばまで来ている割には、その香りは察知しにくい。しかし目的地が近づいている確信を得られて、ふたりの足取りも自然と元気を取り戻した。
 ようやくメリケンパークと書かれた石の標識が見えた。建物がいくつかあり、その向こうに、のんびりとした広場がある様子だ。犬を連れた人たちが中に入っていく。
「海洋博物館があるんだけど、もう閉まっちゃったね」
 奏人は残念そうだったが、博物館を一日に2つもめぐろうとは思わないので、暁斗はちょっとほっとする。
 足を進めると、複数の家族連れやカップルがたたずむ場所が見えた。奏人が小さく言う。
「震災遺構みたいだよ」
 もう少し近づくと、その場所だけが異様な姿をしていることに気づいた。傾いた街灯、地割れの中にたゆたう海水。大震災の時に被災した波止場の一部分を遺しているのだ。――何かの災害で東京が埋まってしまったとして。奏人はさっきそう言ったが、この土地ではそれに似た瞬間が確かにあったという事実を、暴力的に突きつけられた気がした。しかもそれは、そんな大昔に起こったことではない。
 遺構を眺める人たちは、誰もが言葉少なに佇んでいた。奏人は割れた石の間に溜まる水を見つめていた。
「井上さんの直接の知り合いに被災者はいないらしいんだけど、お父様やお母様のお知り合いで神戸方面にいらした方の中には、家が全半壊したり家族が亡くなられたりした人もいるって聞いた」
 暁斗は結婚式で少し話した、井上芙由美の明るい両親の顔を思い出していた。
「僕は当時のことはほとんど覚えてない」
 奏人の言葉に、久しぶりに暁斗はジェネレーションギャップを覚える。
「俺は高校受験の直前だったな、毎日ニュースで映像を見て怖いと思ったし、首都直下型地震の話も出るから何だか落ち着かなかった」
「心を乱されるね、受験の時なんて」
 文字通り地面が震えれば、人間の生活なんてひとたまりもない。自分たちは、そんなはかなくてちっぽけなものを守るために、日々悪戦苦闘しているのだと暁斗は思う。でもそれは、決して虚しい行為ではなく……だからこそ日々の小さな幸せが愛おしく……暁斗には上手く言葉にできない。会社の「全てのマイノリティのための相談室」のニューズレターに、ほぼ毎月何か書いている暁斗だが、思いが人に伝わるように言葉を選ぶことは、とても難しい。言霊を操るような奏人でさえも、今はきっと思いを言葉にしにくいのだろう。その後しばし何も話さず遺構を眺めてから、ゆっくりとその場を離れた。
 少し歩くと目前に芝生が広がり、その先に海が見えた。大きな客船が停まっているのも目に入る。半円に似た形のホテルの白い建物が、太陽の光を浴びて窓をきらきらさせていた。
「わぁ、海……」
 奏人は嬉しそうに言い、芝生を横切ってそちらに向かう。彼が楽しそうに振る舞うのを見るのは、いついかなる時においても暁斗の喜びである。暁斗はゆっくりと奏人を追った。
 風が無く海は凪いでいたが、それでも水面みなもは光を受けてちらちらと輝いている。遠くに進む船、飛ぶ鳥、そして潮の匂い。水平線は光に霞んでいる。ごちゃごちゃした都会に押し込められたように見えなくもないが、そこに広がるのは海に間違いなかった。
「何だかこんなところで海が見えるの? って感じがするね」
 奏人は暁斗を振り返りながら言った。同じことを考えているのかと、少し可笑しくなる。「BE KOBE」という大きな字の白いモニュメントには、たくさんの人が集まっていて、字の間から顔を出し写真を撮ったり、もたれかかって海を眺めたりしていた。奏人も写真を撮りたいようだった。
「誰かにツーショットで撮ってもらいたいなあ、来年の年賀状に使おうよ」
「えーっ、写真入りの年賀状にするの?」
「こないだの井上さんの結婚式のでもいいけど、僕らが式をしたって勘違いされそうだし」
 暁斗は若いカップルが文字に隠れるようにして、手を伸ばしてポーズを決めているのを見て、やや気恥ずかしさを覚えた。いい年をして俺たちがあれはないだろう……。
 奏人は人が引くのを待つことにしたのか、文字の近くに行って、海に視線を向けた。
「思いきって来て良かった」
 奏人は遠くを見たまま、自分に言い聞かせるように言った。
「ゴールデンウィークの都会なんてどうかなと思ったんだけど……僕も暁斗さんも人ごみは好きじゃないし」
 暁斗は答える。
「思ったより混雑してないんじゃないかな、天気もいいのに……北野の異人館のほうはこんな風にはいかないかもしれないけど」
「明日行くでしょ? お昼は南京町で」
「奏人さんが行きたいなら混んでてもつき合うよ」
 言いながら暁斗は、やはり奏人とこんな風に海を見ながら会話しているという事実を不思議に、また有り難く思う。去年の今頃は、全く想像もつかなかった光景だからである。奏人の帰国がまた先延ばしになって、暁斗は悶々となっていた。広い部屋に引っ越してしまっていただけに、独りの寂しさが身に沁みた。
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